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「北海道幌別漁村生活誌」

第八章 鰰網

 鰰(はたはた)は、十一月の初め頃から、十二月の末にかけて、多く獲れる魚である。
 いつもは、何處に居るのか分らいな、十一月頃になると、産卵の爲に、陸の近くへやつて來るのである。
 鰰は、ゴモや昆布類の生えてゐる磯へ産卵するので、當地方では、登別の前濱で、多く獲れる。
 漁季(しの)は約一箇月である。
 この短い漁季(しの)の間に、大漁の處では、五百箱も獲れる。
 値段は、はしりで、一箱八、九圓から十圓位、盛りになると、五、六圓である。
 網も極く小さいので、屑網を集めて造れるし、漁季(しの)も閑散(ひま)な時であり、且つ 短期間なので、四、五人で組んで、山師にやつて見ようとする者が、大分ある。
 登別の前(まい)濱には、私の家でも鰰の場所が有つてゐたので、三年ばかり續けて、鰰網をやつたことがある。
 その鰰も、昭和二年三年の頃から、ぱつたり獲れなくなつて、今では十二月頃になつて、その季節が 來ても、
 「魂消(たまげ)たもんだ、あんなに獲れた鰰まで、獲れなくなつたんだからな!」
と嗟嘆するだけで、
 「鰰網をやる!」
などゝ言ひ出す者は、一人も無くなつてしまつた。
 年中行事になつてゐた鰰網も、もう無くなつてしまふことゝ思ふので、昭和三年の冬、私が體験 した鰰網のことを、こゝに書留めて置く。
 十一月の二十日、昨夜から支度してゐたので、別に仕事も無かつた。網や蒲団や米を積んだ 舟を押出してから、私は二番汽車で登別へ行つた。
 停車場(ていしやば)から、線路傳ひに、幌別の方へ戻つて、登別川の鐵橋 を渡つて、そこから直ぐ濱へ出た。
 もう舟は着いてゐて、マキドまでちやんと出來てゐた。
 皆は濱から荷物を運んでゐた。一番下積も網を殘した外、全部運び終へてから、持つて來た 握飯で、晝飯(ちうはん)を済ました。
 少し休んでから、船頭の板久孫吉伯父が、
 「俺達行つて網建てゝ來るから、お前済まないけど、鍬持つて其處ら邊(へん)から、 茅だの、虎杖(どんぐい)だの、刈つて置いてけれ!
 沖から歸つたら、直ぐ家建てるからナ!」
と私に言ひ置いて、
 「さあ、行つて建込んで來るべや! 早くして、番屋拵へないば、晩に寝る所(どこ) 無いど!」
と笑ひながら、私の兄ともう一人の若者とを促して、濱へ出た。
 舟を押しやつて、ゴロやシタを揚げてから、鍬を持つて、その邊に疎に生えてゐる茅や、 虎杖(どんぐい)や、蓬などを刈集めて運んだ。
 西の方は栗林牧場で、エアシャアや、ホルシュタイン種の牛が、小高い丘に 散らばつて、草を喰つたり、日向ぼつこをしたりしてゐる。そこからずつと續いて、冨浦の 岬が南の海中に突出てゐる。
 東には、フンベ山が、波打際に、背中を高くして、蹲つてゐる。この山の四圍から、 石材を採つてゐるので、崩された所ばかりで、山と云ふよりは、岩と云つた感じである。
 北には、驛と街とが直ぐ近くに、そして倶多楽湖(くつたらこ)の山などが遠くに、見える。



