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「寒 菊」

はしがき

 昭和四十六年の三月初めだったかと思います。当時、登別市関係のお仕事をされて いた故山内一郎先生のご要望がございまして、日野愛憙著「片倉家北海道移住開拓顛末」を 持参して、中浜登美子様(現市長夫人)のご案内で、市の史料室にお伺いいたしました。
 私は、孫の厚支が小学四年の頃、「郷土の社会」を学んでいるのを見て、明治初年の 移住苦闘時代のもようを、厚支あてに書いておおりました。そこで、それも共に持参いたしました ところ、先生は、この二つとも、是非「ぷやら」(登別郷土文化研究会誌)にのせた いと言われて、三月三十一日発行の「ぷやら」第四号に拙い文をのせていただきました。

 その後、世紀の激変ぶりを「お姉さまへの手紙」に書き、さらに日野家の生きざまを 「祖母 日野喜久子のこと」に書きとめておきました。子や孫に伝えておきたいと考えた からでした。ところが思い立つことがありまして、私の歩んできた人生をまとめてみる ことにいたしました。何分八十有余歳のこととて、記憶もおぼろで文も拙いのですが、親しい 方々に、登別市の開拓当時の筆に尽くせぬ辛苦と、陰で支えた女性の力を、また、激流にも 似た明治以降の社会の変貌と人間の生きざまなどを、くみとっていただければ幸いです。

 なお、これが発行にまでこぎつかれたのは、編集や校正その他に、佐藤誠治先生から 一方ならぬご協力をいただいたからでございます。ここに心から感謝申し上げます。
   昭和六十年春         助川徳子(旧姓 日野)
 
 

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あじさい   ー 世紀の変貌と日野家

一、激しく変った世紀の追憶  ー 長姉への手紙

 お姉様 しばらくご無沙汰をいたしました。今年は例年にない厳しい寒さですので、長野の方は 雪も多くお寒いことでございましょう。その後お変りございませんか。当方では士良をはじめ 令子一家も風邪をひき、あの坊やまでがひきましたが、大したこともなく、ようやく一安心いたしました。 その中で、私だけが流行についていけないと見え、昔の者はとすぐ威張っております。
 

1 渡道し入植したころ

 昔といえば、祖母様にお聞きしたのですが、明治四年に祖父様に連れられて、まだ見ぬ 北海道幌別に来られた時は、省吾伯父様を一人抱いて、まだ若い人妻が胸を いためながら移り住まわれたのでした。そして迎えた冬は家は全部蒿屋であって、吹雪の ときなど、天井から降りしきるありさまで、寝床など真白になったとのことでした。その中を 省吾伯父様が這いまわるので、若い身空の祖母様は、寝る間もなく夜を明かした、と話されておられ ました。
 

2 喜ばれなかった私の誕生

 それから九十年余、北海道の移り変りはおそろしいようでございます。昨年(昭和35年)、十六年ぶりで お姉様が、私方に来て下さいました。その折りに、私があまりにも年をとっているので涙をこぼされましたが、 私は、あのきかなかった昔の幼女時代にかえって、ただただ泣けて泣けてしまいました。六十一の今までの 生涯は、長いようで短いような気がいたします。
 思えば私が生まれたとき、祖父様は病床におられたのですが、泣き声で女であることを悟られて、がっかり なされて唸っておられたとのことでした。あおの当時はまだまだ「男子中心の時代」であった上に、たった一人の 兄上(甫)が亡くなられた後でしたので、どんなにか力を落とされたことか、また母上がどんなに気を 使われたことかと察せられます。
 それに生まれたのが十二月十八日の多忙な時期でしたので、さこそと今でもそのことを思い出します。それが 時代が変って、甥の良喜さんの女の赤ちゃんが十二月の十八日に生まれましたが、今日ではこんなにも違うもの かと、あの当時と引き比べてつくづく思っています。
 
 

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3 祖父の記録が今役立って

 私が生まれた翌年、祖父様は亡くなられましたので、祖父様のことは 何一つ私は記憶しておりません。しかし、祖父様がまめに、北海道に移 られてからの記録を種々残して下さいましたで、今では幌別の方々のお役 に立っており、うれしいことだと思います。この頃は年をとりましたせいか、 昔のこと、それも遠い昔のことを思い出す日が多くなりました。

4 日野阿新丸(くまわかまる)が先祖と知って

 札幌の小学校の三年生ぐらいでしたか、国語の時間だったのでしょう。 日野阿新丸の話を瞳を輝かして聞いたものです。それが自分の先祖とも知らずに。 友だちは私の顔ばかり見ているのです。名字が同じだったから珍しかったのですね。 家に帰って祖母様にお話ししたら、それは本当のご先祖様だと言われ、何だか 自分が偉くなったような気がしたことを覚えております。
 阿新丸の父上日野資朝卿は、後醍醐天皇と王政復古の計画を立てたのですが、 計画がもれて幕府から佐渡に流されてしまいます。阿新丸は父を慕って京都からはるばる 佐渡に渡って、面会を願うのですが許されませんでした。そして守護職山城 入道は、父上を殺してしまったのですね。
 そこで阿新丸は闇に乗じて入道の子三郎を殺害し、小舟で越後にようやく逃れ、 志村という豪族にかくまわれ、その後、そこの娘と結婚して男の子が生まれたのですが、 鎌倉幕府は亡びて建武の中興の世となり、許されて京都に帰られ、正式の妻をめとって 邦光中納言となり、吉野朝廷に尽くされたと、物の本に出ておりました。
 一方、志村を名乗っておった方も日野姓を許されて、日野家の祖となられたのです。 その流れが愛憙おじい様に至ったのだ、と系図を見せていただきました。その後、 吉野朝は利にあらず、種々の変遷があったのですが、志村家の日野興光という方が 伊達公の客分となられ、執権(家老)片倉小十郎の白石にとどまれたとのことです。
 今でも白石に元禄年間の頃のご先祖の墓があるそうです。一度お詣りしたいものと 思っています。それに佐渡の日野資朝卿の碑も訪ねたいと思っているのですが、なかなか 果たせないでおります。
 
 

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5 維新戦争と伊達藩の渡道

 これも祖母様の寝物語りに聞いたことですが、会津の戦い(明治維新戦争) のとき、仙台、盛岡、米沢、庄内の各藩は、会津を助けて官軍に手向かった のですが、敗れて降参したとき、深夜にかつかつと早馬の蹄(ひづめ)の音を、 胸を痛めながら聞かれたそうです。また井戸にかまど道具を投げて避難されたことなど、 私どもの幼少の頃には、銅の茶釜が炉にかかっていましたね。あれは戦争後、 拾われて渡道する際に、種々の物といっしょに持って来られたものだそうです。
 その後、奥羽の各藩は謹慎して、明治維新によってこれまでの領地を天皇にお返しし、 伊達藩などは率先して北海道に渡り、開拓に努めたとのことでございます。
 

6 荒野を拓く辛苦の日々

 祖父様が来られた幌別一帯は、一面の荒地と大木であり、そこには原住民の家が 点々とあるだけだったといいます。そこでみんなの家もそれに似せて作ったそうですが、原住民の 人々は、一日中その前に立ちつくして、皆さんのなされる様子を眺めていたとのことです。
 農作業なども手振り身振りで教えられ、笹原を起こし、大木を伐り、刀を持った手で 斧や鍬を持ち、この地方を開いていかれたのでした。そのような辛苦の中にありながらも、 武士としての訓練を忘れず、また子息の学問のために、算盤、漢字、書道など、藩士の 方々がそれぞれ担当されたということです。
 父上や母上など、「愛隣学校」と名づけられた幌別で最初の学校で勉強されたのでした。 その時の写真が姉上のところにありますが、当方には見当りません。愛隣学校とは、隣人を 愛するキリスト教の教えからとられたそうです。
 
 

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7 拡まったキリスト教

 おいおいに村づくりも少しずつ出来てまいりましたとき、ご存じでしょう。 松前方面では随分キリスト教徒が入り、あの有名な金堀りの人々が殉死された 所が発見され、それを報じた新聞を見たことがあります。
 当方にもしだいにその教えが拡ってきました。省吾伯父様が十八才 の若さで亡くなられたとき(省吾伯父様は札幌農学校の北大で学ばれ、宮部金吾 博士のお若い時交わっておられたと申します)、祖母様は仏前にお供え物を たくさん供えておられたところ、祖父様が宣教師を連れて来られました。すると宣教師は、 お供物を全部下げてしまわれました。その事が悲しく、牧師が来られるのを、たいそう 疎んじられたといわれました。しかしその後、あんなに信仰厚い方になられて、一生を 送られたのでした。
 その折りの祖母様の髪型は、引きつめに結われた後ろに、赤い珊瑚のついた網を つけられたので、その時代のハイカラで、ちょっと縮れておられたので、その様子が 目に見えるようでございます。お姉様方の少女時代に、雑誌「少年世界」などで、探偵 小説家として有名だった押川春浪の父上も、この教会に牧師としておられたことが あったと聞いています。
 また有名な英国人ジョン・バチェラーさんが、幌別に居をかまえて、原住民の 教化に当たられたのでした。バチェラー夫人が長い裳(もすそ)のままに馬に乗られ、 手綱をとられた姿は絵の様だったそうです。母上など編物・英語などを教えていただき、 父上も英語を習われて、そこで結ばれたと、前に登別におられた知里老夫人から 聞かされ、驚きました。父母様の結婚式は、室蘭でキリスト教でなされたそうです。
 
 

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8 樽前の大噴火と原住民の恩情

 話は前後しましたが、樽前山が噴火した時のことです。ひどい山鳴りがあって、 祖母様方は一体何が起こるのか、地震は何回もあり、夜など祖父がランプを両手に支え、 皆を外に連れて出られ、心もそぞろで居りました時に、原住民の人々が、何か口々に 叫びながら、器という器に水を汲んでいるのだそうです。
 そのうちに大きな山鳴りと共に、樽前山が物凄い勢いで火を噴き、その時の光景は、 口にも筆にも言い表わせなかったそうです。そのうちに、井戸といわず、川といわず、 一滴の水もなくなり、祖母様方はどうすることも出来なかったそうです。その時に原住民 の方々より水を恵んでもらった、あの時のうれしかったこと、今でも 忘れられないと言っておられました。以前、樽前が噴火した当時、皆々 水のために苦労したことが、後で分ったそうです。

