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郷土史点描(14)   宮武 紳一

幸町・新栄町を訪ねて

 幌別町の東側オカシベツ川(オカシ・ウン・ペツ、川尻・魚捕小屋・ある・川)からJR室蘭本線の南東側、 国道を中心に広がる地域が「幸町」。また、北海道曹達工場東側道路を境に、JR室蘭本線から北西側の 工業団地や山麓地と雑木林、牧草畑の平野地が「新栄町」で、ともに新栄町の今野の沢から幸町6丁目いずみ亭 東側の農業用水路で富浦町に接している。
 
 両町とも22年前の昭和49年の町名改正で誕生した新しい町です。
 
 昭和の初期頃は、海岸から砂原に上がると、ムリツチ(コウボウムギ)という山荒らしの背の針のような若芽が生え、 ハマボーフ・シロヨモギ・ハマエンドウ・当地方でハマナシと呼ばれたハマナス原があり、国道沿いは潮風に強いカシワ の木で被われ、疎林(そりん)の下草にスズランの群落が広がり、室蘭方面からもスズラン狩りで大勢の人で 賑(にぎ)わったことを思いだします。
 
 現在、幸町1丁目に昭和37年操業開始の三洋工業、2丁目に同40年完成の市清掃工場、東興ブロック工場、日の出 野球場があり、4・6丁目は砂の採取とともに土地整備が行われ、資材・車輛置場に変容し、昔の砂丘状の浜の状景や カシワ林も消滅、往時の面影も急速に失っていきました。3丁目レストランたろう付近のカシワの疎林と、5丁目の 住宅地帯をすずらん団地名称として僅(わず)かに名残をとどめております。

 海岸、国道、JR室蘭線と丘陵に阻(はば)まれ、冨浦町まで続く長大な地域ですが、 町名の由来も、今後の新しい町づくりと未来への発展に、幸の多いことを期待し、新しく 生まれ栄える町としての願いから「幸町・新栄町」と命名されましたが、町名変更以前は、 西方が字千歳町に、東側は冨浦町に属しておりました。また60年以上も前は、オカシベツ・ サトオカシベツ・サツナイ・ランボッケ・モセウシナイなどと、幌別側から子字地名で呼称されていました。
 
 
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 昔の地名をみて、新栄町・幸町の足跡を訪ねてみると、北海道曹達工場を流れるオカシベツ 川は「互いに槍を投げ、突き合った川」の伝説のある所で「川獺(かわうそ)に騙(だま)された」 という語り草の多い所。
 
 また、新栄町11番地の南輝雄氏宅の方から流れるサトオカシベツ川は、乾いている オカシベツ川の意味で新栄工業団地と国道沿い東興ブロック工場の東側を流れているが、 北海道炭鉱鉄道(JR室蘭線)設置以前は、幸町4丁目の方向に流れ、浜側にあったコペチャウシ (鴨が群在する所)の沼に通じていたと言われます。サトオカシベツのサトは、前記のように 「乾いている」という意味ですから海岸側に段丘によって、コペチャウシは海へ流出しない沼であったように思われます。
 
 幸町5丁目西側からみた新栄町の丘陵地、崖・谷の意味をもつシパシペツという沢から 流れる川水が溜まって、JR線の北側に沼を造り、カモ・カワセミ・サギなどが群来していたことを、 新栄町19番地に住む明治40年(1907)生まれ89歳の足利ハルエさんが話してくれました。
 
 また、新栄町・幸町と富浦町の境界の山麓に広い沢があり、現在でも鉄道から沢の丘の上に 壊れかかった畜舎が見えますが、この地帯で知里・山田先生のアイヌ語地名にある「モユクンナイ」、 別称「今野の沢」と足利さんが教えてくれました。
 
 モユクンナイとは「エゾタヌキ・入る・沢」の意味で、貉(むじな)はタヌキの別称。登別地方では「 むいな」とよんでいたようです。モユクンナイ地名が残っているのも珍しいし、エゾタヌキも多く生息して いたようです。安政4年、幌別場所請負人が、貉の皮200文の値で買い上げている資料もみられます。
 