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 舟が揚つたので、手𫝊ひに行つた。私がシテを取る。伯父と若者とが卷く。 兄が舟の所で繰(からくり)番をしてゐる。やうやく間に合ふ人数である。
 少し卷いたら、
 「もう好(い)かべ、今に直ぐ出るんだから」
と、濱の兄に聲を掛けながら、伯父はシテを卷棒に絡んで止めた。
 いよいよ建築に取掛つた。
 積んで來た丸棒を柱に立てゝ、骨組を作り、それに全部●を張った。私の刈つて 置いた茅や虎杖は、家の中へ六、七寸の厚さに敷いた。そしてその上へ筵を二枚 重ねて敷いたら、一寸家らしいものが出來た。
 天井へは帆を張つた。二尺位の丸木を四本、四角にして爐を拵へた。四隅は木串 で止めた。その中へストーブを据ゑて、煙筒を取りつけた。
 これだけの仕事は一時間位で出來た。
 「さあ、出來上つたど。なかなか立派な別荘だ。ハッハッハ!」
と、伯父は面白さうに笑つた。皆も笑つた。
 陽が西の山蔭へ落ちて、四時の汽車が大きな音を立てゝ鐵橋を渡つて行つた。
 「そろそろ晩になつたな。行つて起して見るか。お汁(つけ)の煮汁(だし)ぐらゐ乗つてるべ!」
と伯父は二人を促して濱へ行つた。
 私は米を入れた鍋とバケツを縄で縛つて、これを棒の兩端に結んで、川まで擔いで行つて、米を磨いだ。 歸りにはバケツに一ぱい水を汲んで來た。
 それから、その邊(へん)を歩き廻つて、漂流木(よりき)を集めて、やうやく御飯を焚き終つた頃、舟が 揚つた。
 チカと、キウリと、小さな鰰と、混ぜて二升程獲つて來た。それをお汁にして、 夕飯を食べた。もう薄暗くなつてゐる。
 「さあ、あんまり暗くならない内に、石炭(たん)買つて來るべ」
 と、伯父は古びたぢぎりを腰にさしながら、外へ出た。皆も支度して後へ續いた。
 街で、私は石油を一升と、その他砂糖や、麦粉などを買つた。他の人々は、買つた石炭を魚箱 に入れて背負つた。
 家へ歸つて、ランプを點けて、ストーヴに石炭を焼(く)べたら、漸く「家」といふ感じがして 來た。
 少し暖まつてから、一同支度をして沖へ出た。私だけ後に殘つて、火氣を絶やさないやうにしながら、 ランプの下で本を讀んで、待つてゐた。
 十ニ時まで待つても、舟はあがらなかつた。到頭我慢しきれなくなつて、ストーヴに炭をどつさり 焼(く)べて置いて、床に這入つた。
 翌朝、眼を覺して、柱へ掛けて置いた目覺時計(めざまし)を見たら、五時半であつた。伯父が朝飯の 支度をしてゐた。私の兩側に、兄と若者がまだ寝てゐた。
 戸外へ出て見ると、一面眞白な雪だ。夜明けに降つたらしい。
 「初雪もこんなに降つたら、面白くないな」
と、伯父が言つた。
 入口に魚箱が二つ重ねてあつて、下の箱にチカ混りの鰰が、四分目ほど入つてゐた。
 御飯が出來た。兄達も起きた。四人で、爐の圍りに坐つて、朝飯を食べてゐると、 五十集屋(いさばや)が三人來た。伯父が外へ出て、暫く交渉してゐたが、
 「初漁だもの、高くないさ。買へなかつた、買はなくつてもいゝ。俺が今、籠さ入れて、 街を一廻りして來れば、直ぐ無くなるんだ」
と言ひながら、這入つて來た。
 それから少しの間、戸外(そと)の三人は相談してゐたが、一人が家の中へ這入つて來た。
 「少し高い様だけど、縁起もんだから、買つて行くべ」
と言ひながら、同巻から古びた與市兵衛財布を掴み出した。
 「何が高いつてよ。この寒いのに夜通し沖に居て、八囘も網起して、やつとこんだけ獲つて 來たんだ。安いもんださ」
と、伯父は言ひながら、四杯目の御飯を、テンコ盛(もり)に、茶碗を盛上げた。
 「本當によ。夜明になつてから、雪は降つて來るし、寒くて沖からあがれば、陸廻(をかまわ)り は火も焚かずに鼻音して寝てるしな」
と、兄が私の方を見ながら言つたので、一同がどつと笑ひ出した。
 「おい來た!」
と、五十集屋は皸の切れた汚い手へ、五十銭銀貨と十銭白銅とを取混ぜて、二圓八十銭載せて、差伸べた。
 「いやあ、どうも!」
と言つて、伯父も、五十集屋に負けない様な、節くれ立つた、大きな 手を出して、それを受取つて、私によこした。



