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郷土史探訪(11)   宮武 紳一

外国地図で紹介された古いまち「幌別町」

 登別市内の地名でもっとも古くまた、登別地方の行政の中心として江戸時代から知られていた 所は現在の「幌別町」です。  
 有名な「コシャマインの乱」を鎮定して蝦夷地に勢力を伸ばした蛎崎氏が、大阪城の徳川家康を訪ね、 蝦夷地の特産物を献上しましたが、そのときの献上物のひとつが「蝦夷地三絵図」という蝦夷の地図を 説明し領国として認めてもらいました。この地図の中でイブリ国に六領がおかれ、その一領として「ホロベツ」 の地名が出ています。
 
 これが登別市内最初の地名で、現在の「幌別町」に引き継がれているわけです。
 
 豊臣秀吉の時代にも、蝦夷島のイブリ国に六領をおく、その一領としての「ホロベツ」の名があり、 市役所の側に妙見稲荷社の「堂宇」があったと伝えられていますが明確ではありません。
 
 蝦夷地の「場所」の開設は早くから行われたものと考えられます。「蝦夷地一件」という資料をみますと 「慶広代ヨリ以後追々相開き候儀にて…」と書かれておりますので、道南地方の松前に近い「ホロベツ」 「エトモ」「ウス」「アフタ」「シラオイ」「ユープツ」などイブリ六領の地域は、相当早くから知られて いたものと思われます。
 
 
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 「ホロベツ」の地名は以前にも紹介しましたが、世界地図上で示された日本の地名の中では最も古い方です。
 
 寛永二十年(一六四三年)、オランダのマルテンド・フリース船長が黄金の島発見のため蝦夷地東岸の 松前から根室まで航海し、調査をしていますが、この時、有名な「ヤンソニウス」の地図に「パラピト」 という地名で「ホロベツ」が紹介されています。
 
 津軽藩史十巻め記録の「シャクシャインの乱」の条項から、この戦いでアイヌ軍が撤退し、シャクシャインに味方した 幌別地方の人々は逃走し、一時期この地方がさびれたことも伺われます。
 
 その後、約五十年後の享保年間には、ホロベツ、ワシベツを中心に復活し、人も増えました。しかし、 「福山秘府」には、寛保元年(一七四一年)渡島大島の火山爆発で大津波がおこり、溺死者千数百余、家屋 破損約八百戸という惨事が記録されており、ホロベツワシベツ部落も全滅以後約二十年は、人が居住しなかったといわれています。
 
 又、これらのことから当時の人達の居住地は、海岸や河口近くに多かったこともわかります。
 
 
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 ホロベツを中心に登別市内のことが少しずつ分かるようになるのは一七九九年、江戸幕府が太平洋岸の 東蝦夷地を直接治めることになり、蝦夷地探検家や役人が多く来るようになったからです。
 
 文化四年(一八〇七年)の記録によりますと、ホロベツは「母衣別」と書かれて紹介されています。
 
 当時の人口は三百二十五人で、トノレンカやイツレイという村役人もおかれました。
 
 母衣別場所内から生産されたものは身欠ニシン、数の子、ふのり、干タラ、秋アジ鮭、ニシンの 白子、イリコ(煮たナマコ)、しいたけなどがあります。安政四年(一八五七年)の生産物は前記の他に、 うぐい、いわし、ホタテ貝などがありました。又、珍しいものとして、春川の水が溶け流れる頃に なると、「チライ」がホロベツ川にのぼってきました。「チライ」というのはアイヌ語ですが、現在幻の魚 とよばれているサケ科の「イトウ」のことで、春一番に川をのぼり、成魚は普通一メートル以上の大型の ものが多くいます。
 
 
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登別地方のむかしのお正月

 昔、お正月というと一番良い着物を着て、しめ飾りや門松などで家を飾り、餅つきをして雑煮、七草粥を 食べ、子供らはカルタとり、双六遊び、凧あげ、そしてお年玉をもらうことなど、当時の貧しい社会は家族が 団らんするという機会が少ない時代ですから大人にとって最も楽しい家庭の行事でした。
 
 お正月というのは、年神様をお迎えする行事ですから家のまわりや家の中の汚れを払いおとし、飾り物や供え物をして迎えます。
 
 早い家では十二月の中過ぎになると、しめ縄をはって飾る「しめ飾り」や、本州のま竹がないので「割った薪で輪 をつくり、その中に笹やエゾ松の伐った枝をたてて飾る」という方式で門松をたてることも東北地方から登別に 移住した家にみられました。
 