 
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幸町・新栄町を訪ねて

 幸町と新栄町は、海岸や丘陵も近いがJRや国道が無ければ長大な地域で、 札幌本道(現在の国道36号線)が海岸側に造成された後に、愛媛県出身者が 岡志別川から冨浦方面へ道路沿いに間口をもって入植しております。
 
 移住の状況を岡志別川方向からみると山木ツイ・大西貞造・田中忠太郎・山下茂市・ 脇官治・浜田菊治などの名が資料にみえます。
 
 明治25年(1892)幸町と新栄町の境に北海道炭鉱鉄道(JR室蘭線)が設置されたとき、 幸町・新栄町の未開地や山麓に多く繁ってしたカシワ・ナラなどの原始の大木が、鉄道の枕木材として 多く伐り出されました。
 
 幸町3丁目付近で現在もカシワの疎林を見られるが、明治初期の資料では、登別地方の海岸付近の ほとんどに海の潮風に耐えてカシワの樹が多く繁り成長した情景が書き残されています。
 
 開拓時代、前記のように幸・新栄町もオニ皮と言われほど荒い肌のカシワの木が鬱蒼(うっそう) と茂り、開拓者は、強い枝を縦横に伸ばした豪壮なカシワとの闘いを繰り返していた。当時の 開拓者にとって、開拓とは自然に対する勇敢な挑戦で、畑を造成することが目的、千古の森も邪魔であった。 大木を伐り倒し焼却し一刻も早く畑にしないと自分たちの死活に関わる状況下にあり自然の森や木の 活用を考えたり、森の中で生きているものたちへの思いは全く無かった。
 
 当地方にあったミズナラにしても、カシワと同様に「堅くて重い」のが特徴。切るにも割るにも運ぶのにも 骨がおれる。木には多量の水分を含み、乾燥しないと燃えないので伐り払ったナラの大木がゴロゴロ 転がって邪魔であった。
 
 
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 畳の上で生活する日本人は桐の箪笥(たんす)・長持ち、スギ・ヒノキの家財や食卓も一日に幾度か動かす 軽いものが要求されるお国柄であったが、ヨーロッパでは家具材として高値の木材で、 ウイスキー・ブドウ酒などの酒樽の良材、外国から盛んに輸入し、北海道からも輸出されたのは明治末である。
 
 前述のように、北海道炭鉱鉄道会社の枕木材として登別地方で大量に伐採し搬出されたて一寸した林業ブームで賑わったが、 またカシワの樹皮からとれるタンニンは、特に軍隊用の皮革の鞣(なめ)しや漁網の染色に需要が多く、皮をはがされ 忽ち枯れてしまった。開拓と鉄道用枕木材、鞣用で伐られた幸町・新栄町の原始のカシワの大木も姿は消え 潮風の害、札幌本道や炭鉱鉄道の設置で入植も分断され狭くなったので札内や蘭法華(富浦)に¥へ移住する者が増加し。 幸町・新栄町は一部を除いて、長い間放置された状態にあった。
 
 また、幸町や鉄北の新栄町の一部で砂が採取されている。これは今から6千~4千年前は氷河期も終わり、最も 温かくなった海進の時期で、登別地方も海水面が約4~5メートル高く現在の平野地は殆ど海であったと考えてよい。 その後、海岸が退いて現状になるが鉄北の新栄町の低地部分も海であったことを示しております。
 
 なお、前号で紹介したモユクンナイ(エゾタヌキ・入る・沢)の西側に、岸壁が高く広い崖がポールンナイ(洞穴・そこに ある・沢)で「馬鹿になる岩」という伝説の場所です。むかし、この洞穴の前に大きな岩があり、「この岩に触ると 馬鹿になる」と恐れられていたが、和人の女が「こんな岩がなんだ」と言って馬鹿にし叩いたところ、キツネ憑(つ)き になり狂ってしまったというお話です。この伝説を89歳の足利ハルエさんも不思議がっていましたが、 綺麗な湧き水とカムイミンタルのような広場に曰(いわ)くがありそうです。
 