9 鉄道の開通とはじめての飛行機

 そのうちに小樽、札幌間に鉄道が敷かれ、その当時の大きな話題になって おりました。やがて室蘭方面にも汽車が走るようになりましたが、初めて 汽車が通った時はみんな弁当持参で見物に来て、「岡蒸気」「岡蒸気」と いって、大騒ぎであったといいます。大地を走る物が出来たのだから、 今度はきっと、空を飛ぶ物が出来るかも知れないと言っていました。ところが 皆が言っていたように、飛行機が出現したのでした。
 丁度私が登別から札幌に遊びに行きました折り、十二、三才でしたか、初めて 札幌に飛行機が来たというので、祖母様と今の北大の少し遠い所だったと思いますが、 そこへ見に行きました。ところが全然飛ばないで、機械がただゴーゴー鳴るだけでした。 結局あきらめて帰ったことを思い出します。
 その後、私が北星女学校の何年生のときだったか忘れましたが、同じ場所で、スミス という米国人が宙返りをしたり、高い空を飛び回ったりして、つくづく感歎したものでした。
 
 

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10 映画・郵便・馬車の今昔

 そのうちに活動写真、すなわち今の映画ですが、初めて室蘭(その当時はモロラン といっていた)に来ました。その時は、弁当持参で一日中、同じフイルム、それも 本当に短いのを、何回も何回も映すのですが、雨降りのようなフイルムを飽かずに 見入っていて、それに何か池のような所で外国の女性がハンカチを振る度に、みんな 手をたたいていた、と同行した祖母様が言っておられました。
 まだ鉄道が敷かれない時のことですが、祖父様が郵便局をしておられた当時、亡くなられた カルルスの久橘伯父様が、幌別から白老まで馬で郵便物を持って行かれました。馬は馬蹄などない 当時ですから、シキュウ川(今の竹浦)にさしかかると、寒い時分など、伯父様が馬を背負って 川を渡られたと、当時の苦しかったことを、いつもいつも語り草にして居られました。
 前後しましたが、室蘭の八月十五日のお祭り。今でも奴の道中行列がありますが、母上の幼い とき胸をときめかして、はるばる幌別から馬車で見に行かれたと申しておりました。今も昔も 変りませんね。
 毎年お盆になると、幌別の墓所にお墓詣りにまいります。先ず祖父母様、父母様、伯父様たち、 それに片倉様のお姫様方、若くして淋しく北海道の土となられた美しかったであろう姫君の墓。 祖母様がおられた時は、ひざまづいて、長い長い祈りをささげておられました。祖母様が一人の 姫君を伊達本家へお連れ申したときのこと。奥方のお美しかったこと。夏のこととて蚊帳の夏草の 絽の模様や緋ちりめんのへりのことなどを聞くにつけても、当時の大名の生活がうかがわれますね。
 お詣りをすませて立ち上がると、遥かに拡がる街の様子、市街地から店の大売出しの音響も 聞こえてきます。ハイヤーを待っています。何だか昔の世界から現代の世界に引きもどされ たような心地になります。
 私の少女時代に、この山の中をお墓詣りに来た道筋には、今では団地が建ち、その道々をハイヤーが 往き来するように変っております。
 
 まだまだ書き足りないのですが、後便にて記憶をたどります。この度、幌別の方々が「幌別史」 を書かれるとのことで、古い方々と話し合いました。祖父様方のことも、これで分っていただける ものと喜んでおります。
                 徳子
 姉上様
 
※ 本稿は「厚支君への手紙」(昭和45年3月15日)と重複した部分が少くなかったので、編集上の都合から、 双方を照合して一つにまとめたものです。従って「厚支君への手紙」は省くことにしました。読まれるときはその ことを念頭に入れて下さい。
 
 

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二、祖母 日野喜久子のこと

1 日野家の一日のはじまり

 朝、五時頃、はやおばあさまは外の掃除に余念がない。ときおり仕事に行く人々に挨拶を 交わしておられる。はやばやと仕事に行く人々は、大抵フンベ山に石の仕事をする石屋さん方である。 登別には石を採る石屋さんが大勢おりましたので、毎朝の挨拶なのである。おばあさまはお隣の方まで ゆっくり掃いては家に入られます。
 既に炉は操叔母様(愛憙の長女)が灰を美しくならし、木炭の赤が湯をたぎらしております。おばあさまは 横座に坐られて、おもむろに和紙で張られた焙烙(ほうろく)を執られて、お茶を入れ静かにほうじます。 今のようにほうじ茶として売っておりませんので、昔はこうして香ばしいお茶を土瓶に移し、お湯をすゝぎ、静かに 味われます。自分で作られた梅干を甘く煮つめてあがります。
 他の者は、それまでに家のはき掃除や朝食の仕度をし、テーブルに整えて総勢が坐りますと、おばあさまが その真中に坐られてしばらく神様に祈られます。それまではみんなは神妙にしております。感謝の祈りが 終り、やおらお箸をとられますと、一斉に「いただきます。」と朝食が始まるのです。これが毎朝の勤めでございました。
 

2 艱苦に堪えた入植のころ

 おばあさまはあの明治の初めに、二十一才で夫愛憙と長男省吾を抱き、姑(斉藤奈勢子)と共に仙台白石から幌別に開拓に 入植されました。その当時のもようは、よくしみじみと語られることがありました。
 吹雪になると、屋根からも隙間からも雪が入って来て、その上を幼い省吾が這いまわり、寝られぬ夜を過ごされたと申します。 先ごろ「ぷやら」(町郷土史文化研究誌)で、愛憙が書かれた当時のものを読ませていただいたのですが、それを見ても男の 方々が、刀を持つ手を鍬に代えて大木を倒し、雑草をはらい、それこそ想像を絶する苦難を乗り超えて来られたのでした。 しかしその一方で家庭を支えた女の方々の明け暮れも、筆にも尽くせられない苦労の数々だったのでした。そのことは、祖母の口 から淡々と語られたものからも、さぞや大変だったろうと推察できたのでした。
  注 ぷやら—アイヌ語「窓」
 
 

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3 開拓を支えた女性の強さ

 生きていくのに欠かせない三度三度の食事、その米を運んで来た船が沈んだり、 祖父はそのため札幌まで出向いて、人々のために米を願い下げしてもらったり、どれ 一つ取ってもみても、ため息が出ます。(祖父は開拓団をたばねていた実務的責任者 だったのです。)
 その日その日に欠かすことが出来ない食事や洗濯。今でこそ電気洗濯機で、殆んど 人力を使わないで真白になりますが、その当時は、灰を桶に入れて水を足して軒下に 置くのです。雨が降るそのしずくを桶に受けさせると黄色い水になります。その上ずみを 「たらい」の水に汲み入れて布を一夜浸し、手できつくもみながら洗うのです。
 一昨年資料館で、奥様方の野良着を拝見しました。かすり模様の布を糸で縫いつずった ものです。それはたしかに丈夫なのですが、それを洗うとなると、その難儀さは一方 でないのです。この一事を見ても、当時の女性の一日がどんなに辛いものだったか、 うかがわれるように思います。
 魚類は浜で分けてもらいましても、野菜などは初めから薯、大根などすぐとれた のではないのはいうまでもないことです。従って野に山に食べられる草々を採り集めて、 毎日のおかずにされたのでございます。家を守る立場から、男の方々には心配させない、 愚痴をこぼさないで尽くされた強さが、お話のはしはしから感じとられました。
 

4 あいつぐ子どもの誕生と室蘭への転居

 そういう中に、明治七年、二男惇(まこと、私の父)が生まれ、祖母は子ども二人をかかえて、 重労働であったと存じます。続いて三男安路(日野安信の祖父)が生まれたのですから、 祖母のご苦労は並み大抵でなかったろうと思います。
 祖父はそれから幌別の郵便局を伯父久橘に任せて、室蘭の海岸町に移ることにしました( 今のケイオー薬局)。海岸町はその名の通り、海が家の裏まできていたといいます。住居は 合同の官舎であったそうで、そこで操叔母(愛憙の長女)と常子叔母(次女)が生れました。 祖父は暫くはここで、室蘭のために尽くされたとのことでございます。今の大町が札幌通りといって いて、そこから母恋にゆく前が仏坂で(幌別方面から札幌通りに来るには、必ず通らなければ ならない坂)、それが今でこそ平坦になっていますが、当時は小高い丘で、私の若い頃までは 冬は氷状になって、歩いていくのが大層難儀な個所でした。
 
 

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5 熱心だった子弟の教育

 祖父は教育熱心な方で、最初は幌別に教育所を作って子弟を勉学させております。 また長男省吾を札幌農学校(今の北大の前身)に入れましたが、宮部金吾博士などと 一緒だったとのことです。ところが省吾は学業半ばにして病いを得て帰宅し、その後 元気になられて常盤小学校に先生となり、操叔母の幼い頃、教室に連れていかれ、 あやしながら生徒に教えられたとのことでございます。
 二男惇は函館商業学校に勉学し、次女の常子叔母は札幌北星女学校に勉学して第十回 の卒業生でございます。ちなみにわが家も、姉環は同校の二十回、姉富子は二十三回、 そして私は二十六回の卒業でございます。三男安路は、札幌西創成の創立と同時に、そこで 勉学しております。
 
 

6 すべてに優れていた操叔母さま

 このように教育熱心だったわが家の中で、ひとり上級の学校に進まれなかったのは、長女の 操叔母でございます。叔母は体が不自由な方で、函館までも治療に行かれたそうですが、ついに 結婚なさいませんでした。しかし書道や裁縫それにお琴も師範格で、優れた才能をお持ちでした。
 私ども姉妹三人は、お正月とかお祭りなどには、美しいお化粧をしてくださり、着物をよそわせて 下さいました。当時は美容院などございませんので、よその花嫁さんの支度などもよくなさいました。 私などずい分お世話になりました。今でも叔母が書かれた琴の歌など、時折り出しては懐かしんでおります。
 叔母は、祖母とともに熱心なキリスト教信者で、いつも微笑をたたえて明かるく、愚痴を聞いた ことがありませんでした。私どもの着物はいうに及ばず、家族のものまでよく縫っておりました。 そうそう、お料理も上手で、皆を喜ばしました。四十二才でこの世を去られたのですが、実に静かな ご最期でした。操叔母は私にとって終生忘れられない方でございます。
 
