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郷土史探訪(2)   宮武 紳一

「神の湯」川又温泉

 幌別鉱山から四キロ上流へ
 幌別駅から北西に位置しているカムイヌプリ(幌別岳)へ向って富士町の大通りをとおり、 ダムへ行く道路の中心付近は、明治・大正・昭和にかけて幌別鉱山から鉱石やいおうなどを 運搬した、軽便鉄道の走っていた跡です。

 その軌道は、登別高校横の道路をまっすぐ、ダムの中心を通りぬけ、山間をぬって約九・六 キロメートルさかのぼり、いおうの生産では東洋一といわれた幌別鉱山に達していましたが、その 位置はまた幌別川の上流にもあたっています。

 この幌別鉱山の左方を流れている川は、ワシペツ・エ・オマベツ(ワシ別・に・水源のある川) といって、鷲別岳(通称=室蘭岳)に源をもつ川で、クスリ・エ・サンペツ(薬湯が、そこから 流れでている)川とも言いますが、この名称のとおり、川沿いを右に約四キロメートルほど上流に いくと、美しいけい流のふちに温泉が静かにわきでています。
 これが、登別市における第三の温泉「川又温泉」です。
 
 水温34度で薬効あり
 昭和四十七年、道立衛生研究所が分析した書類によりますとー検査期日五月三十日、天候晴、気温 摂氏二十度の時に、温泉湯の温度は三十四度二分で、体温よりやや低く、湯のゆう出量は毎分二百三十 リットル、無色透明のきれいな湯でほとんど無味であるが、微弱硫化水素のにおいがする。

 適応症として、創傷・皮ふ病・リウマチ性疾患・神経麻ひ・胃腸病などとその効能は非常に多いーとなっています。
 
 発見者は水戸藩出身の川又兵吉
 川又温泉の名称は、水戸藩出身の川又兵吉(天保十四年水戸で生まれ、大老井伊直弼が害された桜田門外の変 に、一族が関係したので南部に逃避し、その後北海道にわたり、幌別鉱山では木賃宿も経営していました) が、明治四十一年に発見したので、その姓をとって「川又温泉」とよばれています。しかし、文献によっては「川股 温泉」とも書かれています。
 
 これは、温泉のすぐ下流が二股に分れているようで、ペナウン・ペドコピ(川上の上の方にあり・合流点)の 名称もありますが、「川又」の氏名を分らないまま音読みでつけた名称で、川又温泉が正しい書き方と思います。
 
 しかし、この温泉の利用は、かなり以前からアイヌ人らによって「神の湯」として貴重がられ、使用されていたようです。
 
 

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 神の水を日高からも汲みに
 クスリアフプルカン(薬湯を・我ら・もらう・のが常である・場所)という 呼称も川又温泉の場所をさし、川又兵吉の三代目になる川又輝光氏(明治三十三年生まれ) が語る「祖父兵吉の温泉発見の動機」を聞いても当時の様子が分ります。
 
 ー 祖父は、山歩きが好きで、この時は鉱山からマレップ(伊達方面)への山道をさがすために、 クスリエサンペツをさかのぼって行ったが、山奥深く入ると間もなく異様なにおいがしてきた。
 
 祖父は、登別温泉に行ったことがあるので、温泉のにおいであることがわかったようだが、とにかく 急いで川をのぼると、けい流の岸辺で見たこともないおばあさんが、懸命にビンに水をくみ入れている。
 
 そばへ行き声をかけると、びっくりして立ちあがったが、お話を聞いてみると「私は、日高から幌別の 知人を頼ってきたのだが、この湯は神の湯で、アイヌの人達は、傷でも、やけどでも、腹の病気でも、 眼でも、神が授けてくれたこの湯を飲み、神の水をつけて治すのです。
 幸いに、このホロベツの神の湯をくむことができたので、急いでまた日高へ持ち帰るのだよ。」と話してくれたそうです。
 