 
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「札幌本道」登別を通る その1

 登別市役所前・陸上自衛隊幌別駐屯地前の中央通りを、若山町1丁目の方向に進むと JRの踏切があり、掲示板に「札幌道路踏切」と書いてある。
 
 普段、気にならぬ踏切だが「札幌道路」とは、今から123年前、函館と札幌を結ぶ 北海道開拓の大事業として築造工事がなされたもので、特に室蘭と札幌を結ぶ道路は、 日本で最初に造成された長距離車馬道のアクアダム式舗装(砂利敷)道路。勿論、 ワーフィルド、アンチセルら外国人技術者の指導であるが、日本の交通史上からみて 画期的なもの、北海道開拓の主要幹線道路であった。
 
 「札幌道路の踏切」は、今から103年前、北海道炭鉱鉄道(室蘭線)が開設した時に 設置したもので、札幌道路(さっぽろどうろ)とか、札幌道路踏切などの古い時代の名称が 現在も残って掲示されているのも道内で珍しく、恐らくここだけのものと思われてます。 ただ以前は「札幌本道踏切」になっていました。
 
 さて、歴史は遡(さかの)りますが、明治2年(1869)蝦夷地を改め、胆振・日高・ 石狩・千島国などの11国、幌別・有珠・白老・室蘭郡などのように86郡に分け、広い北海道を 統括するために札幌を本府とし開拓使を設置した。
 
 
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 ところが、当時の日本の北方情勢は、江戸時代中期以降からロシアの進出が急で、日本人の抑留や殺傷事件などの 紛争が千島・樺太でおこり、明治維新後も世界の大国ロシアの脅威に恐れていた。
 
 早く北海道を開拓し、北門の鎖(さ)やく(とりで)として防備をしなければならない、と政府は焦った。
 
 それにしても、北海道と改称した明治2年の道内人口は約5万8千人。登別市の11月末人口は5万7千439人。 九州と四国を合わせた以上にまだまだ広い北海道に登別市ほどの人口では何処に住んでいるのかわからない。
 
 北海道の首都となった札幌の定住人口も、明治3年はたったの9戸13人。因(ちな)みに幌別郡は113戸417人 である。
 
 開拓といっても、これでは仕様がないので政府は、24の旧大名や新政府に反抗した士族らに分領支配という名目で 38領地に分割し移転開拓を勧めたが、政府の中心的存在の鹿児島・名古屋・熊本・金沢らの旧大藩は「遠隔で寒冷の 地ゆえ、分領支配を返上します」と続々申し出る始末。結局、明治4年の分領廃止まで開拓を継続したのは、仙台・秋田・ 米沢ら10の藩や登別の片倉・有珠の伊達・静内の稲田ら6士族。いずれも新政府に反抗し減封や領地没収を受け政府に 忠誠を誓わねばならぬ立場のものが多い。
 
 
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 次に、当時渡道するにしても交通の問題がある。
 
 片倉家が幌別郡の分領支配を命じられたので、筆頭家老の本澤直養ら9名が 受領のため、白石を出発して45日という長い日数をかけて幌別に到着している。
 
 陸路は歩き、海上は一本柱の帆船。特に太平洋岸は潮流も不安定で危険。冬期の 北海道行き海上航路は中断されてしまう。
 
 問題は多かったが、大国ロシアの脅威は、早急な北方の首都札幌の建設を強力に進めることになる。
 
 北海道への道は、東京品川港から大型蒸気船を運航させ、港は函館・小樽・室蘭を 考えていたが、日本海側の小樽港はロシア問題で無理、新室蘭港を開き、 東京と室蘭間を3日、室蘭と札幌間を2日と計算し、東京と札幌は5日間で結ばれるという 構想が高まった。
 
 ホシケサンペ(沖漁の目印の山・測量山)を基点に、新室蘭港に一番杭が、鷲別に430番杭が 打ち込まれ、登別地方にも愈々(いよいよ)札幌本道の開設が始められた。
 
 
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「札幌本道」登別を通る その2

 北方ロシアの脅威から「一時も早く北海道の開拓を進めよう」といっても、当時の日本は 長い鎖国(さこく)から目覚めたばかりで欧米諸国に比べ全くの後進国であった。
 
 「欧米に学べ」ということで海外留学生を派遣したが急場の役には立たない。手っ取り早い 方法として先進国から技術者などを雇い入れ近代化を進めるということになった。最盛期の 明治7・8年には500人以上の外国人が日本政府から給料を貰(もら)っていたというが 中でもイギリス人が多かった。
 