 

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7 再び幌別にもどってからの祖父母

 私の父惇は白石藩士の西東勇吾の五女信子と教会で結ばれ、結婚式も室蘭の教会で あげたのでございます。そのことについては祖父が克明に記録しておりました。その 帳面を長姉に送りましたところ、長姉が亡くなられてしまいました。私はそれを手に 入れたいと思っています。
 さて祖父は、その後室蘭から再び幌別にもどられたのですが、幌別にもどられてからも、 行政方面をはじめ教育のことなど、種々多方面にわたって仕事をなさっておられます。 その間、祖母の内助の功があったことは、言葉のはしはしから漏れてまいります。
 またこの頃のことに、こんなことがありました。片倉様の姫君幸子(こうこ)様を、 東京の伊達様にご奉公に上げるときでございましたが、そのとき祖母がお供をして 伺ったのでございます。ちょうど夏でしたが、奥方が絽のお召し物をおひきづりで お出ましになり、親しくお言葉をかけられたこと。夜のおしとねが白羽二重に緋 ちりめんのへりの絽の蚊帳で、なかなか寝つかれなかったこと、などをよく話しておられました。 それを聞くにつけても当時の大名の生活ぶりがうかがえるように思います。
 

8 長男省吾の死と祖母の歎き

 長男省吾が再び病いを得て、十八才を最後に亡くなられました。ちょうど十二月三十一日、 年夜のお膳が出たのですが、祖母は涙で、床の上にお膳を置くことが出来なかった そうです。「お母さま、なぜ泣くのですか」といわれ、それが最後であったと、当時を 目で追うお姿が目に浮かびます。そのことから私の実家では、三十日にお年取りをしていました。
 その当時、祖父は熱心なキリスト教信者でしたので、牧師さんを連れてこられたのですが、 その牧師さんは、祖母がたくさんの供物を上げておられたのを、全部下げてしまわれたそうです。 そのことが悲しくて、牧師が来られるのを、たいそう疎んじられたことは前にも書きました。 しかし、その後一番熱心な信者になられ、最後まで立派でございました。
 
 

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9 バチェラー夫妻とわが家

 当時幌別には、英国人ジョン・バチェラーご夫妻が居を定められて布教なされ、 たくさんの信者がおりました。その後、現在街になっておりますところに教会もできて、 私が十才のとき帰ってまいりました折り、クリスマスなど盛んに行われていました。
 私の母の娘時代に奥様から編物を習われたので、私の幼い頃は、毛糸の物をよく着せられ たものです。またバチェラーさんから洋種の黒い犬をいただき、名をジョンとつけて 祖母がたいそう可愛がりました。札幌にまいりましても、よくお供をしておりましたのに、 ある時犬殺しにあって死んでしまいました。その時、幼い私は声をあげて泣きました。

10 祖父の病死と、祖母の覚悟

 幌別方面も、おいおい他県から移住してくる者がふえ、鉄道も敷かれて、あの苦しかった 開拓時代もおさまりつつあるようでした。そのような明治三十三年十二月二十五日に、 祖父は病を得て帰らぬ人となられました。享年五十八才でした。その前年の十二月、 私が生まれて女の子であったことを悟られ、病床でうなっておられたのでしたが、祖父の 埋葬式は実に盛大なものであったと申します。
 その折りに祖母は、今まで束髪に結ばれ赤いさんごの網をかけておられたのを、切られて 茶筌になされ、四十九日間毎朝、今もありますお墓に日参されたそうです。今では車で 往復して一時間もかかりませんが、あの当時の路であれば、歩いていくのは簡単とはいえなかったのでしょう。 私は「何をはかれたのですか」と聞いたところ粗末な藁靴たったとのことでした。あの極寒の十二月 末から二月まで、よく一人で日参されたものだと、ただただ驚き入るばかりです。私など学校の 休暇の折りには必ずお墓まいりにやらされましたが、冬など、あの山道をよくも歩かれたものだとつくづく思います。
 
 

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11 長姉をあずかった祖母のしつけ

 私の父惇(まこと)は札幌で、本沢大節様と運送業をしておりまして、 姉環だけは祖父母のもとにおって、幌別小学校に四年まで堀孝太郎校長に 教えをうけておりました。従って、六才まで祖父といっしょにいたことになりますし、 祖父の死んだ後も、祖母と幌別でくらしておりました。
 夏になると裏の海に毎日のように泳ぎに行き、祖母は「もしものことがあったら、 札幌の父母上に何と申訳するのか、こんなことでは札幌に帰す」といって、荷物を 作り、当時二銭であった入場券を買って、きびしく怒っておられた所へ、お安叔母 (安路の妻)が来て、平謝りにあやまった話を、姉がよくしておりました。この一事を 見ても、厳然たる祖母の姿としつけぶりが、うかがえるように思います。
 

12 新しい文化の都市札幌での祖母

 その後、札幌にいた私たちは、祖母と操叔母と同居いたしました。当時常子叔母は 北星女学校におりました。札幌での生活は後で「懐しい私の札幌」として書いてあります が、祖母は日曜日には教会にゆかれ、良き信者として皆様に尽くしておられました。 常子叔母の夫となる松岡その他の大学生の方々にも、親切に面倒を見ておられました。 それに温故知新と申しましょうか、明治以前の生れでおられるのに、新しい事にも 心を開かれておられたのには、驚くばかりでございました。
 
 

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13 登別にもどったわが家

 さて、幌別には久橘伯父と安路叔父がおりましたが、伯父は郵便局を息子譲(日野 謙一の父)にゆずって、安路叔父とカルルス温泉の山で木材の仕事をはじめ、その後 カルルスに定住したのでございます。
 父が以前木材のために清国に行ったことがありました。その帰国の際に、清国の書物や 絵画などを持ち帰って、知人にあげてしまいましたが、それでも少々今も私宅にそれがございます。
 父は長い札幌生活をやめ幌別に帰ることになりました。そこで登別駅前に(久橘伯父の 旧家)居を定め、初めて店を出し駅売りをはじめたのでございます。馴れない商売をするので、 父も母も大変だったろうと思います。明治四十二年、私が十才の時でございました。
 それから後、常子叔母(次女)は松岡と結婚いたしました。従って、それまで同居していた 祖母と操叔母は、登別に帰ってきて、私たちと同居いたしました。かくて祖母らは、 大正十二年七月二十四日に亡くなられるまで、私宅で人生をおくられたのでございます。
 その間に、安路叔父が病いを得て幌別において亡くなりました。当時叔父は三十六才で 私が十三才の時でした。亡き叔父の最後の清めの折り、安子叔母が泣きながら体をふいて あげましたとき、祖母が「亡くなった者に、涙を落としてはいけません」と厳しく言われた のが、今でも耳に強く残っております。
 

14 父の死と祖母の言葉

 明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御になり、大正の世となりました。私も北星女学校に 入学することになりました。その入学に際して祖母は、布団、かいまき等全部縫って 下され、駅のホームまで見送って下さいました。
 私が十八才のとき、私の父も病いを得て、祖母、操叔母、私ども母子を残して亡くなりました。 大正六年六月十一日、享年四十四才でした。その折り、カルルスから久橘伯父が馬をとばして 来られ、あのひげの顔を涙でくしやくしゃにして、泣かれた姿を思い出します。
 私が声を上げて泣きましたところ、祖母が「あなた方は父を亡くしたというのは順当で、 私が先に逝かなければならないのに、それでも我慢しているのです。泣くものではありません」と 言われ、思わず祖母の顔を見ていました。この一事からも祖母の人柄が伺えましょう。
 
 

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15 お世話いただいた祖母

 父の死後も、祖母と操叔母は母信子のもとにおりまして、店の仕事を 手伝ったり、お針をなされ、姉の結婚、私の結婚にもついて下さいました ことが、忘れられません。長男が生まれたときには四日程苦しみましたが、 その時も祖母は、「七日苦しんでも男の子をもて」と昔からいわれた、と力 づけて下さり、家も近かったので、夕方になるとお風呂に入れて下さった りして、ずい分可愛がって下さいました。私たちが室蘭に移った後も、ときおり あの仏坂を歩いて来られ、次男のお産の時なども、長男をおぶって下さったりして、 ご苦労をおかけいたしました。
 
 

16 晩年の祖母

 操叔母が先きに亡くなりましたとき、私は祖母にとりすがって泣きました。祖母は 何も言わずに涙をこぼされ私の背をなぜておられました。
 その後祖母は、母信子と共に落ち着いた生活をなされ、朝は外の掃除、夕方は元の 小学校の前にあった川西さんの温泉の風呂まで、運動のためといわれて、それを日課にしておられました。
 私の母も祖母によく尽くされて、一度も争いを見たことはありませんでした。私など 主人のことなどで、いろいろ母に言いつけますと、「あなたは勤めということを知らない。 嫁に行ったら、その家に勤めをしなければいけない」とよく言われたものでございます。
 
 

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17 ご立派だった祖母の最期

 母信子は、祖父と同じく開拓の鍬をふるった西東勇吾の五女で、 子孫が幌別に在住しております。私が二十五才で夫と長万部中の沢で 栗林関係の会社におりました。その時に、祖母の病いが重いと聞いた のです。私はなんとかして駈けつけたい思いにかられましたが、その時は ちょうど長女静子を妊娠しておりましたので、主人が代って見舞に行って くれました。
 病名は胃ガンでございました。年をとっておられたので手術することが 出来なかったのです。そのためずい分苦しみも大きかったようですが、その 苦しみの中から主人に「子ども達を立派に勉強させてほしい」と言われたそうです。
 また「お信を独りにしてかわいそうだ」(次姉富子は常子叔母と米国におり、 今なお健在でございます)という言葉をはかれましたが、苦しいという言葉はなく、 大正十二年七月二十四日永眠されました。時に八十才であったのでございます。
 室蘭から牧師が来られてキリスト教のお葬式でございましたが、大勢の方々 に見送られ、今は祖父愛憙の後方につつましく眠っておられます。
 米国にいる常子叔母は、祖母が亡くなられた朝、廊下の鏡の前に祖母が 立っておられたので、思わず「お母さん」と呼ばれたと、手紙に書かれて おりました。さこそと思っております。
 次の年、長女静子を抱いて、長男正一、次男千秋を連れて祖母のお詣りに まいりました。その折り母が、「おばあちゃまがいらしたら、自分の縮れ毛 が孫にもなかったのに、曾孫に伝わったね、と言われるよ」と申しました。 祖母は結婚の前に少し縮れておられ、願をかけられたと親類の伯母様が申しておられました。
 