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 食後、一同は網を直しに沖へ行つた。私は箱板の荷造りを解いて、箱打ちを始めた。
 雪は十時頃までにすつかり消えて、昨日の様に暖い陽が照つた。
 舟は一時間ばかりであがつた。板子の上で、三寸位の鰰が五、六匹と、七八寸のキウリが 二本、時々思ひ出した様に、ばたばた暴れてゐた。
 「俺達、先に飯(まゝ)食つて、少し寝るからな。三時頃になつたら、起こしてけれよ!」
と、伯父はさう言つて、陸へ上つて行った。
 私はそのまゝ砂の上に腹這ひになつて、暖い小春日を浴びてゐた。フンベ山の崩れた崖の上に、 潮風に吹晒らされて、いぢけた柏が五、六本生えてゐて、その一つに、小さい磯鴉が一羽止つて、 かすれた聲で頻りに啼いてゐる。川向うへ、今日廻つて來た中濱さんの人達は、昨日私達がした 様に、一生懸命丸太小屋を掛けてゐる。
 昨夜十二時頃寝たので、陽に照されてゐるうち、眠くなつて來た。そして私はいつもの様に、砂の 上へ横になつて、眠つてしまつた。
 「●}
と、耳許で波のがつぱ折りの音がして、横顔へ
 「さあつ!」
と狭霧が掛つた所へ、眼が覺めた。
 陽の光も鈍くなつて、大分西の方へ寄つてゐた。欠伸をしながら起きて見ると、直ぐ傍の舟の中に、 伯父が煙管を咥へて、何か仕事をしてゐた。
 あんまり天氣が好いもんだから、つい好い氣持で寝込んでしまつた」
と言ふと、伯父は厚い掌へポン!と煙草の吸殻を落して轉(ころが)しながら、
 「うん、家でも奴等寝てゐたつけ。行つて、沖さ行く、つて起してよこしてけれ!」
と言つた。
 舟が沖へ出た後で、夕飯の支度をした。戸棚が無くて不便なので、魚箱を三箇重ねて、戸のない戸棚を 拵へた。そして、そこへ皆の茶碗や箸を入れたり、醤油瓶や鹽なども入れた。
 「おーい!」
と呼ぶ聲がするので、戸外へ出て見ると、マキドの所で、兄が手を擧げて呼んでゐる。 急いで手傳ひに行つた。
 鰰が二分目ばかりに、大きなキウリが、手籠いつぱいあつた。
 「串拵へてな、晩でも暇な時、これ焼いて置いて、幌別さ歸る時の土産に したら好(い)かべ」
 と伯父が云つた。
 夕食後、一同は再び身拵へをして、ストーヴをどんどん焚いて、顔が眞赤になる位 暖まつてから、沖へ出て行つた。
 私は川ぶちに行つて、榛の木の枝を一抱へ採つて來て、爐端に坐つて、串を削つた。 十本位削つてから、それらは全部五、六匹づゝキウリを刺して、ストーヴの周圍に立てた。そして、それが 焼ける迄に、又次の串を削つた。焼けた魚は、串のまゝ屋根裏の煙突に近い所へ刺した。
 退屈なので、焼けたキウリを二、三匹皿にとつて、醤油をかけて食べて見たが、あまり生きがいゝ っせゐか、胡瓜臭くて不味(まず)かつた。
 全部焼き終へたら、九時になつた。屋根裏は魚だらけになつた。外は眞暗で、入口に垂れてある 筵の隙間から、磯臭い風が吹込んで來る。やませらしい。浪の音も大きくなつた様だ。
 ストーヴに石炭をどつさり焼(く)べて、横になつた。今日濱で晝寝をしたのに、夜になつて、一人ぼッち になると、何だか眠い。ストーヴの暖いせゐもあらう。
 何だか濱の方から
 「オーイ」
と云ふ聲が聞えた様な氣がした。始終濱の方へばかり氣をとられてゐるので、なかなか敏感だ。ストーヴの 「ごー」と燃える音と、「スースー」といふ戸口から風の這入つて來る音とで、判然(はつきり)聞えない。
 氣になるので、外へ出て見た。案外吹いてゐる。黙つて聴耳を立てゝゐると、濱から 浪の音に混つて話聲がする。
 「あがつたかな?」
と思つてゐると、「ギーイ」といふ坊主(ぼんず)の軋る音が聞えた。舟を卷いてゐるのだ。
 家へ這入つて、頸卷を卷いて、石炭をどつさり焼(く)べて、濱へ走つた。
 三人しか居ないので、兄が一人で唸りながら卷いてゐた。
 「やあ、済まない」
と言ひながら、私は兄と反對側の卷棒に掴まつた。
 「何んぼ呼ばつても返事しないから、又寝てゐるんだと思つてゐたんだ」
と兄は言つた。時化模様なので、網を取つて來たのだ。
 仕事が済んで、家へ這入つたら、十一時であつた。それから又ストーヴをどんどん焚いた。 煙突が二尺位上まで眞赤になつた。家の中は宛然(まるで)温室の様だ。
 「お、澤山(がつぽり)焼いたな」
と、伯父は屋根裏を見上げて笑つた。
 「一匹づゝ喰ふべ」
と、兄は立上つて、一串抜取つた。
 翌朝は風も凪いで、案外好天氣であつた。伯父達は早く網を建込みに行つた。
 舟押しを手傳つてから、濱をぶらぶら歩いた。海藻や木片などゝ一緒に、握り拳位の 小さなブリ子があがつてゐた。氣を付けてよく見たら、澤山あがつてゐる。美味さうな のを五つ六つ拾つた。もう眼が出來て、卵の中でクルクル動いてゐるのもあつた。
 その日の午後六時の汽車で、子の入つてゐる大きな鰰を少しと、キウリ の焼干と、拾つたブリ子の塊を土産にして、幌別へ歸つた。
 それから約二十日位で、一同は切揚げて來た。鰰網はただ經費を獲つただけで、結局儲けにならなかつたのである。



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第九章 蟹 網

一 蟹網の沿革

 蟹は五六年前迄はあまり顧られなかつた。
 その時代には蟹を獲る専門の漁師なども居なかつたし、蟹漁を主とした 漁具なども勿論無かつた。
 ただ鰈漁の刺網や手繰網などの副産物として獲れるだけであつたが、多く 棲息してゐたので漁獲數は多かつた。(普通で百五十パイ位獲れた)
 獲れたものは殆ど村内で消費してゐたが、値段は一パイ一銭か二銭の安値であつた。
 五十集屋(いさばや)は漁師から一銭位で買つたものを茹(う)で蟹にして、 登別温泉。カルゝス温泉・幌別鑛山・硫黄山等へ擔いで行つて一パイ四五銭に賣つてゐた。
 併し一ニ月頃になると、夜陸へ這い上るのを皆が拾ふので、海に近い所では殆ど賣れなかつた。
 近年鰮の味醂乾が出來、鯳(すげそ)の粕漬が出來、鯖が花鰹節になつたりなど、水産物加工が隆盛 になつたので、昭和七八年頃から毛蟹も、亦罐詰として市場へ進出する様になつた。
 そして白老・登別・豊浦等に各會社が罐詰工場を建てる様になつてから、今迄二束三文であつた 蟹が急に黄金色に輝き初めたのである。
 各會社では、澤山の蟹刺網を仕入れて直營の蟹漁を初める一方、各地の漁師に網を貸付けて 原料の増加を計つた。
 そのうち、個人で網を買ひ込み、これを漁師に貸付けて漁獲物を安く買ひ上げ、それを罐詰會社へ賣り込む 中間商人も出現した。



