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郷土史探訪(9)   宮武 紳一

登別地方の昔のお正月

 今でもお正月には、しめなわや鏡餅を飾ったり、神や仏にお詣りする習慣なども 残っていますが、昔と異なって信仰上の意味が次第に失われ、ただ新しい年を迎えて今年も 家内安全・無病息災である事のお祝いをするという気持ちの方が一般的に強いようです。
 
 登別地方の昔のお正月について常磐町三丁目に住む、山木ミツノさん(八十八歳)は、昔の 人達の、お正月に対する考え方を次のようにお話してくれました。
 
 「お正月というのは、年神様をお迎えする祭り事ですから家のまわり、家の中の汚れをおとして きれいにし、飾り物や供え物をしてお迎えする。年神様がお帰りになる一月七日には、“正月送り” もしたものです。
 それに一月十五日は小正月と言い、女の正月ともいって、働きに来ている女の人は自分の家に 帰ることができたし、嫁さんは里帰りの出来る日でした。登別地方の正月は、今の新正月でなく、旧正月 に行った家が多かったですよ。」という話でとにかく、お正月は年神様をお迎えする家庭的なおまつりという 考えが強かったようです。
 
 また、年神様を迎える為の準備としてほとんどの家で餅をつき、鏡餅をつくって神棚などに供えます。
 現在の家庭では機械によって餅をつくり、こしきで米を蒸し、臼に入れて杵でつく、という餅つきの 風景も次第に見られなくなりましたが、昔はどこの家でも、臼と杵があって二十九日の「クモチ」以外の 日を選んで餅をつきました。
 
 
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 そして、大晦日を迎えますがこの大晦日の神への食事を、お節句の略で御節(おせち)、年取り と称して神にお祭りした後に食べますが、現代は年神を迎えるという家庭の儀式的考えよりも、 無事過ぎた一年の反省や慰労と新年の健康・幸福や家の繁栄を祈りながら、大晦日の前に、 年取りを行う家庭も多く、中には年末・年始は温泉でという現代的なのもあります。 年越しそばは、細く長く生きるようにというものです。
 
 正月を迎えると「若水くみ」が行われます。昔は井戸水や湧き水をくむ為に桶や柄杓は できたら新しいものを使い、手の所は奉書紙を巻いて紅白の水引きで結び、井戸や泉の中に米をまいて 清めました。井戸から汲んだ水は、まず茶碗にいれて神に供えられ、家族の者は盃で一杯ずつ 呑んで残った水は雑煮などに使い、決して粗末にならぬようにしたといわれます。
 
 これらの正月のための飾りものや供え物をつくり、餅つき、若水くみなどは、一家の主人が行う事と なっていたと聞いてやはり正月が年神まつりである事が分ります。
 
 元朝詣りは、明治四年の建設で大正十一年まで幌別町一丁目にあった刈田神社や 安政期の創建と伝えられる湯沢神社・登別神社、明治三十三年の鷲別神社の他に 富岸神社、冨浦神社など、それぞれの部落にある神社に、早朝からお詣りされ米や酒などが供えられました。
 
 また正月は仕事を休んで祝うものですが、一年の縮図が正月にあるとか、目出たい日は仕事が順調にすすむ という考え方から、浜の漁師の人達は「船おこし」とか「乗りぞめ」といって 漁のまねごとをしたり、農家では藁ぞうりを一足作ったり、商人は店開き、蔵開きという初売りをし 一番最初に買い物に来た客には米一俵(六十キロ)・醤油の樽入りを祝儀に出したので暗いうちから、 店の前に並んでにぎわったようです。
 
 
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白石城主片倉家の屋敷跡 片倉町

 昔の登別には、その土地の自然の特徴や開拓者の名前をつけた小川や橋、道路や地名も 多くありましたが、現在三十七の町名の中で、開拓者の地名として片倉町が残っています。
 
 片倉町の町名由来は、市民の多くが知っていることと思いますが、片倉町二丁目の東条康雄さんの 好意により、宅地内に掲示板が立てられて、それには「片倉景光の屋敷跡」と書かれています。
 
 仙台藩六十万石の支藩、白石城主で一万八千石を拝領していた片倉家は、奥羽越戦争で明治政府に 敗れ賊軍となり領土は没収、「武士の身分を捨てて百姓になれ」と言われ、 家臣約千四百戸、七千五百余の家族も食べていけない状態の中で、相談の結果、新天地北海道に 領土を求め幌別郡に移住した訳です。
 