 
   新居にて
 新しき家に古雛威儀正す
   ひとり旅おわりて
 今降りし汽車晩涼の灯を連らね
   クラス会にて
 長月のつどいし友と八十路ゆく
 これがまあ終(つい)の一会か秋の雨
   霧が峯にて
 晩秋の野の十字架にいま落輝
   亡き姉をしのびて
 秋袷帯は形見の縞博多
 姉のかく句の美しき秋灯下
   幼い孫とはなれて
 電話にて豆まきしかと追儺の夜
   暮秋の山より
 稜線にひとつ後れて雁わたる
   野径にて
 春立つや替えし地蔵のよだれ掛け
 
 

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寒 菊   -風雪八十年の回想-

一、はじめに

1 「愛隣学校跡」からの追憶

 先日、幌別にまいりました折りに、ふと車窓から「愛隣学校跡」の標示板が 目にとまりました。ハッとして遠ざかる窓からなおも見ようとしました。本当に はじめて見る「愛隣学校跡」。そこはメインボーという建物のすぐ近くだったのでした。 それにしても、どうしてあれが、そんなに私の胸を騒がせたのでしょうか。
 明治の初年に、私の祖父母が仙台白石から渡道して幌別に入植し、それまで 刀を持っていた士(さむらい)が、鍬を手にして荒れ地をきり拓いていったのです。 そのような開拓時代のさ中にも、子女の教育だけはゆるがせにしてはならないという 一念から、キリスト教会に作ったのがあの「愛隣学校」だったのでした。私の父も 母もここで教えられたのだそうです。その写真も持っていたのですが、長姉に前に 送りましたので、現在手許にないのが残念でございます。
 私たちの年輩の方ならご承知の雑誌「少年世界」誌上で、冒険小説で全国の血を湧かせた 押川春浪さん。その方の父上もこの教会で牧師をされましたので、押川さんも少年時代を この幌別で過ごされたのではなかろうか。ただいつ頃のことか分からないのが残念でございます。 私の父は明治七年、母は十年の生まれですから、 十年後としましてもともに十二才と十才となりますので、「愛隣学校跡」のあの標示は、 私にとっては本当に懐かしく、忘れられないものだったからでした。
 

2 執筆にふみきらせたものは

 私は前々から、昔の幌別のエピソードなどを書きたいと思っていました。しかし筆無精なので、 なかなかできませんでした。ところが七十八才の時に胃を手術してから、すっかり弱って しまいました。ことし(昭和54年)の十二月十八日には八十才になると思うと、いよいよ 「後がない」と思いつきました。そこで頭の悪いのを気にしながら、過ぎこし方をふりかえり、 思い出をたどって書くことにしました。
 孫の厚支が四年生のとき、郷土のことが教科書に出たことがありました。その折りに大変 懐しく思いまして、明治の初め祖父母たちが、開拓や教育に随分とご苦労したことを書きました。 今回はそれも書き添えたいと思います。ただ樽前の噴火のことを書きましたとき、 いつ頃か分かりませんでしたが、先日テレビで、樽前の噴火は慶應四年と明治七年とありましたから、 明治七年の出来事かと思います。
 
 

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二、記録が失せた私の幌別時代

1 落胆された私の誕生

 前にも書きましたが、私は、日野愛憙(はるよし)の二男惇(まこと)の三女として、明治 三十二年十二月十八日に幌別の来馬の屋敷に生まれたのでございます。当時祖父は重い病いに伏して おりました。私の兄は若死にして、姉は二人おりましたので、一家は何とかして男の子をと 望まれたようでした。ところが生まれたのが女の子だったので、祖父は今までになく唸り続けた と申します。
 やはり男第一であったあの当時であったので、母はどんなに心を痛めたことだろうと存じます。 次姉は一月八日だったので、誕生会は友達を呼んで、御馳走もたくさんあったようでした。 しかし、私は、暮れが迫った多忙な時期なため、鮭の焼物ととろろ汁ぐらいでした。だから 今でも、私はとろろ汁が大好きでございます。
 

2 幌別の教会の思い出

 私は一才のときから、父の仕事の都合で小樽、札幌に次姉富子と共に両親のもとで育ちました。 長姉環だけは幌別の祖父母のもとで育ったのです。その後十才で登別に来ましたので、幼い時の 幌別はハッキリいたしません。ただ登別から幌別に汽車でまいる途中に、「イエス キリストを信ぜよ」と大書して、教会の建物の裏に張ってあったのが記憶にあります。あそこが 愛隣学校なのか、前に見ました標示があの教会であったのか、さだかではありません。
 それにしても、私が十才で帰った折りには、白石から移住してきた方々の多くがクリスチャンで、 クリスマスには、安子叔母(カルルス日野安信の祖母)たちに連れられて、よく教会にまいったものです。 私が生まれて一年後、祖父は明治三十三年十二月二十五日、五十八才で亡くなりましたが、 お葬式はキリスト教で行ない、それは盛大なものだったと、祖母に聞かされました。
 松前でキリスト教徒が処刑されたとき、牧師方は幌別の方に来られたようです。それに仙台の 伊達様は、キリスト教に深い関心を持っておられ、また白石の片倉様もそうであったので、祖父 たちはそれに従ったのだと思います。
 

3 記録が失せた私の登別時代

 登別に十才でまいりました時のことは、ちょうど十年程前、登別中学校から<登別の思い出> として書いてほしいといわれました。それまでは孫の厚支に書いたぐらいで、筆を持ったことが ありませんでしたが、心に浮かんだ登別の少女時代を書きました。
 それが中学校の校友会誌に二回にわたって掲載されたのですが、今となっては、後半だけが あるものの、前半の方はどうしても見つかりません。それを見ますと、私が十代ごろの 登別のようすが分かるのですが・・・。
 
 

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三、懐かしい私の札幌

1 幼少の思い出の玉手箱

 幼い時から十才まで札幌で過ごしましたので、何といっても札幌は、私にとっては一番懐しい ものとなっています。私の家は、今の道庁近くの北の方にありましたので、今でも札幌にまいりますと 一番懐しゅうございます。
 母がバチェラー夫人からお習いした毛糸の編物で、帽子やショール・靴下などを作ってくれましたので、 当時としては割合いハイカラだったようでございます。私は三人姉妹の末っ子でしたので、一番甘えっ子 であったようでした。
 

2 苗穂の伯母を訪ねた思い出

 苗穂に伯母(母の長姉)が住んでおり、りんご畑やら牛などを飼っていました。そこで時々三人で 伯母のところへ出かけました。今でこそ車でものの十分もしないで行けるのですが、当時は長い長い 道のりを歩いて行くのです。札幌の北から苗穂まで、想像するだけで気が遠くなるように思いました。
 行く道々にはビール会社の煙突から、もくもくと黒い煙が昇り、上の方から水が滝のように流れて います。それを飽かず眺めながら、ゆっくり、ゆっくり歩くのです。また今でも名前を覚えていますが、 谷という方の家で、その当時は鉄の門がいつも閉じ、樹々がうっそうと茂っていて、近寄り難い 感じをもったものでした。
 ようやく伯母の家の門まで着いて、それからまた家までが長い道のりなのです。道ばたには森のように樹 が生い茂っていて、池のそばには従妹たちのハンモック(その当時では随分ハイカラだと思いました) があり、りんご畑やら牛小屋がありました。ようやく裏口に行きますと、のどが渇いてたまりません。 伯母に車井戸から水を汲んでもらい、大きな銀の杯のようなもので飲む水の冷たさ、水よりも冷たかった ことを今でも思い出します。それに冷たい牛乳のこともです。
 従妹たちももう大きくて北星女学校に通っており、私など相手ではありません。しばらく遊んで帰ることに なるのですが、りんごなどたくさんもらって三人で歩くのですから大変です。私などは必ずビール会社の所 まで来ますと、一歩も歩けなくなります。涙は出てきて自然と坐ってしまいます。姉たちはお土産を 持っているので、かまわず行ってしまうのです。私はしまいに声を出して泣きながら追っていくのでした。
 そんな事など忘れておりましたら、一昨年(昭和52)米国にいる次姉や長野の長姉が、しばらく振りで訪ねて 来てそのことを話され、八十近くで昔のことを聞かされて大笑いしました。でも昔の札幌には、いろいろ思い出があります。
 
 

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3 思い出深い道庁と周辺

 当時は、今の大通公園などは草が生い茂っていて、永山将軍の銅像のあたりに追い剥ぎが 出たなど聞かされたものでした。私は小さい時から犬や猫が好きで、あちこちの捨て犬を 拾って来ては、よく叱られたものです。
 道庁は近くでしたのでよく遊びに行きました。道庁はレンガ造りで、札幌の象徴として 威容を誇る建物でした。その近くの池には、季節になると白や紅の蓮の花が咲いて、 幼な心にも美しさを楽しんだものでした。
 私がまだ小学校には入らない頃、道庁に火事がありました。レンガ造りなので外部は焼けません でしたが、内部の火が恐しいまでに燃え盛り、その勢いで大きい窓が壊れる音、そこから 噴き出す火のかたまり、小さい胸をドキドキさせて見ておりました。この道庁も何回も 新しくなり、北海道の礎として懐しく、札幌に出かけた時には、北大植物園と共に懐しみます。
 

4 恐しかった「観光場」の火事

 火事といえば、道庁の火事の外に札幌の大火が、思い出として残っております。 南一条か二条かに、「観光場」といって、いろいろな店が雑居して、通りの幅一間 (約二メートル)もない、そんなところに、道路の左右に子供の好きそうな風船、おはじき、 鳩笛、または飴ん棒などが色彩豊かに並べられているのです。そこを一銭か二銭持って、 胸をときめかしながら見て歩いたものでした。
 ところが、その観光場から火が出て、それに折り悪しくひどい風だったため、北を残す だけで、西も東も大変な勢いで燃え拡がり、その火の粉が私の家の方にも吹いて来て、生きた 心地もありませんでした。
 昔は、火事を知らせる半鐘は警察の近くの火の見櫓にあって、たいていの火事の時は、 ジャンジャンジャン三つ鳴らすのです。それが大火事の時は「擦りばん」といって、 絶えず鳴らすのですから、それを聞く者としては、生きた心地がしないわけです。この大火で、 前からあった丸井など南方面の大きな店が、すっかり焼けたのでございます。
 