 また、お供餅(鏡餅)を作るため、大抵の家にうすやきねがありました。浜の漁師の人達や農業などでも、 本家の家に親せきの者が大勢集まり一俵、二俵と大量についた家もありました。当時は、きねでつく時の「あいどり役」 でも気合いをいれながら男が務めていたようです。
 
 
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 お供えにする鏡餅は、神前や家の中心となる部屋などに供えられますが、昔は、その他に台所流し場、 当時は戸外にあった便所、漁師の家では船首に、農家では馬小屋というように神が 存在すると思われる場所にまつられていました。
 
 このように供え餅をする風習は年神様がお供えに対する心を受け入れ、 強い霊力で家族が健康で幸福であることを見守ってくれるという考えや、 神に供え霊力がのりうつった餅を食べることにより人間に強い霊力がのりうつるという 意味から行われたものです。
 
 正月用の料理は、にんじん、ごぼう、ふき、たけの子などが入った「煮しめ」や鮭の 頭をうすく切って入れた「なます」などのほか黒豆の煮物、数の子、にしんの昆布まきなどが あります。家庭によっては異なりますが吉例に準ずる調理の方法は、やはり年神様を迎えるためのものでしょう。
 
 新年の御祝儀として他家に贈る年物のことを「年玉」といって、霊感の強い者が弱い者に霊感を一部与える という意味がありました。今は、「お年玉」というと子供や年をとった人達がもらうようになり、 特に子供にとっては正月の最大の楽しみとなっています。
 
 
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 正月の遊びというと、第一はカルタとり、ほうびき、すごろくなどで昭和になるとトランプも 普及してきました。
 
 なかでもカルタとりは、若者達にとって欠くことのできない遊びで、あちこちの家に十人くらい集まり、 カルタを読みあげる声は外まで聞えました。そして赤々と燃える薪ストーブを囲んで、 大鍋に酒粕をとかして砂糖を入れた「ヨカンベ」といわれた甘酒を、飯茶碗でふうふういって 呑むのも正月の楽しみでした。
 
 このようにして過ごした正月も、一月七日には正月送り、松送りといって、しめ飾りやかど松などの飾り を除きます。一月十五日は「小正月」、一般に「女正月」といわれ、家事から解放され、 御馳走を食べたり、嫁さんは泊りがけで里帰りが出来ました。そして、二十日正月は送り正月、 終り正月といって、これで長い正月も終る訳です。
 
 昔の正月にくらべて、今日の正月は形式的になりましたが、一年間の節目、折り目であることに 変わりはなく、夫々の家庭でお正月の本来の意味を考えることも意味のあることだと思います。
 
 
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登別市の中心であったまち「幌別町」

 幌別町一丁目、国道三十六号の交差点西側に「幌別会所跡」という掲示板が立っています。
 
 約百六十年前の文政五年(一八二二年)幌別場所請負人、山田治兵衛によって運上屋がこの地に 設置されたことと、安政五年(一八五八年)幌別場所請負人、岡田半兵衛が会所を新築したことなどが その内容として書かれています。(
 
 江戸時代には、会所の側に鍛冶小屋、製材をする木びき小屋、大工の作業小屋、あきあじ小屋などのほかに、 物を貯蔵する倉庫が四カ所あったことも書かれています。ロシア、イギリス、アメリカなどの艦船が 来航するようになって、幌別も安政二年には南部藩の警備地になると、この会所にも、箱館奉行の役人や 南部藩の武士たちが公用で宿泊したりしたものと思われます。
 
 時代は移り、明治三年になりますと、幌別郡の支配者として片倉家主従が移住してきました。行政の 中心は、現国道である札幌本道を中心とする幌別町一・二丁目で、幌別郵便扱い所や 室蘭警察幌別分署、病院や旅館、商店などもありました。
 
 
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 明治二十五年になりますと、北海道炭鉱鉄道(現在の室蘭線)が敷設され、同時に幌別停車場が 現在の駅の東側、幌別町五丁目にあった大北さん宅の裏側辺りに設けられました。しかし、停車場の に西北側は湿地帯でしたので、すぐ現在の幌別町一・二丁目境の地点に移転されました。明治三十年 には駅舎も造られ、改築、増築を繰り返しながら昭和五十三年まで九十年間、 幌別駅として活躍してきました。
 