 片倉主従第一回移住は、明治三年六月ですから、今から約百十年にもなり、最初に入植した場所は、 ハマ(幌別町)、ライバ川周辺(中央町、富士町)、ワシベツ(美園町三・五丁目)、ランボッケ (富浦町)などでした。
 
 片倉家の屋敷は、現在の幌別町警察前付近にありましたが、十三代片倉景光がタケ夫人らと共に 明治二十一年(一八八八年)に移り住んだのが、当時「オビラカシ・川尻の崖の上」といわれた現在の片倉町一丁目です。
 
 
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 富士町の大通りを登別高校の方へ行く東条さん宅の道路ぎわに、掲示板が道路から 見られるように立てられていますが、片倉景光の屋敷はまだ山ぎわの方に建っていました。
 
 山ぎわに湧き出る清水を飲料その他に利用し、屋敷の周囲には、梨、リンゴ、梅、すももなどの 果樹もたくさん植えられていたそうです。
 
 明治十八年には、士族復籍の嘆願も許可され、明治三十一年には「男爵」(華族の称号)を 授けられた片倉景光は、一応幌別郡の開拓の功も実って明治四十年十二月家族ともども 宮城県白石に転居することになりますが、十三代片倉景光とその家族らの住んだ地域として 片倉町の町名が残されました。
 
 片倉町は、一丁目が崖と台地状の土地、二丁目はダムの方が山麓で、登別高校から南の方は 湧水の比較的湿地の多い所で、三・五・六丁目が最もよく開墾され、四丁目は河川地帯の土地でした。
 
 
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 片倉町には、片倉景光が移住する前に開拓していた人達がいます。
 
 片倉町三丁目付近は、現在も三丁目に住む西東さん一族の先代である片倉家臣の 「西東勇吾」を中心とした人達です。また、片倉町六丁目の一部と五丁目、登別高校の 敷地から西南にかけての広い地域は、やはり片倉家家臣今崎久太郎らの開墾した地域で、 彼の屋敷が登別高校の中庭付近にありました。さらに、五丁目に住む石本市郎氏の先代は、やはり この地を開拓した一族です。
 
 片倉町三・四丁目の幌別川に近い所は、河川の切りかえによって埋めたて、造成された 土地で、以前は幌別川が大きく蛇行して流れていました。
 
 このような原始河川は、遂に昭和三十六年十月の大氾濫となり、死者十一名や鉄橋の 流失などの生々しい被害をもたらし、射号津さんご一家五名の尊い命が奪われた事は、 三丁目道路交差点わきにある「親子地蔵尊」でも知られています。
 
 
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古い伝統と歴史の町登別本町

 登別川の両岸にあって、国道三十六号線の西北に広がる登別本町は、町名の示すように、 もとは登別の中心であった旧市街で、古い歴史をもった所です、
 
 旧国道といわれる札幌本道は、明治五年に札幌から室蘭にかけて作られましたが、登別では 登別本町一・二丁目の間を通り、登別橋を渡って登別小学校前を西に山道へ 抜けていましたので、旧国道の通る一・二丁目には、旅館や商店が建ち並んだ 町の中心で、本町と言われる由来もここにある訳です。
 
 登別本町二丁目三番地の沼田・太田氏宅前にある「滝本金蔵駅逓の跡」と書いた標柱は、 今日も残っていますが、登別温泉の開拓者と言われる「滝本金蔵」は、登別の古い開拓者でもありました。
 
 また、この駅逓跡の西側、旧札幌道路を入口に、松田由太郎宅を山側に曲がって、道コン 社宅に向かって北上する道路がありますが、これが登別温泉へ行った旧道で、円太郎馬車 と言われた、二頭だての馬車が、明治三十五年現在の登別駅から新道が開設されるまで、 この旧道を通り、山あいのチヤラシナイ(サラサラと音をたてて流れ下る谷川)の沢道を 抜けて、カモイワッカ(神・水)、現在の中登別町を通り登別温泉に通じていました。
 
 
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 そして、旧温泉道路、チヤラシナイの入口に当たる、二丁目四五番地、畠山義明さん宅 の裏側に八幡神社(登別神社)がありました。
 