 

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5 丸井での買い物と狸小路の賑わい

 丸井などは当時一番の店で、丸井という大きい字の紺ののれんが、 上から下まで下がっていて、入っていきますと、畳數の大きい店先に、番頭 さんが三尺置きぐらいに、冬なら瀬戸の火鉢に手をかざし、一勢に「 いらっしゃい」と声をかけます。
 丸い小さな椅子に腰をかけて欲しい品を言いますと、「小僧」と大きい 声で呼びまして、品物を庫から持って来らせます。小僧というのが「おう」 と大きく聞えます。
多くの小僧さんが庫を出たり入ったり、それぞれ 品物を持って来ます。現今のデパートとは大違いで、ゆっくり買物が出来、 それを母達が買いますので楽しい記憶でございます。  また、昔からある狸小路にまいりますと、活動写真館、寄席など建ち並び、 唐きびの焼ける匂い、西瓜の紅い色がカンテラに映えて、それはそれは 楽しい場所でございました。人力車に芸者さんが、「つぶし島田」に結って通ると、 そこの若い者たちが「よう」「よう」と声をかけて、別世界にきたようでございます。 今、丸井という洋食屋さんがありますが、昔は大きなそば屋さんで、たまにその 二階でおいしくいただいたものでした。
 

6 好きだった芝居見物

 また当時は演芸場、今の劇場でしょうか、大黒座とか札幌座というのがありまして、 ときおり東京から名題の役者さんがまいります。その時には芝居好きだった母によく 連れられて行ったものでございます。父などはよく一家総見させてくれました。
 まず入口から「いらっしゃい」と下足番が景気のよい声をかけ、「何人様」といって 案内します。真中が升席、左右に花道があり桟敷があります。「千代萩」「幡随院 長兵衛と水野十郎左ェ門」の芝居など、二番目の姉はすぐ寝てしまうのですが、私は 好きだったので、しまいまで見たものでした。
 天井は升のようになっていて、その当時の札幌の有名商店の名入りの広告が、色とりどり に画かれていて、見ても楽しいものでした。幕合いには、粋な若い者が法被姿で、かんとう豆、 おせんべい、みかん等々、それがとてもおいしいものでした。仕舞いの太鼓に送られて 北まで帰るのです。店は皆大戸を下ろし、火の用心の警棒がゆっくりゆっくり廻って来ます。 子供心にも、何かやるせない寂しさがもたげてきたものでした。
 
 

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7 季節の変り目でもある札幌祭り

 祭りというものは、誰にとっても忘れられないもの、自分の幼少のころを思い出させ、 育った郷土を懐しむよすがとなるものだといえましょう。
 札幌の祭りといえば、今もございます六月十五日の札幌祭りが一番にあげられます。 これはまた実に楽しいものでした。今のようにいろいろな祭などありませんでしたから、 それに官幣大社という格式高い祭りだとあって、町中が祭り一色になってしまいます。 創生川には見世物小屋が軒を並べ、猿芝居や操り人形、安達が原の鬼婆、お化け屋敷、活動 写真等々、それはそれは賑かなものでした。それにのぞきメガネの小母さんが、鞭をたたきながら 節をつけて物語るのです。徳富蘆花の武夫と浪子の「不如帰」などの絵が、ドキツイばからに描かれて いるのです。
 この六月十五日はまた、巡査は白服になり、学生は白ズボンに変り、北海道に夏が 来たのを感じさせる日でもあったのです。大道香具師たちが指輪や装飾類を大きな声で客寄せ するのです。一方、食べるものでは、アイスクリームや氷水、ところ天などがあり、大にぎわい でございました。父はよく見世物小屋を端から順々に見せてくれましたが、お猿の義経が人参を 食べながら、犬に乗せられて大見栄をきったり、そうそう、娘剣舞があったりして楽しいものでした。
 

8 思い出に残る招魂祭や七夕祭り

 祭りといえば八月の招魂祭も楽しい思い出です。これは中島公園が会場でして、池の上の花火の美しさ と、二十五連隊の兵隊さんがする芝居の面白さです。軍服を着て、志那人になったり、日清・日露のお芝居 だったようでした。
 この時も「お化け屋敷」があって、柳が垂れて見るからに恐しく思いました。中島に「西の宮」という 料理屋があって、父に連れられて家族一同お料理を食べ、舞妓さんの踊りを見たりして、楽しく一夜を 過ごした記憶があります。
 父はまた、競馬やお角力などが好きで、よく連れていかれた思いでがあります。そのせいか、今でもお 角力や競馬など、テレビで楽しんでおります。
 そうそう、七夕祭りも楽しゅうございました。新川に趣向をこらした行灯がたくさん並び、太鼓を打ち鳴らし て賑やかなものでした。私たちは赤い提灯を持って、南の賑やかな方へ夜遅くまで歩いたものでした。
 
 

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四、小学校時代の思い出

1 珍しがられたお揃いの洋服

 明治三十九年、私は札幌大通り女子尋常高等小学校に入学しました。ここは、女子ばかりの学校で、 生徒が二千人以上もおり、当時としては大きい学校でございました。勉強は嫌いではなかったので、 賞状をいただいた記憶がございます。そのうちに、幌別の祖父母のもとにおりました長姉環も、四年の 時に出札してこの学校に編入されたので、姉妹三人うちそろってこの学校に通うことになったわけです。
 姉は、母が十八才のときの子でしたから、他人から、継母ではないのか、本当に姉妹なのかなどと いわれたようでした。そのように当時の母は若くて美しかったようで、父母の会(今のPTA)には必ず 来てくれました。
 叔父(母の弟西東博)が洋服店をしていましたので、メリンスの白で三人に洋服を作ってくれました。 その当時女唐服(メトウフク)といって着物と袴でしたので、すい分珍しがられたものでした。

2 ままごと遊びや誕生会

 お祭りや買い物の楽しさだけだったのではなく、ふだんの遊びごともありました。長姉と私はお人形遊び が好きで、よく気が合っていたようでした。ところが富子姉の遊びは学校ごっこで、いつも先生になり 私などいつも立たされておりました。つい最近古い写真の整理をしておりましたら、富子姉が四年生 の頃、近所の友達の大村よし子さんと写した写真が見つかりました。どんなに懐かしがるかと 思ってアメリカの次姉に送りました。
 次姉は一月八日の生まれでしたから、ちょうどお正月のご馳走もなくなる頃とあって、母はいろいろご馳走を 作って、大村さんその他たくさんのお友達をよんで、今の誕生会を開き、私も末席で喜んでいたようでした。
 私は十二月十八日でしたから、暮れもおし迫っておりましたので、必ず好きなとろろ汁と鮭の焼物 ぐらいでした。今でもとろろ汁が好きで、ひとりで作っております。お雛祭りなども、大勢の小さなお客様を よんで楽しゅうございました。八十過ぎた今でも、古いお雛をかざって喜んでおります。
   ‟旅立ちの 八十路の果てに 雛かざる”
 こんな句が八十才の折りのものです。
 
 

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3 目を見張った楽器と忘れ得ぬ人々

 その頃札幌には、富貴堂とか維新堂などの書店がありました。富貴堂などには、 その当時の新しい楽器のマンドリンとかオルガンなどが時折り入っていて、目を 見張ったものです。
 私のクラスの素(しら)木露子さんの姉上に、たしか操といわれたと思いますが、 松葉杖をついて小説を書いておられました。「松葉杖をつく女」という題で、 大きな看板が富貴堂の前に立ててあったのを思い出します。同じ組に相沢満寿子さん (現在の村田満寿子さん)がおられました。昨年に「時計台の百年祭」で、昔変わらぬ 時計台の歌をお聞きしましたが、感慨無量でございました。また先頃、森田たまさん の「味のふるさと」を読みましたが、あの方もあの当時の札幌の方でしたので懐しゅうございました。

4 よみがえる札幌の追憶

 札幌の幼かった十年間は、私にとっては何の苦労もなかったようでした。そうそう、 先日札幌駅に降りてすぐ道庁の前庭に連れていかれました。あの懐しい蓮の池には、ちょうど 紅白が美しく咲き、赤レンガの道庁を目の前に、昔なつかしい思いを満喫いたしました。
 もう七十年も前でしたか、道庁が火事になり、私は大通りの自宅の二階から見ていたところ、 窓ガラスがこわれ落ちる音や火焔が噴き出すものすごさに、胸をドキドキさせて おりました。そんな思い出が、走馬燈のように胸によみがえってきました。
 
 ‟蓮池に魚紋ひろがり鯉の群れ
 緑陰やそこに象徴赤煉瓦
 緑なす古木柳のうねりかな”
 こんな句が胸によぎったのでございます。
 
 

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5 幌別にもどったわが家

 私が四年生の時に、札幌に別れを告げて登別の小学校にまいったのです。 なぜかは分からないままに、当時は千歳線などなかったので岩見沢を回って、 六時間もかかって幌別に着いたのです。なぜ折り返しになるのかと聞きます と、父は夜になるから札幌に帰るのだよと笑っていました。
 後で分ったことですが、父はお人好しであったため、いろいろな人の保証人 になり、そのため幌別の土地三千町歩が他人の物になってしまったのです。 また父の仕事のこともあったらしく、母はずい分苦労したようでございます。 そこで姉二人は祖母や操叔母などと共に松岡常子叔母(後でアメリカにまいりまして 亡くなりました)のところに残し、私だけを連れて幌別にもどって来たのでございます。
 幌別には父の弟の安路叔父、また兄の久橘伯父が郵便局をしていたので暫くおりまして、 登別にまいったのでした。住居の様子は、とても札幌のようではない思いだった ようで、久橘伯父の兄(永井)の息子が郵便局をしていたので、そこにばかり 行っていた記憶がございます。
 