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二 蟹網の經營方法

 會社と漁師及び中間商人の間に存在する關係に從つて左記四種の經營方法が成立する。
 1 會社が直接漁師に網を貸付ける方法。
 會社が直營の刺網以外に漁師に網を貸付けることは前にも一寸述べた。
 その貸付法は、漁獲物の二割を網代金に充當して、漁獲高より差引くのである。
 例へば、一日二圓の漁なら、二十銭は網代金として納め、殘額一圓八十銭が其の日の収入と なるのである。
 そして、この網代金を完済してしまふまでは、他に高價に買入れる處があつても、 契約會社以外へは賣却出來ないのである。
 完済してしまへば、網は漁師の所有に歸し、その後何處へ賣却するとも漁師の自由である。 (貸付といふより寧ろ貸賣といつた方が適當かも知れない。)
 會社では各部落毎に一人づゝ監督を兼ねて蟹を買集める買子(かひこ)といふものを置いてある。
 買子は大抵その部落の居住者で、毎朝舟のあがる頃濱へ來て、その日の蟹の數を記帳して受取つて行く。 自分の受持區域から集めた蟹は五十パイ一個の叺詰にして會社へ發送する。
 この買子の収入は蟹一パイにつき普通五厘位である。
 2 仲買人が會社から網を借りて來てそれを漁師に貸付ける方法。
 この方法では、仲買人を網代金として漁獲物の二割を徴収して會社へ納め、その他は自分で 買上げてその會社へ賣るのである。
 會社にとつては、直接漁師に網を貸した方が有利であるが、併し原料を多く集めるため、こんな方法も してゐるのである。
 何れにしても、漁師は仲買人に關係のあるのを喜ばない。それは仲買人達が、會社に賣込む時の値が安いと、 漁師の方の買上値をどんどん下げるが、反對に會社に賣込む値が幾ら良くても、その割に漁師からの買上値を上げない爲である。
 3 仲買人が自費で網を買入れてそれを漁師に前記同様の返済方法で貸付けて蟹を集めて會社へ賣込む方法。
 これ等の仲買人達は、會社で買入れる値が高ければ漁師から買上げる値も高くし、安ければ漁師の方の値も下げるのである。
 この種の仲買人の中には、網代金として漁獲物の三割を徴収してゐる者もある。
 4 漁師の獨立經營
 前記のいづれの方法にも依らずに獨力で網を買つて經營してゐる漁師もある。
 これらは直接會社や都市の魚菜市場へ出すので、収益は一番大きい。
 以上四種の經營法の中で、漁師にとつて最も利益の多いのは、何と云つても(4)の獨力經營 である。その次は會社と直接に關係を有つ(1)の經營法で、その次は仲買人による(3)の經營法 である。仲買人による(2)の經營法に至つては利益が最も少い。
 近年漁獲される蟹の大部分は罐詰工場で消費されるので、都市の魚菜市場でも品不足を呈し、その爲 賣行が頗るよい。
 その爲獨立で經營する者は非常に有利なのであるが、漁業組合等も有名無實なので、資力に乏しい 漁師は、大部分網を借入れて經營してゐる。
 獨立で經營してゐるものは全體の一割にも過ぎず、殘りの九割以上のものは他の 三種に等分されて經營してゐる。



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三 蟹の種類と漁獲高

 1 ケガニ(毛蟹)
 蟹網の對象となるものは主として毛蟹である。その漁獲高は年によつて違ふ。
 昭和九年は大漁で、一反に普通十五六パイ。
 昭和十年は中漁で、一反に普通十パイ前後。
 昭和十一年は大不漁で、一反に普通三四ハイの漁であつた。
 いずれの年でも、大漁の日は普通漁の二三倍で、不漁の日は普通漁の半分位である。
 一(ひと)ノシは十反位なので、昭和九年の一日の普通漁は百五十パイ前後であるから、一パイ 五銭の割で一日の儲は七圓五十銭前後であつた。
 然るに昭和十一年は普通漁が一日三十パイ位であるから、儲は一日一圓五十銭位にしかならなかつた。

 2 タラガニ(鱈蟹)
 タラガニとはタラバガニ(鱈場蟹)のことである。
 これは二月頃から獲れ初める。
 普通一、二ハイ。多い時は五、六パイ位獲れる。
 雄なら賣るが、雌は漁獲を禁ぜられてゐるので、賣却は出來ない。