 現在でも道路左側のやや高めの所に、赤い鳥居が立ち、中には八幡宮と刻みこんだ大きな 板石や燈ろなどもあり、少し登った山頂には神社であった社屋も残っていますし、古い赤松 の樹やトド松、カラ松、そして桜の樹など多く残っています。
 
 現在は、登別東町四丁目登別温泉へ行く坂道の途中に移っていますが、当時は本町を中心とした 村人達によって祭りが盛大に行われ、夜店も出てにぎやかであった事など、明治三十二年生れ 片倉家家臣の日野家出身、助川徳子さん(八十一歳、登別本町二~十九)が話して下さいました。
 
 また、旧神社の西側は、ポプケナイ(沸騰する小川)といい、きれいな水がたくさん わき出ていましたしが、登別の中心が次第に現在の駅前を中心とした登別東町方面へ移行 したものの、登別東町は山のふもとから出る沢水の湿地帯で赤水と言われる鉄分の多い水で、 当然飲料に適さず、このポプケナイの水を登別東町方面の新市街へ流水しようと考えました。
 
 最初は掘り割りの灌漑(かんがい)用水にしようと考えましたが、湿地帯で赤水の多い 所なので清水だけを流すことはできません。
 
 
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 結局、内地竹の節をくり抜いたものをつなぎ合わせて伸ばしましたが、竹が割れてくるし、 コンブで巻いて修理したものの、草が生えその後は、カラ松の中をきり抜いて配管する業者を 函館から呼んで管を作り、途中水槽を設けたりして、とにかく難儀をして送水していたのが、 登別本町二丁目、ポプケナイの水です。
 
 また、登別本町二丁目で忘れることのできない人がいます。
 
 登別が生んだ、我が国の偉大な言語学者知里真志保とアイヌ神謡集を残し、わずか十九歳で 東京の金田一博士のもとで亡くなった知里幸恵らで、母なる川・ヌプリペツのほとりに生を受け育ちました。
 
 特に真志保は、大正四年の登別尋常高等小学校に入学し、高等科を卒業しています。その後、 東京帝大に入学し、ただひたすらアイヌ語の大成を果たした彼の役割は、不朽の名声を残して日本全国に輝いています。
 
 
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古い交通の要路「美園町」

 新住宅地域の夢を、美しい園に託して名付けられた町。ここは急激な人口の増加によって つくられた町、という印象が強いのですが、それでも古い開拓の跡や、歴史的にも大切な意味が ある地域としても知られています。
 
 江戸時代から陸上交通の要路となった地域で、ここを通る道路は江戸幕府の命を受けて、 仙台藩が白老町につくった仙台陣屋からホロベツの会所(幌別町二丁目)を通り、現在の室蘭市 陣屋町に南部藩がつくった南部陣屋に通じ、軍事的にも大切な道路でした。
 
 それぞれの陣屋には、数百名の武士と大砲や鉄砲隊も置かれ、警備に当たりました。
 
 写真の図のように、右の方から現在の鷲別小付近を通り、西に向かっている実線が、だいたい 江戸時代の道路跡で、モロラン(現在の崎守町)に通じています。
 
 幌別の会所ではこのため、馬十二頭、ぞうり三百足、たいまつ数百本、その他備え米も常に用意していたようです。
 
 
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 また、江戸時代の和人の開拓は当時の箱館奉行村垣範正らに随行した、玉虫左太夫の 「入北記」や松浦武四郎の蝦夷日誌にも、岩井帯刀の開墾場について記載されています。
 
 岩井帯刀は、美薗町から高砂町にかけて、アイヌの人たちを雇い養蚕業に力を入れていたようです。
 
 かいこの食べる桑の葉は、最初この地方に生い茂っていた桑のほか、栽培もしましたが、当時 値段の高い絹をとる養蚕に着目したのはよいにしても、霧の発生の多いこの地方には養蚕は 不適なので長く続かなかったようです。
 
 その他にもありますが、本格的に美薗町の開拓が始まったのは明治三年以降、白石城片倉家の 家臣たちによるものでした。
 
 その当時の状況については、郷土史探訪75ページで、すでに紹介しました。
 
 
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 さらに、美薗町に昔からあった古い地名を訪ねてみるといろいろな面白い字地名がもあります。
 