 北海道開拓使の招待したお雇い外国人はアメリカ45人、清国13人など明治17年(1884年) まで75人でアメリカ人が断然多い。気候条件も適当で、アメリカの大陸的な開拓技術を北海道に 取り入れようとの考えもあったようだ。
 
 斯(か)くして外国人による北海道開拓の先駆けは、明治4年(1871)アメリカ農務長官の 要職にあったホーレス・ケプロンが2人の技術者を同伴し、早速調査に乗り出し「首都札幌と室蘭間に 道を開くことは最大の要件で、速(すみ)やかに準備をなし、馬車道路および鉄道敷設のため測量を して早急に築造すること」と開拓使に進言する。東京横浜間鉄道開通1年前のこと。鉄道敷設に 開拓使も仰天したが欧米諸国では人間・物資・鉱山・森林鉄道の普及が著(いちじる)しい時である。
 
 
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 ケプロンの進言により、鉄道は別にして、我国最初の砂利敷車馬道の建設が計画実施される。
 
 それにしても、当時の室蘭は現在の崎守町(元室蘭)でここは港として適していないので、 室蘭湾の奥トカリモイ(チカ・入江)。現海岸町・緑町に変更したが、今の輪西以西の室蘭 半島部は未開の地でヒグマ・オオカミが横行していた。
 
 開拓使次官の黒田清隆が鷲別村イタンキから新港予定地を陸路で行こうとし、案内人のアイヌの 人から制止されたが強行し、湿地帯は馬の腹まで埋まり、御崎・母恋で海に面した崖をよじ登り、 千古不伐の森林に背丈をこす下草やブドウ・コクワの蔓(つる)に足をとられ這いつくばって トッカリモイに午後5時に着いている。鷲別村イタンキから、現在の室蘭駅を約1千メートル過ぎた 地点に行くのに1日がかり。現在では想像もつかない。
 
 先住のアイヌ人家屋2軒に、安政年間(1854年)以降土着した漁師播磨力松(はりまりまつ)の他に 定住者の居ないトッカリモイに、東京・伊豆・木曽・鹿児島・南部などから雇われた大工・鍛冶(かじ)・ 石工・桶工・建具工・とび人足・運搬夫・土方などの職工、土工夫ら約5千余人が上陸し、分散して 港の埠頭つくり、官吏詰所・職人長屋などの家屋や道路の造成を進めていく。
 
 
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 工事は、新室蘭港から米人技師ワーフィールドの測量に従って、うっ蒼たる樹林を伐採し、橋梁(きょうりょう)を造り、 道は鋤(すき)・鍬(くわ)で整地し、土砂は縄を網目に編んだ畚(もっこ)で運び、岩は鏨(たがね)で掘り火薬で爆破する。
 
 指揮役一人に世話人2人、人夫50人をもって1隊(組)とし、各隊は旗幟(はたのぼり)をたて、人夫は背に開拓使の「開」 の字章をつけた絆てんを着て作業にあたらせた。
 
 労働は苛酷で、指揮役の組頭は刀を抜いて威嚇(いかく)し働かせる。
 
 食料は人夫1人1日に麦飯を1.5キログラム、味噌112グラム、沢庵2人で1本、梅干し3個かラッキョウ3個である。 米1.5キログラムは多いようだが仕事が烈しく1日5食は摂(と)るだろう。
 
 室蘭NHKと室蘭警察署間の高台は、「仏坂」とよばれ、23人の犠牲者の慰霊碑も注意してみると分かる。労働は苛酷といっても どのような状況で大量の死者をだしたのであろうか。
 
 さて、登別地方の難所は「幌別川の架橋」と崖に面した「蘭法華坂」の開削であった。
 
 
 
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「札幌本道」登別を通る その3

 「新道出来形絵図」をみると、約120年前の現在の国道を中心とした登別の村落の状況が分かります。
 
 新室蘭トキカラモイの一番杭から札幌まで4千440本。鷲別川の西側が405番、鷲別川東側の黒沢商店 辺りが431番杭である。杭は距離というよりも地形をみて打ち込まれたらしい。
 