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四 蟹の棲息地帯

 蟹は岸から五間乃至四十間位の海に棲んでゐる。
 年によつて差異はあるが、夜の十時頃から夜明けの三時頃までの間に、五間乃至五十間 位の處に集まり、陸へ這ひ上るものも多数ある。
 この陸へ這ひ上るのは、一月二月の 嚴寒時である。
 この季節になると、村人は夜通し海岸を歩いて蟹を拾ふ。
 月の無い夜などは、提灯を點けて歩くので、拾い殘した蟹に、翌朝鴉が集(たか)つて ゐる光景を、よく見かける。
 「蟹拾ひ」は村の年中行事の一つになつてゐる。
 十年ほど前、一夜に數千萬の蟹が、岸へ這ひ上つたことがある。その時は、二間位の巾で、 一里位も帶を延ばした様に、あがつた。
 この時の蟹は、外皮が更新されたばかりで、薄い皮をかぶつた、「ベタ蟹」又は「毛替(けがは)り蟹」 と云はれてゐるものであつた。
 これらはベタ蟹の中には、約一割位良い蟹が混じつてゐたので、村人は殆ど總出で、この中から 良い蟹を拾ひ集めた。
 その後も二三囘こんなことがあつたが、それらの時は、ベタ蟹も肥料として拾い盡された。br>

五 蟹の季節

 毛蟹は十二月から獲れ初めて、翌春三月下旬頃で終る。
 このうち、最も獲れるのは、一月二月である。
 漁師は、十一月頃秋漁季(しの)が終つてから、春漁季(しの)の初まる 四月上旬までの期間を、蟹網やホッキ卷で過す。

六 蟹刺網各部及び附属品の名稱

 1 アワタ
 漁獲物のかゝる部分である。
 二號の綿絲で六寸目に出來てゐる。
 網といふ語には廣狭二義がある。漁師が網と呼ぶのは、アシタナもアバタナも附いて 出來上つたものであり、漁師以外の人々が網と云つてゐるものは、實はこのアワタなのである。
 アワタは百間一丸(ひとまる)で二圓五十銭である。この一丸(ひとまる)は網が 二反出來る。

 2 アシ

 刺網のうち海底にあたる部分。即ちアシタネやアシ石などの附いてゐる部分(アシタナ等 をも含む)の總稱を、アシといふ。

 3 アシタナ
 アシの部分に附いてゐる綱である。
 アシタナは刺網のうちで最も高價であり、且つ最も重要な部分である。
 圖に示した様に網と網とを結び附けてある部分がアシタナであり、アンカいよつて網を 一定の位置に留めて置くにもアシタナである。
 又、漁獲物のかゝつた網を舟に引揚げる時、全部の力はアシタネにかゝるのである。
 蟹刺網に使ふアシタナはトワイン(twine)といふ麻綱に似たものである。
 トワインは一卷二圓五十銭位であつて、一卷でアシタナ卷卷二反半出來る。
 普通使用するのは「十二匁トワイン」といふ太さのものである。十二匁トワインといふ のは一尋の重量十二匁なるが故である。
 トワインのほか麻縄も使ふ。

 4 アシ石
 アシの部分を海底に落着ける爲に用ゐる石である。
 アシ石は、四百匁前後のものを川から拾つて來て、藁縄でカイて(※注一)、網をタク(※注二) 時に、それをアシタナに附ける。そして網を揚げて來てサヤメル(※注三)時に、とりはなして置く。
 普通網一反に三個の割で、アシ石を附ける。

 ※注一 カクとは石を縄でからむことをいふ。
 ※注二 一〇九頁注参照。
 ※注三 一〇九頁注参照。

 5 テンボ
 アシタナもアバタナも兩端がアワタより二尺五寸ほど長くなつてゐる。この長く なつてゐる部分をテンボといふ。
 テンボは網をテド(※注)つた時各、縛る役目を有つてゐる。
 アシの方のテンボはアシタネを、バの方のテンボはアバタネを、縛る。
 この外アシの方のテmmボは網が海中にある間他の網のテンボと結ばれてゐる用をなす。
 ※注 一〇九頁参照。



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 6 アバ(一)
 アバには廣狭二義がある。
 廣義には、アシと反對側の部分を、アバといふ。
 アバには、アバタナとアバ(狭義の)とが附いてゐて、アシと反對に、浮く用をなしてゐる。
 これらを總稱してアバといふのである。

 7 アバ(二)
 狭義には、浮木のことを、アバといふ。
 普通にアバといへば、狭義のアバのことである。
 アバは、長さ五寸、中央の直徑五分、兩端の直徑三分位で、中央部が太く兩端が細く出來ている。
 アバにはウスリの木が使用されてゐる。二日乃至三日交替で海中に仕事をしてゐるので、 アバは直ぐ海水を含んで重くなる。ウルシは最も乾燥の速かな木である故、アバに用ゐられるのである。
 北海道のウルシは水を含み易いので、アバに使ふウルシは主として仙臺方面から買はれる。 一枚一銭位である。
 アバは一反の網に四十乃至四十五枚位使はれる。

 8 アバタナ
 アバの方に附いてゐる細網をいふ。
 アバタナにはトワインの細いのを使ふ。普通使はれるのは「四匁トワイン」である。
 トワインの外、ツムといふものも使はれる。