 当時としては、遠い日高からわざわざ幌別へ、そして深い山奥まで来るということは普通では考えられません。
 
 それはまた、当時の「昔」といわれた時代に、この湯が利用されて著しい効果があった事例や、実際の ききめのあることを意味していたのだと思います。
 
 天然痘にも使われた温泉?
 江戸時代も末に近い、文政期(1818年~1829年)や、安政年間(1854年~1859年)には、 蝦夷で天然痘が大流行し、特にアイヌ人の死亡が著しかったといいます。
 
 江戸幕府の役人でした、松田伝十郎の「北夷談」によりますと蝦夷地では、 天然痘がおこり、この病気になった者は、十人が十人とも助かる者なく、親が病気にかかるとその子は逃げ、 子が病気にかかるとその親は逃げ去り・・・と当時の流行の激しさを記しています。
 
 幌別地方でも、天然痘が横行し男女とも顔に鍋のすみを塗って、山奥に逃げ込んだといいます。
 
 幸い、生命の助かった人も、身体はただれているので、治療の必要があると思われますし、当時の狩猟生活 は、自然の山野を相手に装備の不充分な状況で駆けめぐりけがをする人も多く、外傷から死亡する 人もまれではありませんでした。
 
 蝦夷の人達は、当時、約百種類の薬用植物を使用していたといわれますし、温泉の利用も当然と思われます。
 
 江戸期に、川又温泉を利用したという文献資料がないので明確ではありませんが、当時の状況から人間の 生命を守り保持するために、川又温泉の湯を使用する大切さに比較し、少しぐらい遠くても、 湯をくむことは驚くにあたらないと思います、
 
 
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 神の使いの蛇が今もすむ
 川又兵吉はその後、温泉権を出願し許可を得て掘立小屋を作りましたが、湯宿として 出来たのは昭和七年です。
 
 客は、一週間程度の食糧を背負い湯治にいきます。
 二股の川には、サケ科の魚で奈良、和歌山ではキリクチ、福井ではイモウオとよばれている イワナ(エゾイワナ)や、カジカがたくさんいて、ミミズ数匹をまとめてひもでしばり、川の よどみに入れると、大きいのが面白いように釣れました。
 
 ミミズの固りを食わえこんだらイワナもカジカも絶対離さない、釣り針は全くいらないのでした。
 
 また。川又温泉の名物には「青大将」がいました。
 ここは実に蛇の多い所で、川岸の岩場にある大きい石の間には、十数匹がからまっているし、宿の 温泉場にも、入ってきます。
 
 湯治客は、びっくりして飛び出し、脱衣の所へいくと衣服のかたわらに青大将が気持ち良さそうに・・・ と全くうそのような本当の話です。
 
 蛇は殺しませんでしたが、たまたま殺した人が早死にしたという伝えがあります。
 
 今は少なくなった蛇ですが、昨年八月「神の使い」である蛇を祭る祠(ほこら)が、東京の 人によって作られました。
 
 やはり「神の湯」です。
 山深いけい流のそばに、今は小さな木の湯つぼだけを残す温泉ですが、今でも、苫小牧、虎杖浜、 そして昔を知る登別の人々によって、温泉の湯がくまれていることを知る人は少ない。
 
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古くからひらけ「会所」のあったホロベツ

 登別市内で、もっとも古い地名は「ホロベツ」です。
 蝦夷島主と自負する松前慶広は文録二年正月、朝鮮出兵のため北九州の名護屋敷で 戦いを指揮していた豊臣秀吉を訪ねて独立の蝦夷島主と認める朱印状をもらいうけました。
 
 秀吉に説明した蝦夷島には、胆振に六領がおかれ、その中に「ホロベツ」の名称がみられ ますのでこれが「ホロベツ」地名の最初でしょう。
 それは今から四百年前のことです。
 
 秀吉が没して、徳川氏の勢力が強くなると、家康には多くの贈り物とともに「蝦夷島三絵図」 を献上しましたが、その中に「幌別場所」がありますので、この頃ホロベツにも場所請負人が現地人と 交易する運上屋がおかれたものと思います。
 