 役場庁舎も随分移動していますが、公的庁舎として設置されたのは明治四十年頃で、場所は 幌別町三丁目二番地でした。
 
 この役場は、駅から五十メートルくらいの位置にあり、全国で最も駅に近い役所として有名でした。
 その後、幌別町三丁目の生活館のところに移転し、昭和三十六年中央町六丁目十一番地の現在地に移転しました。
 
 幌別町に馴染み深く「アイヌの父」として全道的に仰がれたジョン・バチェラーは、、明治十六年、 幌別町四丁目十一番地(鉄南郵便局東側)附近に、広い土地をもって居住していた金成喜蔵宅に 世話になり、その後、札幌で師範の教育を受けた金成太郎からアイヌ語を学んでいます。
 
 
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 金成家は、幌別の巨酋で、一族からはユーカラの伝承者金成マツや、神謡集の知里幸恵、 言語学者の知里真志保らを輩出させていることは周知のとおりです。
 
 金成喜蔵が、バチェラーのために、自分の家を修築して居住させたり、宣教師バチェラーにとって 最初のアイヌ人洗礼者となった金成太郎との出会いなどから、登別市とジョン・バチェラーとの深い 関係が生まれました。
 
 バチェラーは、現在の青葉町、吉鷹氏の牧場に住宅を建てて、ルイザ夫人と過ごしました。明治二十年、 現在の幌別町五丁目二番地、大塩氏宅地内に道南地方でも初めてのキリスト教の私立学校 「相愛学校」(後に愛隣学校)を建て、子供はもちろん、村の人達にも教育の普及にあたり、 キリスト教の布教につくしました。
 
 商業関係では、明治二十年頃から幌別町を中心に、酒、みそ、しょう油などの醸造が行われ 胆振各地区に移出されました。また、井上伊勢八らは、幌別町の前浜を中心に漁業を営み、幌別漁場 のみならず室蘭の 追直や白老の各漁場へも進出していることなど、その拠点はやはり幌別町でした。
 
 
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イワシ漁でにぎわった幌別海岸「幌別町」

 幌別町の昔の町並みは、「札幌新道」とよばれた現在の国道に両側にありました。
 この町並みの浜側はすぐ海で、多くの人達が漁業中心に生活していました。
 
 幌別の海岸は、冨浦岬から鷲別岬までの約十三キロの中間に岩一つない砂浜で、波打ちぎわから 急に深くなっています。また、風を避ける岬や入江がないことからシケry日が多く、特に「ほんやませ」 といわれる東風や、南風が強く吹いてから「あい」という北風に変わる時の波を「あいまわり」 といい、海の一部分がそのまま陸にのし上がってくるような大波でした。
 
 あまりにも大きな波のため、普通「波」という字を書きますが、幌別の海は特に「浪」という字を 用いたと、知里真志保博士も語っています。
 
 現在の幌別の海岸は、浸食に対する護岸工事や、家が建ち並んでしまいましたが、昔は、浪打ちぎわ から少しずつ高くなって砂場が長く広がり、砂が盛り上がって高くなったところで海岸に続く草原地帯 が広がっていました。
 
 海岸の砂原には、二、三十メートルごとに砂の波ができていて、やや低い部分に、海の波でもまれ、磨かれた 奇麗な砂利がありました。また生きたままの蛤も拾うことができ、模様が奇麗なので子どもたちの遊び道具にもなりました。
 
 
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 シケたあとには、煮てもやわらかく味の良い上等のコンブがたくさん打ち上げられました。
 
 海岸に打ち上げられた木は、四、五十メートルほどの太い樹から枝木までありました。オカの 高いところに落ちている木は、ほとんど乾燥していましたので、冬の暖房用の薪にしました。 夏は、子ども達が泳いだ後に景気よく燃やして暖をとったり、焼き芋をつくって食べたりしたものです。
 
 この他、イワシや毛ガニなどもよく打ち上げられました。
 
 前浜での漁では、鰯の部類が四月頃から十一月頃までよく獲れていました。四月頃から五月頃 までは“馬鹿鰯”とよばれるものが続き、六月頃から比較的油の多い、“小にしん”が撮れはじめます。 これに続いて漁獲量の最も多い“大ヒラゴ”“中ヒラゴ”“小ヒラゴ”とよばれる鰯が獲れ、 体形の小さいマルイワシ、ウルメイワシなどが十一月頃までとれました。
 