 9 マユイ
 アワタの兩側はアバタナとアシタナに、一定の間隔を置いて、結びつけられえゐる。
 この結んだところを、マユイといふ。

 10 ヤリ縄
 網の兩端を押へてゐるアンカと兩端テンボの間に使用される網を、ヤリ縄といふ。
 麻縄かトワインが使はれる。太さはアシタナと同じ位。

 11 アンカ(anchor)
 錨のことをアンカといふ。
 網を一定の位置に留めて置く爲に使用するもので、兩方とも普通一貫五百匁くらいの重さのものを用ゐる。

 12 アンカ綱
 海底のアンカから海上のボンデンへ使つてある綱のことをいふ。
 ヤリ綱と同じものを使ふ。
 アンカ綱は普通海の深さの一倍半位の長さにしておく。

 13 ボンデン


 網の兩端の位置を示す浮標をボンデンといふ。
 ボンデンは圖に示した様に五尺位の靑竹か細い棒(何れも直徑七八分から一寸位のもの) の上部に小旗をつけて、それから三尺位下方に浮力を有するものをつける。普通は直徑一尺 位のガラス玉をつけるが、これの代用に直徑四五寸のガラス玉を六箇位古網に包んで 使ふこともあり、又桐のダンブ(浮木)などを使ふこともある。
 そして最下部へ石をつけておいて、旗竿が立つ様にする。
 其他蟹網に使用するもの。



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 14 カギ

 毛蟹は全身に棘(とげ)があり、尙強い鋏を有してゐるため、網から外づす時、 指などに往々怪我をするので、上の如きカギを用ゐる。


 15 火鉢

 石油罐を二つ切にしたものへ針金の手をつけて作る。
 これを炭火でおこして、沖へ持つて行つたり、陸で仕事をするときに手を翳したりする。

 16 スダレ
 茅を編んで作つたもので、濱で仕事をする時、舟に立て掛けて風除(かざよ)けにしたり、 夜は舟にかぶせて雪除(ゆきよ)けにしたりする。

七 蟹漁に從事する人及び舟の數

 一昨年の大漁年(どし)には二十パイ以上の舟が蟹漁に從事してゐたが、昨年不漁だつたので、 本年はホッキ卷(まき)やトロール機船の漁夫に轉向する者が續出しえt、數は三分の一に減少した。
 現在蟹漁に從事してゐる舟は七ハイで、從業員は十四名(悉くアイヌ人)である。
 このうち、四ハイの舟(人數八名)はホッキ卷を兼業してゐるので、蟹漁専門の舟は三パイ (人數六名)である。

八 刺網(さしあみ)の方法


 蟹を獲る爲に、刺網を投網(とうもう)することを、「網を刺す」といふ。
 普通刺網は二人で一パイの舟に乗つて出漁するものである。
 網の數は銘々同じで、一囘に十反(たん)位づゝ刺す。

 先づ舟が岸を離れると、西風の時は帆をかけて、風の無い時は二人で櫓をオシて、蟹の多い場所まで行く。
 場所に着いたら、第一にボンデンを海中に投げ入れる。そしてアンカ綱をその場所の海の深さの一倍半 位にしてアンカへ結び付け、アンカから又十五尋位ヤリ網を延ばして、その端へ網のアシタナの端(テンボ)を結び付ける。
 かくて、舟を沖の方へ風に任せて流しながら、一人はアシの方を、他の一人はアバの方を、海中に投げ入れる。
 一番先が甲の網なら次の網は乙のを、といふ様に、一反づゝ交互に結んで投網(とうもう)する。 時によつて沖の方に蟹が多い時と、反對に陸に近い方に蟹が多い時とがあるので、それを公平にする爲に、 一反づゝ交互に結んで刺すのである。
 全部刺し終へたら、最後のアシタナの端(テンボ)へヤリ縄を結び、それを十五尋位延して その端へアンカを結び、アンカからアンカ綱を水深の一倍半位延ばして、海面へボンデンを 浮かしておくことは、最初と同じである。
 兩方のボンデンの間隔、即ち網の全長は、約五百間である。(漁師の用ゐる一間又は一尋 は五尺である。)
 この一つの長さを「一(ひと)ノシ」又は「一配(ひとはえ)」と稱する。
 この網は翌々日あげる。そして一昨日刺して置いた網を今日あげるのである。