 また、世界の地図上では、江戸時代のオランダは我国と交易をしていた唯一のヨーロッパの国ですが、 オランダ東印度会社から「黄金の島」探検の命令をうけたマルテン・ド・フリース船長は、蝦夷地を 探測した最初の人で、寛永二十年(1643)に松前から根室までの調査航海中に、エルモニ(室蘭エトモ)、、 アルベサリ(白いというラテン語のアルバを推測してエトモからワシベツにかけての白い岩壁のどこかを 言ったと思われます)、エルエン(エリモ)などの地名の中「パラピト」とよばれる地名で「ホロベツ」を 紹介していますが、世界的に示されたものとして貴重なものです。
 
 その後、ホロベツは国内地名としてときどきでますが、場所請地でありながら、具体的な生活状況は 分からないことがたくさんあります。
 
 
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 十七世紀以来、有珠岳の数度にわたる大爆発や、樽前山の噴火という大自然の災害のほかに、 寛文九年(1669)には、ホロベツから釧路の「シラヌカ」にかけてたち上がったアイヌ人の 反乱(シャクシャインの乱)があり、ホロベツ地方の人心はかなり動揺していたようです。
 
 さらに十八世紀半(1741)には、松前西方の渡島の大島が大爆発して、海中での地震と大噴火の ため大津波がおこり、蝦夷人の死者や家屋、舟の破損は記載されていませんが、和人だけでも溺死者 千四百六十七名、家屋破損七百九十一戸、舟破損千五百二十一隻におよび、海辺にあったホロベツワシベツ 部落は全滅し、以後、約二十年間は全く人が住まなくなったといわれていますが、具体的な記録は残っていません。
 
 文化四年(1807)に宗谷場所からの帰り道「ホロベツ」に一泊した「田草川伝次郎の日記」によりますと
 ーアイロ(虎杖浜)より山路を行くと、フシコベツ(登別漁港から臨海観光ホテル下の低湿地帯)に つくが、ここに小川があり、川岸に「シラオイ」との境界のくいがあって、これからは母衣別領(ホロベツ) ノボリベツである。
 
 ランボク(冨浦)山上に休憩所があり、これより四、五曲りの急な坂(冨浦国鉄トンネル側に近い 七曲り坂)をおりて海岸野道を二里程行くと「母衣別」である。
 
 母衣別(ホロ別)の夷人の総数は、三百三十四、五人でその取りしまりには、トノレンカ、イツレイ、トツカリの 三名の名前があり夷人居住地は、母衣別、ワスヘツヌフリヘツの三カ所である。
 
 産物は年々同じでないが、ニシン、白子、数の子、身欠ニシン、干鱈、コンブ、イリコ、ふのり、しいたけ、秋味鮭、 鹿皮などで、支配人「伝次右ヱ門」、番人「治六」で、名のない人物である。
 
 
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 また、安政四年、幕府役人に随行した「玉虫左太夫の日記」にはホロベツ場所の漁獲物は、 前記の他に、なまこ、うぐい、いわし、ホタテ貝なども記載され、珍しいものとして、チライ (イトウ)の名もみられますが、収益は多くないので、エトモ・ムロラン場所に含ませた数量でも書かれています。
 
 また漁が終ると、山猟の時期で鹿は勿論、熊の皮、熊の胆、狐の皮、むじな、てん、かわうそなどの 毛皮は、いずれも高額で取り引きされ、良い品物には手当もでたので、ホロベツでは好んで狩猟されたようです。
 
 また、幕府にとり大切な通路であるホロベツ会所は、安政元年(1854)に建坪四十七坪であったのが、 三年後の安政四年、建坪百四十七坪(四百八十五平方メートル)と増改築して非常によい建物で、かじや、 大工、木びき、秋味小屋などの他に、雑物蔵が四戸、会所奥にあったと記されている。
 
 その他、蝦夷人二百五十七人(男百十七人、女百四十人)馬七十二頭、ぞうり三百足、タイマツ数百本を 備え、会所のからわらにはイナリ堂と立札が掲示され、道往く人の便をはかっていたものと思われます。
 