 このように鰯は、大体いつでもよくとれていました。
 
 焼いたり、煮たり、干したり、塩づけ、みりんづけ、酢づけ、野菜に混ぜたつけ物など、年中 縁の切れない食べ物でしたが、漁獲量のほとんどは魚粕にされました。
 
 
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 石を組み立てて作った「カマド」に、ニシン釜といわれた大釜をのせ、イワシや サバなどを煮ます。これを海岸からオカのほうに上がった広い草原に筵 干しにするのです。燃料はもちろん打ち上げられた木で作った薪で、魚の ある限り作業は続けられました。
 
 砂浜には、植物もたくさん自生していました。
 
 白ヨモギは、上に大きくならず横に広がり、葉はやわらかくヨモギ餅のっ材料としました。「ボウフ」 は今日、高級料理に使われていますが、幌別の前浜には、どこにでもたくさん ありました。春五月頃になると、砂の上に小さな芽がでます。これに包丁を 深く砂中に突きさし廻しながら切ると、約十センチメートルのまだ浅黄色い 「ボウフ」がとれ、当時の食卓を飾りました。
 
 幌別の前浜は、ここで生活する多くの人達の中心であり、多くのロマンもありました。
 
 
 
 
 
 
 
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昭和17,18年に1,450戸の社宅「富士町」

 登別市内の行政地名は、昭和四十九年四月に大改正が行われましたが、このとき 誕生した地名のひとつに「富士町」があります。
 
 長い間、富士製鉄社員の社宅街として、他の地域とは少し異なった形成と発展を続け、 富士鉄社宅の愛称でよばれていたところから、この地名が付けられました。
 
 この街の誕生の源は、大規模な社員住宅の建物です。
 昭和十二年の、日中戦争の勃発で戦時体制が次第に緊迫の度合を深めるようになり、 室蘭の日本製鉄所や日本製鋼所では、生産増大のため従業員の大増員が行われ、社宅も多く建築されました。
 
 登別市には、昭和十四年日本製鉄炉材製造株式会社の社宅が鷲別に建てられ、 現在の新川町三丁目で、日本製鉄幌別沈殿池の工事も行われました。
 
 昭和十五年には、これに伴う社宅も建設され、昭和十七年から十八年にかけて、富士町の前身となる 字来馬六七番地の広大な村有地に約千四百五十戸の日本製鉄社宅が建設されました。
 
 
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 千四百余戸、約九千五百人の会社社員や家族が移住し、急に新地で生活するのですから、 いろいろな問題がおこるのも当然です。
 
 まず、入居者の選定に問題がありました。急激に増える児童が幌小に入り切れなくなる虞(おそれ)が あるため、独身者か幼児のいる家族が優先して入居しました。
 
 また、幌別駅は東口しかありませんでしたので、幌別一丁目の踏切を通らなければならず、 中には鉄道線路を横ぎる人もいて、駅員とのトラブルもありました。
 
 このような中で、社宅街は南区(四丁目)、東区(五丁目)、西区(六丁目)、北区 (七丁目)に整然と区分され、昭和十七年には、中心的位置にあたる七丁目に、米穀、 食料品、衣料、家庭用品など生活必需品を取り扱う幌別配給所ができて人々の生活を潤しました。
 
 同年、社宅が木造平屋建のため、防火には特に力が入れられ、防火槽や消火栓が 設置、消防ポンプ車一台と消防隊が配置されました。
 
 また、昭和十八年には、郵便局や来馬巡査駐在所、病院などもできました。
 
 
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 学校も社宅開設当時は、一時戸田組の建物を利用し、、昭和二十六年には、富士鉄幌別寮を 仮校舎として幌別小学校の来馬分校となりました。しかし、昭和二十七年幌別西小学校の設置に よtって、幌小へ通学していた児童の通学難や教室の二部授業なども解決されました。
 
 当時この街で暮らした人達にとってなつかしいことは、昭和二十六年十二月に建設された 劇場附属の幌別会館(現来馬集会所)ではないでしょうか。
 
 文化的行事や施設のない時代に、公共的な施設として開放され、映画の上映館として人気を集めました。
 
 また、結婚式の会場としても非常に多く利用されました。現在五、六十歳になられる方々の中には、 結婚披露の会場として利用された方もたくさんいるのではないかと思われます。
 
 社宅の開設当時、居住された多くの社員の中には、若い人や独身の人達もたくさん居りました。
 
 現在、これらの方々が既に退職をされ、時代は孫の代になって、昔の社宅の街並も見られない今日の 変容ぶりを思うとき、時代の波の大きさと、時の早さに驚きながらも富士鉄社宅時代を 懐かしむ方も大勢居られるのではないでしょうか。
 

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