 栄町3丁目の帝国酸素辺りに3軒の家屋が見えるが、ここは明治34年に初めてできた鷲別停車場の所で、 後に現在地に移された。
 
 また、若山町3丁目東側の高台付近に「ワシベツライバ」の地名があり5戸ほどの家屋がある。明治29年 陸地測量部図にある「トンケシコタン」の場所で「トンケシの兎と津波」の伝説も近くに あることは53ページで紹介した。
 
 人海戦術で進めた札幌本道の工事最大の難所に、水量溢(あふ)れる幌別川と 急峻(きゅうしゅん)な蘭法華坂があった。
 
 
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 幌別川の西南、現在の緑町・桜木町・大和町の各1丁目、国道と鉄道沿線の 広大な地域は、登別南高校・吉鷹牧場方面の山麓(ろく)から流れるトンケシ川・ フレベツ(赤い川)の谷地(やち)川が大湿地帯をつくり特に、現地埋め立てられ工業 団地に造成された大和町1丁目は、幌別川水流の溜まり場で上記の川も合流し大きな 湖沼の情景があった。
 
 鷲別から海岸に沿って造成された札幌本道も、大和町1丁目から若山町1・緑町3丁目 自衛隊前の中央通り方向に切り変えられるがこの地帯は、道路に沿って海退時代の帯状 のやや低い砂丘が、津村商店付近まで発達していたので道路に選ばれたのであろう。
 
 ところが、前述の幌別川南西付近の「新道出来形絵図」をみると、幌別川が大きく蛇行し、湖沼 状の水域に、幅の狭い陸地が入り込み、辛(かろ)うじて道路が造成されている。また、 道路に外れた所に幌別橋があるのも不思議である。
 
 「開拓使公文録」によると「幌別川は砂川にて、俄(にわか)に出水するにより橋を架すれど 流出せり。また橋を架すれど出水時は、橋台の一方に水が張る由(よし)にて、船に非ざれば 渡る能(あた)わざるにより馬船二隻を備えたり」と記録しています。
 
 
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 川幅は約70メートルあるが、東西の川岸を砂利・土で高く埋めたて、 柳の枝木を当て丸太を打ち込んで崩落を防ぎ補強して58メートルの橋を 架けたが、洪水で一溜(た)まりもなく道路部分の土砂も流出、橋脚に流木 も引っ掛かり敢(あ)えなく流されたらしい。
 
 最初の橋が造られた場所は、西側は現在の鉄橋から、東は国道の方向である。
 
 橋の流出後は、やや大型の渡舟2隻を備え、再度、橋が造られたのは明治14年 (1881)、明治天皇行幸の時代であるが、これも間もなく流出。次に 上流の登別大谷高校前が主道となり橋も造成されるがやはり流出し渡舟が使われていた。
 
 次に札幌本道工事の最大の難所は、岸壁の立ちはだかる蘭法華坂である。
 
 公文録に「蘭法華の坂路は険阻(けんそ)にして百尺(約30.3メートル)に 五尺(1.5メートル)以上の勾配(こうばい)にて開削(かいさく)せり。岩石を 破裂せしむるには火薬を用い莫大(ばくだい)の費用で開削せり」とある。
 
 道路は、現在の国道を富浦町4丁目、胆振家畜保健衛生所前から山側の方向に進み、 現在の国道より高い位置に道路があって、市の火葬場南側の高台の道路に出て 登別小学校前を通った。
 
 標高約80メートル、クッタラ火山の厚い凝灰岩を鏨(たがね)で掘り、火薬を仕掛け 爆破する。残った岩は楔(くさび)をいれて小さく割り、畚(もっこ)で土砂とともに 運び鍬(くわ)・鋤(すき)で整地する。労働は苛酷であるが道外から集めた貴重な 労働者を、仏坂の大惨事のようなことで開拓使の大事業が遅れては面目丸潰(まるつぶ)れであることから 蘭法華坂の工事は表面は穏やかであった。
 