 会所の場所についての資料もありますが、片倉一族とともに開拓の鍬をおろした佐野家の佐野督三氏は 「現在の幌別町二丁目杉尾木材店から鉄道にかけての方向にあった」と、父から聞いたことを話してくれました。
 
 
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武士団による幌別郡の開拓  片倉家をめぐって

 明治二年、北海道地名の名付親として著名な松浦武四郎の建議により、蝦夷は「北海道」と 改められ、道内に十一国八十六郡がおかれた、このとき幌別村、鷲別村、登別村の三村をもって「幌別郡」が生まれました。
 
 この幌別郡に集団で最初の開拓のクワをおろしたのは、白石城主の片倉小十郎邦憲とその家臣らです。
 
 彼らが幌別の開拓にのりだした理由の第一は、朝廷軍からみた片倉家は賊軍であり、新政府からみると 反乱軍になるわけで、この始末をどうするかでありました。
 
 江戸幕府は鳥羽伏見の戦いにやぶれ江戸城は占領されましたが、東北では、会津藩を救うために仙台藩六十二万石 を中心に、奥羽二十五藩が結束し、片倉家の白石城に集まり、東京政府に対する北部政府を計画し、新政府軍に 反抗しましたが、連戦連敗してついに降伏しました。
 
 賊軍となった仙台藩は、六十二万石から二十八万石に縮小され、幌別移住の片倉家は白石一万八千石、伊達市移住の 亘理二万三千八百石(伊達邦成)、室蘭市石川町移住の角田二万一千四百石(石川邦光)の所領は没収されたものの 仙台藩直属の家臣なので身分は保障されました。
 
 
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 しかし、陪臣である片倉家らの家臣は「刀を捨てて百姓になる」より生きる道がなく、 南部藩が白石の領地を引きとりにくると、家臣らは武士を捨てて南部藩支配の百姓になるか、 新しい開拓地を求めて自分達の領土をつくりあげていくかのいずれかを選ぶことになったのでした。
 
 江戸時代を通じて一国一城制のときに、仙台藩のみは特別二つの城をもつことができ、これが 青葉城と白石城で、片倉家は禄高では五番目ながら城もちとしての格式を誇っていたのであり、当然 刀を捨てて他藩の百姓になれなかったのでした。
 
 また新政府で困っていたことは江戸時代から「奥蝦夷地」と名付け、我が国の領土のようにみなしていた、 樺太や千島にロシヤの勢力が強大になってきたので、北海道を一刻も早く開拓して北方警備の拠点とする必要があり、 そのためにも移民が必要でした。
 
 当時東京で、北海道への移民を求めたところ、約五百人の応募者がいましたが大半は浮浪者で役に たちませんし、諸国の農民はそれぞれの領土の所有で土地に縛られ農業移民を求められない事情にありました。
 
 この時に、兵農の二面的立場をもつ士族移民や有力大名・大寺院などに所領を分け与え支配開拓させることにより 国防の強化と開発をはかっていたので、片倉小十郎の北海道開拓嘆願書はただちに取りあげられることになり、 胆振国のうち幌別郡の支配を仰せつかったのでした。
 
 
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 幌別郡への第三回めの移民六百名の人が、廃藩置県による政府の命令で札幌白石町と手稲町に変更移住したことで、 現在札幌の白石と手稲の開拓の基礎を築いていますが札幌白石よりも先輩格は登別市で六百名が幌別に居住開拓していたら、 明治期から今までと変った登別であったかもしれません。
 
 片倉家の移住者は、幌別場所としての漁業に期待していたのですが、商業資本を必要とすることや不慣れから、やはり 農業が中心でした。
 明治三年に耕作経験者をよんで豆、麦、大根などをまいたところ生育が良かったので、早速耕地の造成にかかっています。
 