6 びっくりした学校と生徒

 初めて母に連れられて学校にまいりましたところ、教室が二つで、先生は 校長さんと一人の男の先生の二人だけ、しかも一つの教室に一・二・三年生が、他の 一つの教室には四・五・六年生と補習科の生徒だったので、すっかり 驚いてしまいました。
 教室の女性はと見ると、私のようにお下げ髪などした子はなく、いちょう返し に結って肩に別のきれのある着物を着て、私のメリンスの被布を引っぱったり するのです。男の子などは、お下げの髪を腰掛けに結わえつけたりして、 暫くはとても馴れるものではありません。ですからすっかり気が重くなって、今でいう 登校拒否のありさまでございました。
 家の向いに宮武商店がありまして、そこにきくのさんと正ちゃんという私ぐらいの 方がおりました。そのお二人が学校にいっしょに連れて行ってくだされ、おかげで 馴れてまいりました。今でも既に亡くなられたお二人のことを思い出し、立派な お店になっておられるご様子を懐かしんでおります。私もいちょう返しに結ってもらったり、 肩に別の布をつけた着物が着たいと思うようになりました。
 その年のお正月に姉二人も帰ってきて、うれしい日々でしたが、大きい姉は札幌の 祖母のもとに帰り、小さい姉が、登別の小学校に通うようになったのでございます。
 
 

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五、北星女学校時代

1 一変したわが家と父の死

 それでも「住めば都」といいますが、登別にも馴れてきました。 明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、世は大正の御代に変った のでございます。大正三年の時に、私は次姉が在学しておりました 北星女学校の予科二年を受験して合格し、姉と寄宿舎で生活することに なりました。その思い出は山ほどありますが省くことにします。富子姉は 卒業後、東京麹町女子学院に進学いたしました。
 そうそう私の家も札幌の頃と様子が一変し、お餅やおまんじゅうの駅売り をし、若い男の子が売りに出ていました。父母とも馴れない仕事だったので、 どんなに苦労したかと思います。母などは随分頭が高いと言われたようで ございます。おいおい仕事にも馴れたようでしたが、父が病気がちになり 床につくようになりました。その頃は、祖母、操叔母、長姉も来ておりました。
 そして父は、大正六年六月十一日に亡くなりました。ちょうど私は 体を悪くして、北星女学校から家に帰っていましたので、父の最後を看とる ことが出来ました。私が十八歳の時でした。随分母を悩し、また祖母に先立った わけですが、祈りながら美しい死に顔でございました。
 

2 北星女学校のこと

 北星女学校には、スミス校長、マンク、エバンス、マクロールなど、多くのアメリカの 先生方がおられました。校舎の方は、札幌で一番古い学校だったので、校舎も古びて おりましたが、そのうちに全体が新しくなり、寄宿舎の廊下にもスチームが通ったので、 冬も温かく過ごすことになりました。
 クラスの生徒は二十人ぐらいでしたが、英語の教室と普通科の教室に分れておりました。 バスケットボールなどなかなか盛んで、先日クラス会(後で述べます)でお会い した村川よしえさんなど選手でした。この女学校生活ではいろいろな事がありました。 ある事でストライキになり、そのためお行儀に丙をもらった事があったり、土曜日は みんなで劇をしたり、楽しい事もありました。
 
 

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3 ピアソン夫妻の思い出

 先日、北見市のことが新聞に出ておりました。そこは元は野付村と申して、そこには 北星に縁の深いピアソン博士夫妻がおられるところでございます。ピアソンさんはいつも 出札されて、巧みな日本語で講演なさいました。
 年月は忘れましたが、ピアソン夫人が東京から帰られて北星で話された中に、こんなことがありました。
 
 当時松井須磨子という一世を風靡した新劇女優がおりました。聖書にあることですが、 バフテスマのヨハネが当時の王ヘロデが兄の王妃をめとる事はいけないと言って獄に入れられた のですが、そのときに王妃ヘロデヤはヨハネを殺そうとしたのです。しかし義人であるので ためらっていました。ちょうどその時、王ヘロデの誕生会が催され、大勢の前で王妃の娘が 美しい舞をして賞讃を浴びました。その褒美としてヨハネの首を盆の上に持って来て欲しいと 申し上げたのです。そしてその首をのせた盆で踊ったという物語なのです。
 それを島村抱月の演出で松井須磨子が演じ、それはそれは大変な人気でした。 二人はそれをたずさえて札幌で公演するために出札する途中の汽車の中で、ピアソン 夫人と同席したのでした。
 
 ピアソン夫人は、今は栄えているけれど、老いた時のみじめさを話されましたが、 二人はだまって別の汽車へ行ってしまったそうです。そこでピアソン夫人は「あの 人は救われない」と怒りの声で話しておられました。それから間もなく、島村抱月 が急死して、その後を追って松井須磨子も首をくくって亡くなりました。それから 余程たってですが、芥川龍之介の自殺があったり、竹久夢路の絵はがきがはやったりして、 若い時代にいろいろな事がございました。そのような世相の中で、大正八年三月、私は 答辞をよまされてどうにか卒業いたしました。
 

4 お世話になった安子叔母

 私が一才のとき、一家が札幌に移ったのですが、ひとり長姉だけが残って祖父母に あずけられたのでした。ところが姉が六才のときに祖父が亡くなってからは、安路叔父 のもとにいたわけです。
 その時のことです。姉がバチェラー博士からいただいた犬ジョンを連れて海に入って遊んで いたのを知って祖母は、非常に怒って、これでは責任がもてない、すぐさま札幌の父母の もとにもどすといわれたのは。このことについては前にも書きました。その時に安子叔母( 安路叔父の妻)が平謝りにあやまって、その場を治めて下さったのでした。この安子叔母には姉 ばかりでなく、私もずいぶんお世話になりました。
 私の北星時代には、叔母は札幌にきておりましたので、よくお世話になったものです。
 土曜日になると、何かご馳走を作っては、長男の中興さんがおとなしかったので、二男の 洋治さんに寄宿舎までよく持たせてくれました。北星は男子禁制のような所なので、女中頭 から「あなたは日野さんの何ですか」と聞かれて、いつも怒っておりました。それでも、いろいろ なものをよく届けてもらったものでした。今の局長の父で、第二次大戦の折りなどもいろいろ お世話になったものです。
 
 

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5 六十年ぶりで再会したクラス会

 一昨年、北星の九十周年記念がありまして、私も学校にまいりました。学校は すっかり変っておりましたが、同じクラスだった若林いほ子さん、村川ヨシエさん、 武市糸子さん、井合萩子さんと六十数年振りに再会しました。会うと八十を過ぎても、 すっかり娘時代の昔に帰って旧姓を呼び合い、本当に懐しく、第一ホテルで早速クラス会 をしました。折りにふれてその時の記念写真を見ては懐しんでおります。
 次の年にもクラス会を催しました。その時には三上とみ子さんも来られました。スミス 先生、モンク先生、エバンス先生の懐しさだとか、物静かな細川さん(若林)、 村川さんのバスケットの様子、また数学の天才だった武市さん、はやばやと結婚した井合 さん(上原)、私が絵が好きでよく画いていたことなどこもごも話しあい、本当に愉しい 一日でございました。
 ことしもと思っていたところ、若林さんが亡くなられたと知らされ、言いようのない 寂しさにとらわれてしまいました。このように一人一人お別れしなければならないのですね。 思えば共に通った日曜教会や、皆で取り組んだクリスマス行事のことなど、言いつくせない 想いでございます。
 

6 若林さんの死をいたんで

  ーご主人様への手紙
 一筆お悔みを述べさせていただきます。
 この度は悲しいお知らせをいただき、何と申上げるすべもなく、ただただ打ちひしがれて おる次第でございます。
 昨年御主人様カルルス温泉にお出での折りのお礼の電話のお声やら、また昨年九月のクラス会 の折りのお姿やらを思い浮かべて、悲しく懐しく御悔みを申し上げるのでございます。
 顧みますれば、北星時代親しく御交際下されまして種々教えをたまわり、また六十年余を過ぎ ましてからお会いいたし、昔をとりもどしたように嬉しく存じました。
 「一期一会」と申しましょうか、昨年が最後のお別れになろうとは、露ほど思わず、今年も またお会いできるのを、楽しみにしておりましたのに、この訃報とはまことに悲しくお悔やみ 申し上げます。ご主人様におかれましては尚さらとお察し申し上げます。これからは御身を御 大切になされまして、御供養遊ばされますよう祈り上げております。私の心ばかりの御花料 でございます。御前にお供え下さいませ。      かしこ
 七月十四日      助川徳子
  悼  若き日の思いは千々に青葉風
 若林様
     御侍史
 
 

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六、結婚とそれから

1 登別の大火と駈け出した長姉

 私がまだ北星女学校にいた大正八年三月、新聞で登別に大火があったことを知り、 心配で気が気でありませんでした。電報でわが家が無事だったことを知って、ホッ と胸を撫でおろしました。それにしても、大火は私の家のそばまでを焼き尽くす 物すごさだったそうです。
 これは後で聞いたことですが、当時長姉は登別小学校に勤めていました。その日は 三月二十一日で学芸会があり、お母さん方が大勢来ていました。それが昼火事だとあって 大騒ぎになったそうです。その時のことを、よく高見さんの奥さんや松崎さんの 奥さんなど、当時生徒だったので、環先生が袴をまくって白足袋のまま、学校から 駈け出した様子をよく聞かされたものです。その時に姉上の胸中が察せられ、私の 胸が痛みます。それを話してくれた方々も、今は皆老いられました。
 

2 私の結婚

 その当時、登別に栗林さんの製銑所が出来ました。主人 助川正己は、故栗林徳一さんと 札幌の中学校時代のお友達でございましたので、そこに勤めておったのでございます。その ような事情から、栗林さんのお仲人で、卒業しました大正八年の七月に結婚いたしました。
 私は三女で、祖母と母と姉二人の生活でしたから、家事やお料理など何も出来ないので、 苦労をいたしました。それに翌年に長男正一を出産いたしましたが、主人は一人っ子、私は 末っ子で、子育てにはずい分心を痛めました。子どもと一緒に泣いて「実家に帰れ」と言われたりもしました。
 幸い母や叔母が近くにいたので、すいぶんお世話になりました。祖母がまだ健在だったので、 毎晩お風呂に入れてもらい、世話をかけ有難く思っております。
 
 