 
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「札幌本道」登別を通る その4

 初めて架設された、長さが58メートル幅4.5メートルの幌別橋を渡ると、本道の浜側に木柵を巡らせた 馬の放牧場(幌別町2丁目・(株)上田商会コンクリート工場付近)と、東側に家屋(チセ)・貯蔵庫(プ) など16戸の建物が見える。また、本道の山側に430平方メートルほどの大きな会所があり東側は門を巡らせ、 鳥居や神社も見える。鳥居と神社は、現在の刈田神社で、幌別町1・2丁目の跨線橋下の国道北側に面して建立 されていた。そのほか、本道の会所側に添って約40戸ほどの家屋と貯蔵庫らしい建物も見える。
 
 会所・番所が外国人指導者や官吏・出張医の休泊所で、仮屋2棟を新築し労働者の休泊所としたが、一般労働者は 草葺(くさぶき)住まいであったろう。
 
 札幌本道の開削計画に当たった外国人指導者ワーフィルドは酒癖(さけぐせ)が悪く幌別でも狩猟用の北海道犬 7匹を殺傷、札幌でも事件を起こし、新任の測量長ワッソンが鷲別橋から指導に当たっている。
 
 江戸期は海岸沿いにあった踏み分け路も、現在の国道の位置に、幅9メートル、道路を約40センチほど土盛りした 新道が造られた。
 
 幌別から東に進むと、オカシベツで本道の山側に6戸ほどの家屋が見える。オカシベツ川を挟んで「ウニ取りの伝説」 を実証するように集落が残っている。
 
 
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 さて、蘭法華坂は、前号で紹介した通り標高約80メートルの高さで立ちはだかっている。 江戸期からの旧道は、岬の高台・リフルカから「七曲り坂」を冨浦町1丁目、 冨浦漁業会館(現在の冨浦会館)の方へ下る路だけであった。
 
 富浦町4丁目、胆振家畜保健衛生所前の旧道を真っすぐ進み、山際に添って道路を造成 する。崖の上下とも崩落を防ぐために、幅広く開削し路肩に柵を設けて、札幌への荷積みの 馬車が走れる本格的道路を造らなければならない。
 
 20人あまりの犠牲者を出した室蘭仏坂とは比較にならぬ大工事であるが仏坂の悲惨な状況を 記録で見ると「ラッパ森(仏坂一帯)の岩石に、大小の爆薬を装置し、日夜間断(かんだん) なく岩を破壊し暗澹(あんたん)たる雲が海陸を圧する。爆声殷々(ばくせいいんいん)と鳴りわたり 天誅地軸(てんちゅうちじく)一時に崩壊する様相を呈し、岩石は飛び散り、血走り幾多の生命を死傷 せしめ、人夫は悲惨の場裏(じょうり)に呻(うめ)きのたうちまわる。回りの者は大胆な工事に驚嘆し、 身内眷属(みうちけんぞく)は無惨な死傷者に泣き、医者は東西に走り、葬具屋は店頭に踊り 僧侶は葬儀に忙殺され、惨澹(さんたん)たる現状は戦場の修羅場の如し」と当時の請負業者 橋本忠次郎が語っている。
 
 
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 要するに、事業者も火薬の取り扱いに不慣れで、岩盤の適当な所に発破)はっぱ)を仕掛け、 発破の威力も考えず、作業員を避難させずにそれぞれが勝手に火縄に点火し爆発させる。一カ所の 爆発に驚いて逃げ迷った場所が次々に爆発する、という乱暴な状況であったらしい。
 
 蘭法華坂の大工事は、札幌本道最大の難工事であったが、仏坂大惨事の反省から工事による 事故の記録は見当たらない。ただし、ケンカによる殺人や傷害事故は日常茶飯事であったようだ。 開拓使は「職工人夫怠惰戒(たいだいまし)めの規則」をつくり元室蘭(石川町)に仮囲(かりかこい=牢屋) を設けて、犯罪者の取り締まりを行っていた。
 
 さて、現在の冨浦墓地東南の道路が当時の札幌本道の頂上付近で、登別小学校前に通じている。
 
 登別川に、長さ45メートル・幅3.6メートルの木橋が架けられ、橋の東側に6戸の家屋も見えるが 現在の登別本町1・2丁目が登別村の中心で、2丁目山側の登別神社旧社地は登別神社の跡で、 同神社は昭和14年、中登別町12番地に移転した。
 