 開拓には、移住者全員が集団的統制のもとに力を合わせて働き「農業規約」をつくって厳格にしました。
 たとえば「五戸を一組とする五人組の共同作業で、病気や事故がなければ休むことができず、雨天の日は 家の中で農事に関する労働をせよ。また、雨天や休暇日は近隣相対し会合し農話会を開け」などです。
 
 明治七年には農社を結成して、開拓使から幌別では牛四頭と開墾用のプラウの使用や牛舎・社宅を建て、いち早く西洋式 農法による模範畑を経営していることは特筆に価することです。
 
 
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名産「幌別大根」「葉タバコ」を育てあげた人たち

 明治二年、片倉邦憲が幌別支配を命じられてから、開拓移住は明治五年までに、約八十五戸を数えましたが、 後継者の六百余名は、札幌の白石や手稲に変更を命じられて移住は途絶え、また、居住していた者も室蘭その他に 転居して一時、幌別は淋しい限りであったということです。
 
 しかし、明治十四年から二十年にかけて、四国の讃岐や淡路から約百余戸、その他兵庫、静岡などからの移住者を 迎えて、第二期の本格的な幌別の開拓が始まります。
 
 これらの開拓移住者は、幌別から登別にかけての国道沿い(札幌本道といった)や、来馬方面に入植し、一戸が 約一万坪の土地を開墾することになりました。
 
 しかし「天をもしのぐ大木と密生する熊笹が相手では、郷里で用意したなた、斧(かま)、くわ、などの全てが 原始の巨木の前には役にたたず、家族六人で一日に二坪か三坪の開墾である」と、『丈草の記』に書かれており、 普通の努力や苦労では、成功し難いものであったようです。
 
 当時の家屋は、樹を組み合わせた掘立小屋で、厳しい寒さの冬を過ごすには、粗末で、また食料の確保は重大な問題でした。
 
 
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 今年八十六歳になられた山木ミツノさん(常磐町在住)のお話によりますと、 入植者の食べ物は「普通は、あわ、ひえ、じやがいも、そばなどを雑食し、お祭りか 祝いの日でなければ米を食べることができなかった」と語っています。
 
 しかし、幸いにも幌別地方には豊富な山菜や魚類があったので、山菜は、乾燥、塩づけ、 あるいは穴を掘って埋めるなどして保存、魚類は、鰊、鮭、海草などを塩づけや乾燥して、越冬 などのために副食物、保存食として貯えることができた。
 
 明治中期に耕作された農作物はあわ、そば、とうもろこし、じゃがいも、小豆、大豆、 大根などで作付面積では、大豆の生産が最も多く、明治三十五年頃には、二千二百四十反歩が 作付され、小豆やとうもろこしなど穀類が中心でした。米作は明治十七年から青森と東京産 の種もみを取りよせ、陸稲で試作したが、失敗の連続でありました。
 
 また、当時の開拓では洪水や日照りなどの自然災害のほかに、病害虫の影響もひどく、 「いなご」の被害は特筆に値するものです。
 
 明治十三年に、十勝の中川、河西の二郡を中心に、突然発生したいなごの大群は、西に 飛んで苫小牧、白老、幌別方面にも飛来し、大被害を与えました。
 
 
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 この時の様子が、『丈草の記』(宮武藤之助著)に書かれています。「天を被うほどのバッタが来襲すると、 今までまばゆい程に輝いていた太陽も日食の時のように薄暗く、その羽音は数十羽の大鷲が、飛来せる如く 騒しく、一昼夜のうちに畑作を食いつくしてしまうすさまじさに、人々は大声をあげて叫び、紅白の旗などを振り、 空砲を撃つものの、板きれで叩き、防御につとめる。・・・」
 
 人海戦術で獲ったいなごを、埋めて高く土盛りしたバッタ塚は、幌別(市営陸上競技場入口近く)にも、昭和初期 まであったといわれます。
 
 なお、幌別の特産物として、有名であったものには、「幌別大根」と「北海熊」といわれて販売された葉タバコの栽培があります。
 
 幌別での大根作付は、明治十三年頃からはじめられ、明治二十八年に、赤根茂助が本格的な生産をしてから、 越冬の漬物として需要も増大し、明治末から、大正、昭和の前半にかけて、近隣都市の輪西や室蘭市内へ、荷馬車で積み出されました。
 