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3 相次ぐ出産と中の沢の生活

 第一次大戦が終って、製銑所(武器を作る鉄を精錬する)も立ちいかなくなり、栗林関係の 会社をまわったり室蘭の町役場に勤めたことがあります。住まいは母恋でした。
 長男正一が麻疹(はしか)になったとき、母が心配して、登別からあの仏坂(今はすっかり平らに なり往来も楽ですが、当時は急な坂で、冬など氷状でテラテラになるのです)を何度も来てくれて、 ずい分お世話になりました。
 大正十年十月に次男千秋が生まれました。遠く厚真から姑が来てくれまして、また祖母も来てくれて 世話になりました。姑は二度目の方でしたが、本当によい方でした。
 そうそう。室蘭にいました頃、正一が夜泣きをして、夜外に出てお守りをしていて巡査から見とがめられるなど、 苦労しました。ところが、静かなたたずまいの中の沢に来て、正一の夜泣きがなおって、本当に嬉しう ございました。大正十二年に静子が生まれた時は、初めての女の子であったので、赤い着物を着せてうれしゅうございました。
 その年の九月一日、東京・横浜方面に大震災がありました。長姉が横須賀におりましたので随分心配しました。 ちょうどその時、姉は、他所からいただいた蜂蜜を器に移していたときでした。地震がきたので外に出ましたら、 義兄が二人の娘を抱いて洗濯竿につかまっていました。ところが揺れがますますひどくなるので、驚いて大地に 伏したそうです。後で山に避難したのですが、蜂蜜が衣類に付着しているので蜂につかれて大変だった、と後で聞きました。
 

4 再び登別にもどってから

 ところが中の沢のこの木工場も大火災になり、殆んど焼けてしまいました。幸い社宅の方は無事でございました。 大正十五年十二月一日に三男朔良が生まれまして四人になりましたが、会社の方は経営が苦しくなりました。 それに私の母が病気勝ちになりましたので登別に帰り、主人は室蘭の栗林本社に通うことになりました。
 それから母は温かい季節には登別に居り、冬になりますと東京の姉の所で養生しておったのですが、 昭和三年四月九日、姉の家で安らかに息を引きとりました。いろいろ尽くして姉には、感謝しきれませんでした。 五十二年にアメリカの次姉が、長野の姉と北海道にまいりまして、父母上のお墓や愛憙おじい様、喜久子おばあ様、 それに忘れられない操叔母たちのお墓詣りをして、帰っていきました。
 アメリカの姉たちが東京へ帰ります時に、私も一緒に上京しました。その折り、東京におられる北星を卒業した 方々と、渡辺千秋様方にて同窓会をしていただき愉しい一日を過ごしました。
 
 

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七、終章

1 長男正一のこと  ー貴則君への手紙から

 長男正一は、大正九年六月一日登別で生まれました。その後室蘭の母恋に移り、 次いで長万部の中の沢に行きました。小学校には、中の沢から長万部まで汽車で通った ので、私は家に帰るまでいつも心配していました。
 次男千秋とは一つ違いだったので、兄が二年、弟が一年で汽車通学をしたのです。正一は 弟の千秋をとても大事にして、馬車が(当時は自動車はありません)遠くから来ると、道端に 自分の体で弟をかばっていました。汽車が来るとまたホームの柵に弟をかばって、ようやく帰って 来た優しい兄さんでした。
 その後、登別のおばあちゃんの実家に移って来て、貴則君と同じ小学校に学びました。六年 から室蘭中学校(今の栄高校)に一人だけ合格して入学しました。その時家では、新聞店やら駅売り やらをしていたので、他の若い人たちがいたのですが、正一は学校から帰ると、弟の千秋と共に、新聞配達 などを手伝いながらよく勉強しました。従って良い成績で卒業し仕事についていたのでした。 ところが、その当時国を挙げての大きな戦争があって、兵隊として満州(今の中国の東北地方) まで行ったのでした。ところが身体を悪くして帰って来たのです。
 絵が大変上手でいつも画いておりました。おばあちゃんの部屋に飾ってある絵は、みんな正一 が画いたものです。昭和十七年十二月五日、二十三才の若さで亡くなったのです。
 

2 次男千秋のこと

 千秋は大正十年十月十四日、室蘭の母恋で生まれました。おとなしい良い子で、 お兄ちゃんが泣いても静かに眠っておりました。
 登別小学校を卒業して、兄正一と共に室蘭中学校(今の栄高校)に汽車で通いました。おじいさん に似て字が大変上手でおじいちゃんはかなわないといわれておりました。貴則君のお父さんは幼い時、 この千秋おじさんの後からいつもついて歩いておりました。卒業して今の新日鉄に入社したのですが、 やはり戦争でニューギニア方面に出征し、きびしい戦闘の中で亡くなりました。昭和 十八年四月二十七日、二十三才でした。
 (「貴則君への手紙」から)
 
 

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3 長女静子のこと

 静子は大正十二年九月八日、長万部中の沢で生まれました。ちょうど関東大震災 があった数日後でした。初めての女の子だったのでとてもうれしくて、赤い模様の着物を 着せて喜びました。
 小学校は登別で女学校は室蘭の今の清水女子高校(貴則君のお母さんと同じ)に入学しました。 やさしい性格でした。やはり戦争になって、駅前から今の本町二丁目に移ってきたのです。 その当時はこの辺は戸数が五・六戸だけでした。幾度防空壕に入ったでしょうか。
 ようやく戦争が終ったのですが、食料(お米や野菜)を手に入れることが困難になりました。 そこで裏の林をきり開き、土を掘りおこし、かぼちゃやいもなどなどを作るのに精を出した のです。ところが馴れない仕事で身体を悪くして、ついに亡くなりました。昭和二十二年 七月二十六日、二十五才でした。おばあちゃんは今でも、このことを思うと涙が出てきます。 静子は貴則君のお父さんをとても可愛がりました。
  (「貴則君への手紙」から)
 

4 三男朔良のこと

 朔良は、大正十五年十二月一日、中の沢で生まれました。三才の時に登別にまいりましたが、 明かるく楽しい人柄でした。
 苫小牧工業高校を卒業して東京の会社に入社しましたが、やはり戦争で出征しました。しかし 武運よく終戦になって帰国し、室蘭の電燈会社に勤めました。大そう歌が好きで、室蘭の合唱団 に入り、夜帰りには大きな声で歌って帰る愉快なタイプでした。
 終戦後、食糧が不足なので北見方面の農家まで行きましたが、よく私を助けてくれました。 夜中に駅に着いて農家まで、遠い遠い道を(そこには鉄橋があるのです)朔良は「母さん、 僕のリュックにつかまって真直ぐ歩きなさい」と励ましてくれました。朝そこを見ると谷底の ような所で、橋には手すりもないところだったのです。もし汽車が来たら到底助からなかったと思います。
 二人でお米を分けて背負い、お金ではなく木綿の着物をほどいてようやく分けてもらうのです。 そして病気の静子や令子、あなたのお父さんの士良が待っている家に帰り着くのです。それが一番 心に残っています。あんなに元気でしたのに、昭和二十三年十一月二十一日に亡くなりました。享年二十三才でした。
  (「貴則君への手紙」から)
 
 

5 四人の子の墓を建てて

  瑠璃島の屍を掌にひと日たのしまず
  臼ひきて夜のしじまを軋るおと
 何十年前かの句ですが、私の好きな句でございます。子供たち四人の墓を建てました折りの句に
    子らと落葉しきてかむりて温くもりし
 まだ主人が健在でして、墓に書いてくれました。その主人も、はや亡くなりましてから五年に なります。私もはや八十二才になりました。ずい分この世に生かされております。嫁の母が去る 七月十五日に永眠しました。私より十年若いのにと悲しく思います。これも覚し召しかと思って 回向いたしております。
 
 

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6 二人の子と孫につつまれて

 私は六人の子に恵まれましたが、上の二人は戦争の犠牲になり、後の二人も 戦後引き続いて亡くなりました。いずれも二十代の若さでした。亡くなった 者ほど、あの子もこの子も良い子だったと思い思します。
 とはいいながら今の私は、後に残った二人の子どものお蔭で、毎日を楽しく 過ごしておるのです。今年苫小牧に転勤した娘令子のもとに半分を、また登別の 息子のもとに半分、といった具合いに世話になっています。どちらも男の孫が 一人ずついて、皆によくしてもらっています。今日も苫小牧から電話で「どうしているか」 と尋ねられました。それを考えると、現今のように子どもが一人か二人であった なら、今の私の生活がなかったのだとつくづく思っております。
 昨年、永年茶道をやったということで表彰されました。その表彰式に出席するのに、 令子に付添われて京都まで行きましたが、東京の姪も一緒に行ってくれました。 三日程度表彰式の後を愉しんで、東京では長野の長姉に会い十日ばかりうれしい 日々を味わったのでした。
 私は若い時から茶の湯をたのしんできましたので、おかげでお弟子さんとの交流もあり、 今でもその方々と時折りお会いして、愉しんでおります。
 

7 母にも似た長姉も今は逝き

 私には、まだ上の姉が八十四才で長野におり、次の姉はアメリカと、それぞれまだ私が幼いような 気持で、手紙をもらっています。どうか私の生きている限り、生きていて欲しいと日々祈っております。
 結婚してからの思い出は、數限りないのですが、六人の子らに恵まれながら、四人を亡くした時の胸のうち など、到底筆にすることはできません。今は二人の子どもがそば近くにおって、何くれとなく世話をして くれますのがうれしく、感謝して余生を送っています。時折り幌別にまいりましたときは 愛隣学校跡をつくづく懐しんでおります。今年の秋には長野の姉に会いにゆきたい、来年にはアメリカまでも と、夢を描いております。
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 ところが、長野の姉がこの年の十月十九日に亡くなりました。私としては母のように思い、毎日のように 便りを続けておりましたのに、悲しい悲しい別れでございました。もうじき一年がまいります。
 「秋の日やまた逢う日までその日まで」
 「柿召せと写真に語る更けし夜に」
 「満天の星座に姉の霊(たま)みたす」
 「長野の空答えずむせぶ風の秋」
 
 