 昭和九年以後、鷲別の国鉄線路の西北地方は、美薗町を含めて「上鷲別町」とよんで いましたが、その以前は約十六の地名がありました。
 
 美薗町一丁目二六・二七番地付近や六丁目の一部では「字川添」という地名。五丁目の現在の墓地のある 付近では「字中山」「字奥山」。自動車学校のある四丁目付近は、トウボシナイ・トーボシナイ とよばれた地域で、「竹・群生している・沢」という意味から考えると昔はやや小高く なったこの辺には竹が群生していたのでしょう。
 
 また。六丁目の山が鷲別川にせまった狭い地域に「字追込」という地名がありました。山際と川のある この地に開拓した畑を荒らしまわる野生の馬を追い込み捕獲したので、この地名がついたと思われます。
 
 このほか、二丁目三一番地の辺りにはトロカワップ・ドロカワフツという字地名があり、「沼・その中・川口」 などという意味にも訳せますが、湿地帯の「泥川」からきたのだろうと考え、資料の再調査をしたところ 国鉄線路鉄橋の近くに「ドロカワ」という地名があって、資料上からも再確認したという、エピソードもありました。
 
 
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古い遺跡と開拓苦闘の地「桜木町」

 昔の伝説に伝えられる「カニサシペツ」といわれた清らかな幌別川の下流、国鉄室蘭線の 鉄橋から上流にのぼると、来福橋、そして小平岸橋があり、さらに上流には、ヌプリトラシナイ、 川に沿ってのぼる沢が、カムイヌプリの山麓から流れでています。
 
 この幌別川の西方一帯に広がる地域が桜木町で、町名の由来は、特に六丁目付近の通称 「松井さんの山」といっていた山麓に桜の木が多く、春五月も十日頃になると花が一杯に咲き誇り、 遠くからでもその美しさが見られるほど、桜の木が古くから植えられていたので、この町名がつけられました。
 
 桜木町に人が住み開拓入植をはじめたのは明治期ですが、それ以前の古い時代に、多くの人達 が狩猟生活をしていた様子が、遺跡を通して考古学的にも少しずつわかっています。
 
 桜木町二丁目、原市太郎さん宅の畑地には、亀ヶ岡式・大洞A式といわれる約二千年前の 縄文式土器や、恵山式土器という種類のものの他に、普通矢じりと言われる「石鏃」(せきぞく) や石斧が出土され、特に珍しいのは土で人の形を作って焼いた「土偶」が、 二丁目四番地のアパートを建築する時に土中から発見されています。
 
 桜木町の本格的な開拓は、明治十五年代の四国讃岐の人たちや、明治二十年以降の淡路の 人たちによって行われ、松井、藤江、津村、原、鈴木さんら先代の人たちが、主として二丁目や 五、六丁目で比較的土地のやや高い所、谷地水のたまりやすい四、六丁目ではかんがいをして 水を流し、土地を切り開きました。
 
 
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 明治五年には、室蘭から札幌に通じる札幌本道が、大規模な主要道路として初めて作られ、 現在の国道大和町一丁目から若山町一丁目に入り、自衛隊駐とん地前を過ぎ、 桜木町一・二丁目を分離して登別大谷高校を通っていました。
 
 現在新川町と結ぶ来福橋が、国道を結ぶ橋としては最も古く、大規模な 橋であり、主要道路でした。
 
 しかし、当時の橋は木造で幅も狭く、橋げたも弱かったので、その後の洪水で間もなく 流されてしまい、その後舟により人や荷物を川渡しをするようになり、大正期まで この船渡しが行われ「桜場さん、若松さん」という方々が渡し守りをしていたそうです。
 
 桜木町に町名が変わったのは昭和四十九年四月一日からですが昭和九年以前には、 約十三の字地名があり、現在の桜木町にも約五カ所の地名がついていました。
 
 例えば桜木町一・二丁目は、字トンケシ、三丁目は、ランコハッタル「桂の淵」ランコタイ 「桂の林」という地名、四丁目はタツカルシナイ「樺皮をとりつけている沢」という 字地名から考えると恐らく、樺や桂の木がたくさん繁っていたのでしょう。
 
 桜木町二丁目に住む原市太郎さんは、明治三十五年生まれですが子供の頃、現在の桜木町 五・六丁目の開拓地の中に、太い大きな木の根がところどころに残っていてそれの 大部分が桂とヤチダモの木であった事や、桜木町五・六丁目や奥地の地名が「ノコシマナイ」と いう行政地名であったことを指摘すると「金を残す暇のない土地だ」などと、部落を人々が 語ったほど、開拓には大変な土地であったことを話してくれました。
 

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