 苫小牧、札幌方面へは、幌別駅から貨車で運ばれ、幌別大根の名が高まったのです。タバコの栽培は、 明治十二年にはじめて字ハマ(幌別町)で試作され順調に、生育していたようです。
 
 しかし、当時の幌別では養蚕の育成が主体で、葉タバコの栽培には着眼されなかったようです。
 
 
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 ところが、明治ニ十五年に、四国阿波国で商業と農業をやり、タバコ栽培に経験のある、 井上藤吉が、字ハマに居住したことにより本格的なタバコ栽培が行われました。彼の栽培は順調で、 明治二十七年には、葉タバコの成育もよく香味色つやも良かったので、乾燥させた葉タバコは札幌に 送り、「北海熊」という商標で、きざみタバコが作られ、旭川や道東方面で売り出されています。
 
 幌別での葉タバコの生産が、順調であったことは、その後、専売局で、幌別村を葉タバコの正式な 耕作の地として指定し、タバコ栽培を認め、さらに専売局の指導により、外国タバコの栽培も行われた ことが、明治三十五年の「北海道殖民公報第八号」に掲載されています。
 
 幌別タバコは、品質が良く、引火が早くて原種特有の風味があって、外国種も栽培に適したため、認められていたものです。
 
 その後、煙草の生産が、途絶えたのは、やはり、本州産は長い伝統があり、品質も良く資本力が強いことから、 移入品に押され、競争に勝ち得なかったと思われます。
 
 
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漁業と史跡の豊かな町「冨浦」

 ランポッケ(坂下の所)の名称は、江戸時代からあって、昭和の初期頃までに生まれた人には懐かしい地名です。
 
 「冨浦」に変更したのは、昭和九年ですが、「陸地に湾入した豊かな所」とその字の通り昔から水産の豊かな所です。
 
 遠く江戸時代には、昆布・ほたて・いりこ(なまこの煮干したもの)・ふのりなどの生産はこの地の特産で、他の鮭・ニシン・ 干鱈などとともに幌別場所の俵物として、松前へ積みだしていました。
 
 また、冨浦の丘は昔から「リフリカ」(高い・丘・上)とよばれ広々とした草原の美しい所です。
 
 今から百二十年前、北海道の名付親の松浦武四郎が蝦夷を調査したとき、このランポッケ岬から四方の景色をながめ「下を 臨めば白波岸をうち、西をながめれば会所元(幌別)からエトモ岬(室蘭)内浦岳(駒か岳)・ 恵山が見え、薩(さつ)埵峠で富峰(富士山)を見るようだ、ただおしく思うのは樹木が松でなかったなら」と、 著書東蝦夷日誌に書いています。
 
 「薩埵峠」からは有名な三保松原や清見潟が見え、富士山のながめは素晴らしいものですが、 ランボッケ岬からの景色が素晴らしいことをほめたたえています。
 
 
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 ランボッケの開拓は、明治四年片倉家旧臣の佐野源蔵・遠藤震三郎・松本周治ら四戸が移住しましたがなれない 手で早速漁業に従事しています。  
 当時、ランボッケの殿様といわれた遠藤家の家屋は、旧国道の冨浦海岸側にあり、遠藤震三郎 から宮武新吉、そして村上三次郎氏宅として今日冨浦では最も古い家屋として残っています。
 
 家の裏窓からは、一望に冨浦岬から海が見わたされ、今でも海に生きようとしている家で、 欄間の梁(はり)は太い角材を使い、昔は芝居や浪曲など地方まわりの一座の演芸も行なったといいます。
 
 当時の様子を冨浦に生れ住む、松浦治太郎氏(明治三十五年生れ七十五歳)は次のように語っています。
 
 
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 「当時の漁は、イワシ・カレイ・ニシン・サケ・マス・タラ・イカなどが多かったが、 暖流が北上していたせいか、カツオ・カジキマグロ(シリカップ)・ブリなどが夏期間にとれた。
 