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8 次姉富子のこと

 次姉富子は、性快活で人を惹きつける人でした。北星女学校より東京麹町女子学院に進み、 大正八年に同校を卒業と同時に、母校北星女学校の教師として迎えられました。そこで二か年 してから室蘭清水女学校に教師として迎えられたのでした。ところが常子叔母(愛憙の次女、惇 の妹)が渡米する際、松岡夫妻に可愛がられていたので、もっと勉強したい希望も入れてもらい、 カルフォニア大学に入学したのでした。
 松岡夫妻は熱心なクリスチャンで、富子姉もクリスチャンとして、松岡夫妻が亡くなった後も、 同居していた家に留り、隣りの教会堂を今も管理しております。
 戦争中は家など没収され他に移されたのですが、割と楽な生活で縫物や編物などしていたそうです。 終戦後はもとの家にもどって、私達のことを心配して大きな小包みに、衣類、米麺類、砂糖、糸針に 至るまで送ってくれました。その時には涙がとまりませんでした。当時の食べ物の欠乏といったら、 それこそ大変なものであったので、近所の方にも分けてあげました。
 姉はその後進駐軍の兵士が日本の女性と結婚して渡米した時、女性に英語を教え、結婚の手続き をはじめ随分とお世話をしたようでした。五十二年に一時日本に帰った時には、世話になられた 方々がホテルまで訪ねて来られ、お礼をのべたとのことでした。常子叔母が八十二才で亡くなって からも、広い家に唯ひとり教会を守って、日本の一世や二世の老いられた方々のお世話や、 若い方々との交流に努めております。現在八十七才になりました。
 次は最近の富子姉からの便りです。
 

9 富子姉からの便り

 私は元気でおります。ご心配下さって有難うございます。
 去る木曜日に自動車のライセンスの更新に行って、また四年間もらいました。これで 九十才になるまで運転が可能となりました。もちろん身体の具合にもよりますし、老人で のろいドライブをして、他人のじゃまになってはいけませんから、そこの所は 臨機応変にいたします。また遠乗りや夜間は、絶対しないようにいたします。
 クリスマスも無事にすんで、今お正月の用意をしています。二十人ぐらいのお友達と お餅を食べますので、今から(二十七日)そろそろ始めています。
 お煮しめはお隣の方がして下さり、きんとんも作って下さるので、私は今日、黒豆を 煮たりスルメと昆布を切っております。ごぼうも他の方が作りますので、明日はタツクリでも 作ります。それに魚の照り焼きも作ります。休み休み楽しんでやっております。
 あなた達もお正月の用意で忙しいことでしょうね。しっかりお餅を食べて、元気でお正月を お迎え下さいね。あなたも八十五才になりますね。私たちは二人となりましたが、神様がお呼び になるまで、元気で平安に楽しく暮らしましょう。
 十一月の終りに小包みを信夫さん宛に送りましたし、一万円を手紙で、あなたの誕生日には 着く予定で送りましたが、まだ着きませんか。お正月で郵便局が忙しいのでしょうか。そのうち受 取って下さるでしょう。北海道は寒いでしょうから、幾重にも注意して風邪をひかぬように、 風邪は万病のもととか、信夫、令子、厚支、士良一家にもくれぐれもよろしく。
 昭和五十九年十二月二十七日
               富子
 
 

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助川家のこと   ー「貴則君への手紙」

 貴則君、今年は五年生になりましたね。早いもので生まれた時のことなど、まだ新しく思い出 されます。幌別のおばあちゃん、かおる伯母さん、令子伯母さんやおばあちゃんが、貴則君が生まれるまで 心配であったこと。元気な声が聞こえた時は、ただ何が何だか分からない気持で、お父さんに電話 をかけた記憶があります
 

1 助川家の血すじ

 今年(昭和五十九年)五月二十一日には誕生日をむかえて十一才になります。本当に助川の家に一人生まれて 来ました。幌別のおばあちゃんにもずい分お世話になりました。お元気であったらどんなにか喜ばれたことでしょう。 今度助川一族という本が日本家系協会から出たので、おばあちゃんも読みましたら、いろいろな事を知ることができて、 とてもうれしく思いました。
 それに始めの御先祖が藤原鎌足という、大昔、大化の改新という歴史上の大事業に功労が大きかった方であること。 そして、おばあちゃんの実家日野の先祖と同じであることが分って驚いております。
 中に書いてある方々の事は全部分かりかねますが、昔歴史で教わった方々もあるのでうれしく読みました。鎮守府 将軍田原藤太秀郷(ひでさと)、新羅三郎義光などがそれです。
 

2 助川の苗字の由来

 私が日野の家から助川の家にお嫁に来たのですが、その当時おじいちゃんに聞いた話では、貴則君も知っている平治の乱 があって、源氏が平家に追われた折りに、伊豆に流された源頼朝の叔父に当たる方が、水戸常盤の助川に来られて、助川の 土地の名前をとって自分の名前にされたとのことでした。ところがこの系図を見ますと、源氏の子孫藤原秀郷の子孫である小野崎 より分かれて、助川におられたようです。
 江戸時代から明治になって、士(さむらい)は一番えらいとされていましたのに、禄(ろく、殿様からいただいていた 給料)がもらえなくなった(四民平等)ので、武士たちは生活に困る人が大勢いたのです。
 助川の明治の初めの方は作兵衛という方で(作兵衛ー千代吉ー正巳ー士良)、その時の商人が栄えていたので助川の先祖代々 の系図をお金に換えてしまわれたと聞いております。作兵衛ー千代吉ー正巳ー士良ー貴則。今度助川一族の系図を見ることができて、大変に うれしく思っております。
 
 

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3 助川家の渡道

 千代吉という方が大変苦労なされて、農業をやりながら一生懸命勉強されて、 いろいろな科目の先生の免許状を取られ、おじいちゃん(正巳)が十才の時に 北海道に来られ、今の厚真中央小学校で先生をなされ、その後、西老軽舞(今の 吉野)に校長としておられたのです。その時あなたのおじいちゃんは十歳ぐらいで、 ちょうどあなたと同じ年ごろでした。
 十二才の折りにお母さんが亡くなられたのです。その後二度目のお母さんが 来られたのですが、大変よい方でおばあちゃんは、その方の時に日野の家からお嫁に来たのです。
 

4 優しかった亡き伯父・伯母のこと

 貴則君のお父さんは、兄さん三人姉さん二人の一番下に生まれたので、兄さん姉さん方に本当に 可愛がられました。令子伯母さんはよくお父さんをおぶってお守りをしておりました。これから 亡くなられた伯父様三人伯母様一人のことを書きたいと思います。
 長男正一のこと
 次男千秋のこと
 長女静子のこと
 三男朔良のこと
 これは寒菊の終章に転載したので、
 秋田節子のこと
 この方はおじいちゃんの二番目のお母さまの娘です。おじいちゃまにはやさしいお姉さまで 函館の遺愛女学校に行っていました。字が大層上手で今でもおばあちゃんの手元にあります。 明治四十三年七月十一日、二十一歳で亡くなりました。
 今は貴則君のお父さんやお母さん。信夫伯父さん、令子伯母さん、厚支兄さんにいつも見守られ ているので、幸わせだと思います。感謝してすごしております。
 貴則君はおじいちゃんに似て、字が上手、そろばんも得意です。辰田先生はおじいちゃんとは 長いおつきあいの方です。どうぞ、どうぞ元気で勉強にまた運動にはげんで下さい。世の中の 人々と親切に仲よくつき合って下さい。
     おばあちゃんより
 貴則君へ
 ひいおじい様の立派な頌徳碑のお写真をよく見て下さい。
     (昭和五十九年 記す)
 
 

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あとがき

 母は、親にも似た思いで慕っていた環伯母が亡くなってからというものは、 悲しみが深く、うち沈みがちな毎日でした。
 その姿を見て私は、「幼い頃よく聞かされたお喜久おばあさんのことや、 幸福いっぱいだった幼少から娘時代の想い出を書いてみては」と申しました。 きっと気が晴れるだろうと思ったからでした。
 それから母は、毎日毎日原稿用紙に書いて、どうやら出来上がったものは分厚い ものになりました。さてこれをどのように整理したらよいかと思案していたところに、 日頃ご交際いただいている吉鷹能武子先生がお出でになりました。そこでご相談いたした ところ、早速目を通して下さって、お父上の佐藤誠治先生に紹介して下さいました。 このような本として世に出ることが出来ましたのは、ひとえに佐藤先生のお力添えがあったればこそでした。
 私は、母と共に五十余年間過ごしてまいりました。ふり返って考えますと、母の人生は、 大変な苦難の連続だったようでした。その中でも、第二次世界大戦では二人の兄を亡くしました。 次兄は南方で戦死し、長兄は傷病兵として帰宅したのですが、必死の看病のかいもなく この世を去りました。また終戦になってもあの食糧難のため、栄養を充分とることも出来ない 有様で、姉と復員して来た三番目の兄は、胸を患って相次いで亡くなりました。あまりの 口惜しさに、私は声をあげて泣いたものでした。母の生涯を通じて、二十を過ぎたわが子を、 次々となくしていったことは、どんなに切なく辛く、何にもまして耐えられなかったことだと思います。
 このような悲歎のどん底の中にあっても、母は、残った二人の子のために、遠くまで 買い出しに行き、あの細い身体のどこに、こんな力があるのかと思う程、お米を背負って来て、 私達に食べさせてくれたものでした。
 父の仕事が思わしくなかったので、五十歳にして始めて社会に出ることになり、若い先生方と 一緒に七年間教壇に立ち、生活のために働きました。
 母は、幌別開拓の祖といわれる人を祖父とし、祖母と生活を共にしていたためか、「日野家」の訓え(おしえ) というものが、一本筋金のように貫いている人でした。従って、ふだんは優しい人でしたが、 何か事が起った時は、決してオロオロすることなく、テキパキと指示してくれました。自分の幸福 よりは、他人の幸福を祈る信仰心の厚い人で、趣味も豊かでした。多忙な中でも、美しいソプラノで 歌をうたったり、短歌や俳句も作ったりしました。また後年には、茶道を特に好んで、熱心にお弟子に伝えたものです。
 苦しみの中にあっても、それを苦労とも思わなかった母の、心豊かで力強い生き方は、同年近く生きた祖母喜久子 の姿に共通したものがあったようで、祖母にはことの外想い出深かったようです。世のため人のために尽くした 先祖のことを、子や孫たちに伝えなければという一念で、一生懸命書き綴ったようです。それに苦労した姿しか 見せなかった私達に、人もうらやむ華やかな幼少時代と青春時代があったことを書き留めることによって、それで 自分を慰めているように思います。
 母は八年前に大病はしましたが、それも回復し、今は新築した家で、のんびりと孫たちの成長と 幸福を祈りながら、余生を楽しんで居ります。私たちは、いつまでもいつまでも生きていてほしいと願って居ります。
    野崎 玲子
 
 

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