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「山の想い出」幌別鉱山会(昭和46年4月発行)

幌別鉱山での思い出   奥山 俊次郎

 大正六年五月(数へ年二十三歳)山国の山形から初めての長い旅、 青森駅に下車し小さなはしけ船の乗り青室連絡船へ、夜通し波にもまれ 翌朝室蘭に着く。ここで一休みして幌別に、ここにある鉱山事務所出張所 で休んでいると山から迎えのトロッコが来た。
 やがて出発したがいくら行っても一軒の家もなく、山の奥深く入るだけで 心細くなった。しばらくして外灯が見える。
 こんな山の中に電灯が、とびっくりした。学校の前で降り髙橋校長宅 に行く。学校と続いている住宅、粗末な学校に先生は校長と奥様と私の 三人生徒は150人位だった。夕方合宿に案内され玄関正面の一室にそのすぐ の部屋には白が頭、白いひげをはやした水野老人が眼を光らせていた。私は何も こわくないが、役員初め労務者は非常にこわがっていた。
 鉱山の運動会は誠に盛大、山の役員達が主体で行われていた。近くの学校 からは大勢の見学、昼には赤飯の馳走、引率者その他にはビール、酒の飲み放題 のもてなし賞品も又素晴らしいものばかりで驚かされた。
 聞く所山(元山岩の崎銅、旭金、硫黄山は硫黄)の販賣部への卸問屋の寄附 だとのこと。私は山形弁まる出しで役員達に命令ー、どんどん進行させた。 校長も役員達に済まんように恐縮していたとか。
 山全体の人達がえらい先生が来てくれたと喜び信頼されるようになった。大正 九年一月、旭金鉱にある旭小学校長となる児童に20名、この山の鉱長は谷口菊次郎 氏、次長に柿下氏が居られた。学校のことは私に任せてと役員、労務者の子供を 区別せず相撲番付を採用して月々の成績を発表掲示するので子供は大関、横綱を めざして熱心に勉強するようになった。だが赴任して半年六月に旭と岩の崎が 休山となり硫黄のみとなった。



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 水野老人は奥山を山から離すなと支聴に行き交渉され硫黄山の先生 他校にやり 私がその後に赴任した。山の人も私の赴任を喜んでくれた。熊が出るという山道を 幼児二人を連れ、とぼとぼ歩いて少しで硫黄山に着く頃前から山賊の様な人が 二人来た一時びっくりしたが「先生ですか迎えに来ました」といい子供を背負ぶして 出発間もなく事務所に着き挨拶の後山の上にある学校に案内された。
 子供が百人余居るが、先生は私一人大変苦労して授業を行った。ここのお正月は賑やか で、各家庭で酒樽と御馳走の用意をする団体で各家を廻り飲んで食って舞って楽しむ女も 男も負けずにやって遊ぶ様子は実にほほ笑ましかった。
 大正六年(数へ年二十三歳)から十年十月迄(数へ年二十七歳)四年居たこの山に左様 ならして山の人々と涙の別れをし、汽車の通る海のそばで鰯の山程獲れる苫小牧錦岡 小学校長として赴任し同一校に満三十年勤続し、昭和二十六年五月教員生活を一応終止符 を打った。その後市立母子寮長、保育園長も勤め、三十年末停年退職老後を無理なく 暮していたところ交通事故と八十歳近い老人で寝たり起きたりしている現在である。鉱山会 皆様の健康でありますよう祈念しつつーーーー。



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あの頃   谷口 達三

 なつかしい幌別鉱山における私の記憶はどうやら五歳ごろから始まっているようですが、 あの笹小屋の校舎もおぼろげながら想い出されます。(新校舎が併用されたのは 大正二年七月で、笹小屋の校舎は同年二月、大雪のため倒壊と聞いております。)
 当時の私の家は藤沢さんと一棟二戸住まいでした。お隣りの一棟には小林さんと お医者が住んでおりました。
 後に役員の住宅が学校の附近に移ってからは取り壊され、火見櫓となったところでした。
 学校にあがるまでの遊び友だちは大正四年十期生として入学した山田清、下林北子、 児玉カネ、野村(名前は失念)さんたちに後輩の古川よっちゃんという連中。
 そのころ、第一次世界大戦中のせいか戦争ごっこがはやり、川をはさんで盛んにやったものです。
 私は幼なかったから一兵卒として、また冬は雪の坑道掘りの雪運びの馬となり、 上級生の下林、浮田、福田さん方の後に続いた想い出があります。なにぶんにもせまい 土地柄でしたから下林、児玉、山田、井上、藤沢、村川の各兄弟姉妹をとくに知って おり、第一期の田中昌五郎さんが札工に進学されたときなどは今の東大に合格された ような話題であったことも子供心に強い記憶になって残っています。



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 私は一学期は鉱山小学校でしたが、二学期からは一里山奥の分校旭鉱山特別 教授所に転校しました。
 そして六年生になった大正九年の春に旭鉱山も廃坑となり、仲間は日に日に 散り散りに山を去って行きとてもさびしく感じたものです。私の父も数人の方が 残務整理のため残ったので川崎某、井沢節子(二代目ミス・ワカナ、漫才師 ワカナ一郎とコンビを組み終戦後活躍)、私と弟の四人が一里下の鉱山校に 通学することになりました。
 私の教室は五年、六年と髙等科の生徒が一緒で受け持ちの先生は髙橋校長でした。 想い出す友人は石井三郎、小西、天野、五島君等で髙等科にいた佐藤小次郎さん も此の時、知ったものです。
 しかし、この通学もたった一学期で終りました。というのは父も山を離れ、私 の一家が室蘭に転任することになったからです。
 こんなわけで私の鉱山校に通学したのは一年生の一学期と六年生のときの一学期 でしたが、旭校は鉱山校の所属であったため、年に一度の運動会や遠足はもとよりなにか 催しがあるごとにいっしょ。芝居や活動写真が鉱山にくると旭鉱山からべん当持参、 トロッコに乗って見に行くのも楽しみのひとつでした。



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 旭鉱山には販売所のみで店が一軒もなく、したがって現金で物を買った経験は ゼロ。室蘭に転任して初めて現金で物を買うことを覚えたわけですが、最初のうちは すっかりとまどってしまい、友人にそっとたのんで買ってもらったのも全くなつかしい想い出です。
 あのころの鉱山の人たちの生活はあたかも一家族のようなもの。着るものも、食べる ものも、その日の話題も大体において変わりはなく、こう書いているうちにも当時の ことが次々とよみがえってくる次第です。
 話は飛びますが、昭和三十五年頃、私の家(室蘭)で鉱山校の先輩である中塚、 井上、天野兄弟、竹原さんたち、後輩の柿下、川上さん、それに奥山俊次郎先生が ご参加され、ここに幌別鉱山会が発足。いまでは会員も三十人近くとなり、会合は これまで室蘭四回、登別四回に鉱山、札幌、定山渓各一回と毎年欠かさず続けております。
 このことは幌別鉱山時代の生活がいかに印象深いものであったか、またなつかしい ものであったかを物語るものでありましょう。
 この会合も毎年のように常連が一人ずつ欠けてゆくのはさびしいかぎりではありますが、 たとえ残り少なくなったとしてもできるかぎり持続していきたいものと考えております。



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