 カジキマグロは全長三・五メートルにも大きくなり、時には水平上に飛び上がる。
 口ばしは長いので切りとり、むしろにそのままくるんで登別まで馬車で運び、貨車に 積みこんで函館方面へ送ったと思う。
 
 また毛ガニは刺網で沢山とれたので、冨浦岬と登別川との間に間口十間、奥行八間くらいの かん詰工場ができ、加工してかんに詰め本州方面へ送ったようだが、四・五年も続いたろうか。
 
 カツオはやはり一本釣りで、獲物は身をおろして煮干し乾燥させる。
 とにかく幌別の海は船着き場がないので少しのしけでも海へ出られないが、その点冨浦は他より 良かったよ。」と語ってくれました。
 
 
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 また、登別駅前の鈴木島一郎氏(明治二十六年生れ、八十五歳)は「ヤマセ(東風)は岬で防ぎ、アイ(北風)は 裏山でさえぎられホンニシ(西風)がふくとナギになる。
 輪西のボー(新日鉄の当時の汽笛)が聞えるとヤマセがくるし、エリモやエサンの山々や幌別の山が すぐ近くに見えると大シケがくる」などと明治末から大正のランボッケの漁業気象について數多く話してくれました。
 
 また、冨浦の史跡として、江戸時代の文献にときどきでてくる「七曲り坂」が現在そのまま残っています。
 
 これは破壊しないで是非保存しておきたいものですが、その他冨浦の誇るべきものに「明治天皇駐在の碑」と「御膳水」があります。
 
 明治十四年北海道に行幸された天皇は、九月四日の秋晴れに登別に入いられました。登別村では沿道に多くの住民が迎え、 登別小学校前の道路を山手に登りましたが、登別側の坂が急なため御馬車が進まず、登別・冨浦村民の大勢が 後押しして坂の上を進んだといいます。
 
 
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 岡の上に設置された小憩所で三十分休まれ、遠く鷲別・幌別や太平洋をながめられた後、現在の国道 とやや同じ位置の旧国道を下りましたが、この時、坂下に湧き出ている冷たい清水をさし上げたところ、 天皇は非常に喜ばれたといわれています。
 
 後に村民は休憩所に立派な記念碑を建て、また「御膳水」として湧水口を保全しました。
 
 青年団活動の活発だった冨浦青年団の建てた記念碑が湧水口の河原から発見されています。
 
 三カ所の湧水口の付近は小公園のようにして、現在伊部産業で保存していますが「御膳水」について、 登別東町の宮城隆氏は「オロフレ山渓の清流が札内山地の地下に浸透して地中の岩砂石を通り冨浦に注いでいる。
 
 三か所の湧水は、一日に約千トンの量で、道内や国内でも最高の良水質で、東京へも五トン入れの タンクに詰め、北海道登別の冨浦湧水ミネラルウォーターとして移出し名を高めています。  
 
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 北大理学部附属海洋研究所の分析で、湧水からできた水藻には、海藻に属するものもあるといわれて いて、これが冨浦の水質の特色でしょう」と話してくれました。
 
 この当時登別地方は海であったと思われますので、深く地下に浸透し地下水になって湧出している 冨浦の「御膳水」には、海藻に類似の微生物からくる水質の特色があるのもうなずけるように思います。
 
 それにしても漁業の町ランボッケにある、登別漁業協同組合の取り扱い目標が、昨年五十一年度は 約二億七千万円であったのが、目標以上の四億八百万円になり、組合創立以来の水揚げでしたと漁業組合で話してくれました。
 
 これからが、スケソウタラの時期です。
 登別漁港に水揚げされたスケソウタラの多くが、冨浦でスキミに加工され、スダレが部落いっぱいにあって、 スキミ干しをしている風景がランボッケの町を色どるでしょう。
 
 ホッキなどの養殖も最近行なわれ有望です。やはり冨浦は登別市での江戸時代からの水産の町です。
 

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