九 蟹漁の一日

 朝起きるのが四時半頃、食事を済ませて火鉢に炭火を入れて濱へ出るのが、六時頃である。
 舟が岸を離れて行くと、「陸廻り」(※注一)は卷綱(まきづな)を延ばしたり、ゴロやシチ木 など波に流されぬ様に引揚げておいたり、ハセ(※注二)に掛けて干してある網を 下(おろ)したりして、その日の仕事を準備しておく。
 舟が漁獲物のかゝつた網を積んで歸つて來るのは、八時頃である。
 舟が陸に近づくと、家の人々はそれぞれ支度をして、モツコや五十集籠(いさばかご)などを 持つて、濱へ出る。
 舟が岸に着くと、卷綱をかけて卷くのである(第五五頁マキドの圖参照)。
 汀から五六間卷あげた所で舟を止めて、此處ですぐ仕事に掛る。
 西風が寒いので、西の方を茅のスダレや帆布などで圍ひ、その蔭で仕事をする。
 先ず漁獲物の蟹を初め、鰈、ヤステなどを網から外づす。
 軍手をはめて仕事をするのであるが、直ぐ濡れて冷くなるので、火鉢にはたくさんの炭をくべて、 手をあぶりながら仕事を續ける。
 漁獲物を外づしていまふと、今度は二人掛りで、この網から小さな藻屑や木の葉 などを取り除き、クマつた所をほぐしたりなどして、サヤメル(※注三)のである。
 サヤメてしまつた網は、特長(とくなが ※注四)を履いた人が、海の中で波にたゝかせて、泥を 洗ひ落す。
 洗つてしまつた網は、しぼつて籠かモツコに入れる。
 かうして、漁獲を外づす、網をサヤメル、洗ふ、といふ作業を順々に續けて、濱の 仕事は終るのである。
 濱の仕事が終つたら、蟹は受取りに來た買子に數へて渡し、その他の鰈や鴨は家へ 運び、ヤステは干場(ほしば)へ運んで乾燥させる。
 洗つてしぼつて置いた網は、家の前へ運んで來て、ハセに懸けて乾す。
 これが全部濟んで、皆が家の中へ入るのは、十一時頃である。そこでストーブを圍んで、 つくり體を温めてから、晝食を食ふ。
 晝食後は、陸廻りが朝の間にハセから下(おろ)して置いた網を、テド(※注五)つて、 濱の舟へ運んで、タク(※注六)のである。
 そして午後のニ時頃沖へ行つて、この網をサシ(※注七)て來る。網アシは二時間位で陸へ歸つて來る。
 刺網を終へて陸へ歸つて來る頃は、既に四時を過ぎてゐて、短い冬の陽は暮れかゝつてゐる、 これから夜の八時頃まで、その朝あがつた網を一反づゝハセから下(おろ)して、家の中で、 この網をキュ(※注八)つたり、あまり水を含み過ぎて用をなさなくなつたアバを取換へ たりして、手入れする。
 手入れを終へた網は、再び外へ出して、ハセに懸けて、翌朝まで乾しておく。
 これで、蟹刺網の一日は、完全に終るのである。
 
 ※注一 「陸廻り」。陸に居て雑務に任ずる者をいふ。
 ※注二 「ハセ」。網を乾す乾場のことである。
 ※注三 「サヤメル」。網に引つかゝつてゐる小さなゴミや藁屑を取つたり、クマつて (もつれることをクマルといふ)ゐる所をほぐしたりしながら、アシタナとアバタナを兩方 へ張つて、アシタナ・アワタ・アバタナをきれいに揃へることをいふ。
 ※注四 「特長」。股のところまであるゴムの特長靴のことで、沖へ行く人は大抵これを履いて行く。
 ※注五 「テドル」。サヤメた網をハセに懸けて乾して、それが乾せえてしまふと、家の中へ入れて 繕ふのであるが、繕ひ終へたものは。アシタナを直徑六七寸位の輪にして、兩方のテンボで縛る、アバタナも、 きれいにアバを揃へながら集めて、テンボで縛る。この操作をテドルといふのである。
 ※注六 「タク」。テドつた網を舟に入れて、アシタナにアシ石をつけたりなどして、海に入れる 様に拵へることを、「網をタク」といふ。
 ※注七 「サス」。投網することをいふ。
 ※注八 「キユル」。網の目の切れた所を繕ふことをいふ。



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十 舟賃のこと

 蟹刺網・ヤステ縄等は、磯舟に二人づゝ乗つて、出漁するものである。
 仕事の關係で、舟は一パイであるが、人は二人である。
 二人共舟を有つてゐない場合は、舟を借りるのである。舟賃は、普通一ケ月 四圓位なので、二圓づゝ分擔する。


十一 蟹網の副産物


 イ 鰈(かれ)
 蟹網は目が比較的小さいので、鰈には適しないが、十二月一月の頃は、一(ひと) ノシで五六マイ、多いひは二三十マイ位獲れる。
 種類は、石モチ・黒ガシラ・眞鰈(まがれ)・豚鰈(ぶたがれ)・タカノハ・ババガレ等である。
 潮蟲やヤステなどに傷けられたのは自家用にするが、その他は賣つて金に代へる。

 ロ 杜父魚(かぢか)
 多くは獲れないが、いつも一本か二本位づゝ獲れる。
 種類は、鍋コワシ・トウベツ・ヤマノカミ・ベロカジカ等である。
 杜父魚(かぢか)の類は殆ど賣らずに食べてしまふ。

 ハ カスベ
 普通ニ三枚位獲れる。
 あまり良い味ではないので、賣行も好くない。殆ど自家用である。

 ニ ゴツコ
 一月頃から獲れる。
 普通一匹か二匹である。
 生(なま)の間は味が良くないので、卵だけを食べて、體は乾して置いて、時化(しけ)の時などに食べる。

 ホ 海鳥
 主に獲れるのは黒鴨である。その他アウナ・ヘイケクオシ・ウミスズメ等も獲れる。
 一ノシに三四羽位は普通である。
 これらの鳥は網にかゝつた魚を襲ふのであるが、やり損ねて首や足などを網の目に引つかけ、 木乃伊とりが木乃伊になつてしまふのである。
 多く獲れた時は一羽二三十銭位で賣うるが、普通は料理して夕食の菜にしてしまふ。