 札幌本道は、登別小学校前通りから、登別東町2・4丁目の了英寺・(株)でんきのシマムラ前通りを (有)勝間米穀店北側に抜け、登別東町1丁目の渡辺金物店北側の道路を通っていた。
 
 
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「札幌本道」登別を通る その5

 登別本町・登別東町を通る札幌本道は、登別小学校前から勝間商店・渡辺金物店北側をぬけ、登別マリンパークニクス前の 北側国道、登別市・白老町の境界を標示した方向に進んでいます。
 
 境界付近は、江戸時代からフシコベツの川の名が地名になっているところで、川の源流は 登別時代村の南側フシコベツエトコ124メートルの山麓から流れています。
 
 フシコベツとは「古い川」の意味で、登別町を取りまく周囲約50~60メートル高台の裾の至る所から 水が湧きだし、登別本町2丁目付近の山際に、チャラシナイ(サラサラ流れくだる川)・ポプケナイ(沸騰する小川) の地名も残していますが、茅(かや)や葦(よし)・ヤチダモが密生した沼や湿原の中の何処(どこ)を流れているのか 分らない澱(よど)んだ古川の様相からフシコベツと呼称されたようで道内にも多くある地名です。
 
 江戸末期の資料「東蝦夷地海岸図台帳」に、幌別・白老の境界フシコベツを海岸側から測量しましたが、「 谷地(やち)深く、馬に乗って進んでも馬の背が水に浸るほど」と難儀の様子を伝えていますが、登別東町1・3・4・5 丁目の昔は、このような情景であったようです。
 
 「新道出来方絵図」でみる幌別郡と白老郡の境界も、この伏古別(ふしこべつ)まで鷲別都(わしべつ=鷲別) 役所前405番杭から伏古別幌別郡内の杭は948番で終わっている。因みに札幌迄4千440本。
 
 また、絵図をよくみると、フシコベツを渡る橋が本道に架かっていなく、本道の北西側に狭い脇道が造られ、 丸木橋のような細い橋が見えます。当時の広い湿地に盛土工法や土木・橋梁(きょうりょう)技術で施工しても 、要は人海戦術、開拓使の財政力も乏しく、道路・橋梁の維持は困難で流出したのでしょうか。
 
 
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 本道の脇道の仮橋を渡ると、白老郡領内に「是(これ)より西胆振国幌別郡・ 是より東胆振国白老郡」と両郡の境界を示した大きな2本の角杭が並立して見えます。 白老側に境界柱があるのは、沢川が幌別郡内に曲がりこんでいたからでしょう。
 
 フシコベツの境界から、現在の国道36号線に沿うように臨海温泉高台地区に進み、 大野商店の裏側の旧道をのぼり、通称虎杖浜神社へ出て、海岸沿いの虎杖浜の 旧道を白老方面に札幌本道は進んでいました。
 
 札幌本道の道幅は、普通7.3メートルから12.7メートル(4間~7間)で道の 両側に排水溝を掘り、土盛りの厚さは平均35センチほど、宿駅(しゅくえき)など人家の ある所は8間幅にしたり、地形により柔軟性もありました。
 
 札幌まで、架けられた橋は223橋、工事に従事した労務者の延べ人数は約75万余、 工事災害死亡者71人、病気・怪我385人と記されています。
 
 開拓使は、全道からの道を札幌に通じさせる考えから、札幌の町通りに道内各地の国・郡名 をつけていました。現在の大通りは後志(しりべし)通り、大通りに面する西2丁目は胆振通り、 西6丁目は室蘭通り西7丁目が幌別通りなどというもので、南北を条、東西を丁と町名変更をした 明治14年まで続きました。
 
 また、札幌本道の路線は、北海道の基幹国道として、第二次大戦後は国道36号線に引きつがれて いますが、登別市を通る国道36号線も「我国最初の長距離アスファルト道路」として、道路舗装技術の基礎 を築いた輝かしい歴史の路線なのです。
 
 

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