 ヘ ツブ
 多い時は二三十もかゝる。
 普通は濱で仕事をしながら、各自火鉢の炭火の上に載せて焼いて、海の水で洗つて食ふ。

 ト ヤステ
 一のしの網で五六貫位まで獲れるのが普通であるが、時化を喰つた網や、長く留めて 置いた網などでは十五六貫位も獲れる。
 一番多く獲れるのはマンヂュウヤステで、次はオニヤステである。これは蟹とマンヂュウヤステ の場所が同じだからである。
 時化後の網はなどには、よく一抱もあるヤステの大團塊が、かゝつて來ることがある。このヤステ の大團塊の中には、必ず大きな鰈や鴨が、無惨な最後を遂げてゐる。
 ヤステは棘だらけなので、網の目を破ることが甚だ多く、ヤステの大漁が續くと、新らしい 軍手なども、三日位で穴だらけになつてしまふ。

 チ 以上のほか、海豚(いるか)・海豹(あざらし)・蛸(たこ)など、稀に獲れることがある。



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第十章 ヤステ釣

 ヤステとはヒトデ(海盤車)のことである。
 當地方に産するヤステには次の如く種類がある。
 イ マンヂュヤステ(ババヤステ)
 五六尋から十四五尋の海底に棲んでゐる。
 背は薄紫色で、腹は橙色をしている。
 この種のヤステは、オニヤステに次いで多く産し、多肉で、最大なものは 一個三百匁位ある。
 肥料としては、ヤステ中の最上品である。

 ロ オニヤステ
 十五六尋から二十尋位までの海底に棲んでいる。
 背は薄樺色で、腹は薄い橙色である。
 ヤステ中最も多く産する。
 大きいもので百五六十匁位ある。全身棘の様な骨が出てゐる。
 肉量は少く、肥料價値は前者の半分である。

 ハ ハナヤステ
 オニヤステより更に沖の方に産する。
 楓の葉の様な恰好で、背は鮮紫色、赤い斑點がある。腹は橙色。-ヤステ中の美人である。
 數は少く、オニヤステの二十分の一位である。一個二十匁位。

 ニ モミヂヤステ
 前記三種の棲んでゐる場所一帯に散在している。
 背は薄樺色で、腹は白色がゝつた橙色。
 體は一番小さく、一個四五匁位である。

ニ ヤステの用途及び價格

 ヤステは作物の肥料に使用されてゐる。
 四種とも肥料價値はあるが、ハナヤステとモミヂヤステは數が少く、體も小さいので、 殆ど使はれてゐない。
 主に使用されるのは、マンヂュウヤステとオニヤステである。馬鈴薯・玉蜀黍・ 南瓜等の肥料にする。
 ヤステを肥料として使用するには、左記三種の方法による。
 一 生(なま)のまゝ
 大きいのは半分位に引裂いて使ふ。小さいのはそのまゝ。
 主として馬鈴薯の元肥(もとごえ)として、種子のニ三寸傍へ置く。
 南瓜には、大きいのは一個、小さいのはニ三個位置いて、その上へ土をニ三寸かぶせて種子を置く。
 ニ 乾燥して
 馬鈴薯などは三本位、玉蜀黍は二本位に、アシを引裂いて、前記同様元肥として用ふ。
 ヤステを乾燥するには、砂干(すなぼし)と棚干(たなぼし)とがある。
 砂干は、ヤステを濱の砂の上や、ムリッツ・ハマナスなどの草の上に乾すのである。
 棚干は、二尺位の高さに棚を作り、棚の上に萩や茅のスダレを置くか、又は二十四 番線の金網を張つて、その上へ乾すのである。
 棚干は砂干より少し値段がよい。
 三 腐熟させて
 正體無くベタベタに腐らせて、南瓜・玉蜀黍などの追肥(おいごえ)にする。
 價格は、生(なま)のものと乾燥したものとでは、二倍位の差がある。また、マンヂュウ ヤステとオニヤステとでも、二倍位の差がある。

  (ヤステの種類)   (生賣一貫)   (乾燥賣一貫)
  マンヂュウヤステ     五銭       十五銭
  オニヤステ        三銭        八銭
  二種混合         四銭        十銭
 現在一番賣行のよいのは、乾燥品及び二種混合品である。


三 ヤステ釣の季節

 ヤステ釣は、鰯の秋漁季(しの)が終る十一月中旬から十二月上旬に初つて、 翌春三月下旬、春漁季(しの)の初まる頃に終るのが普通である。
 ヤステ釣を専業としてゐる家は一軒か二軒で、大部分は蟹網などの副業をしてゐるのである。
 蟹や鰈が豊漁になると、専業の人々も忽ちそれに轉向するが、不良が續くと、 皆が蟹網やテグリを引揚げて、ヤステ釣を初める。

三 ヤステ釣の方法


 ヤステを釣るには針を用ゐない。
 普通米俵に使用してゐる様な藁縄の間へ、一尺位の間を置いて、底の尾や鰭 などを挟むのである。これを海底に沈めると、ヤステは澤山集つて、五本の足で すつかり餌を抱いてしまふ。それを引揚げて獲つて來るのである。
 ヤステ縄は普通五百間位の長いものを使ふ。
 一日二囘位、この縄を揚げて、ヤステを取つて、又沈めて置くのである。
 初日は餌が新しいので、乾燥品にして百貫位の漁がある。翌日は五十貫位、三日目 は約三十貫位で、餌は殆ど無くなるので、縄を陸へ揚げて來て、又餌を挟んで、海へ持つて行く。


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