◆  登別市立図書館市民活動サポーター おすすめ郷土資料

郷土史点描(4)   宮武 紳一

登別の開拓と動物たち その7「ヒグマとのかかわり」

 登別温泉街からロープウェーで結ばれたホロヌプリ(大きい山)は、四囲の眺望が雄大なので大正期に 「四方嶺」と命名されるようになった。
 
 この頂上に約百八十頭の大量のヒグマが自由に放し飼いされている壮観さは、わが国第一で 他にはみられない。
 
 また同所の「ヒグマ博物館」もわが国唯一のヒグマ専門の博物館で機関紙「ヒグマ」を発行、大学・野生 動物・動物研究者の学術的ヒグマ研究の場として広く知られ国際的な活動をされている方々も多く、 登別に住む前田さんもそのお一人である。
 
 北海道に生息する「クマ」は、ヒグマの地方種「エゾヒグマ」で南千島にかけて生息し、日本の肉食獣の 中では最強の動物。本州のニホンツキノワグマはアジアクロクマ種で、ヒグマに比べて体型は二回りも 小さい。登別にもヒグマはかなり棲(す)んでいたようで話題も多い。
 
 安政四年(一八五七)箱館奉行堀利熈(としひろ)に随行した玉虫左太夫の記録「入北記」に 幌別場所から生産される「出産物買入れ値段」をみるとサケ・コンブ・イリコ(干しナマコ)などの 他に熊皮一枚四百八十文から九百文(五千四百円から一万百二十五円)熊の肝(きも) 一匁(もんめ)(三・七五グラム)百二十文から八十文(千三百五十円から九百円)の値段で カワウソ・エゾタヌキ・エゾイタチ・キツネの毛皮などもあるが、ヒグマが 登別地方に生息し捕獲され商品として取り引きされていることがよくわかる。
 
 同じ巡視に従った佐賀藩士の島義勇(よしたけ)が、白老から登別温泉に来た時は 夜間で雨になり、猛獣に襲われる危険があるとアイロ(虎杖浜)の番屋で言われ、 一人の案内人の他にアイヌの案内人二人を雇ったが、予想どうり路傍でクマの吠(ほ)える 声を聞き、恐怖におののきながら登別温泉に到着している。ヒグマの習性を熟知した アイヌの案内人と、多人数の大きな話し声、松明(たいまつ)のあかりが功を奏したらしい。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 

 

 当時、登別をおおっていた原始林の中にはヒグマが横行し、シカが群れ、キツネ・テン・ カワウソ・エゾタヌキが出没し、リス・ムササビ・シマネズミが樹から樹へと走り歩き、 タカ・ワシが巣をつくり、鷲別・トンケシ湿原にツルが舞い、沼・川辺に 白鳥が群がっていた野生動物の宝庫であったのである。
 
 ところが人間が大量に移住し開拓に名のもとに森林を伐り開きはじめるとヒグマ・オオカミ・ ヤマイヌ・カラスなどは人間や家畜を襲い、耕作物を損傷する有害鳥獣ということで獲殺が励行された。
 
 明治八年、開拓使は鳥獣猟規則を設けて前記の動物を銃殺して防御しようとし、同九年は 毒物散布で禽(きん)獣の駆除をはかり、同十年(一八七七)ヒグマ、オオカミを猟殺し 申し出ると一頭二円の賞金を出し、翌十一年にはヒグマ一頭五円、オオカミは七円に増額した。
 
 幌別戸長役場(登別市)でも此(こ)の業務を取り扱い、例えば明治十六年一月から六月までの 半年間にヒグマ八頭を獲殺した届出があったので一頭につき三円の賞金を支出しているが、規定により 二円安いのは開拓使から札幌県に移管した行政上の問題らしい。
 
 それにしても証拠物件としてヒグマの足の爪(つめ)つきの四つの掌(ひら)、舌、尾を必ず添えて 毛筆の届書とともに提出させ吟味しているのはしっかりしたもので面白い。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 
 

登別の開拓と動物たち その8「ヒグマとのかかわり」

 今から約百二十年前、登別に開拓使直営「登別牧場」が開かれたが、当時の登別地方の山麓は クマ・オオカミの生息地で、牧場に馬を集めるのは皿に美味しいご馳走を入れ、食べなさい といって眼の前に置くのと同じで、馬は襲われその被害は大きかった。
 
 開拓使に願い出ては鉄砲・火薬・弾丸の払い下げを受けて、クマなどの襲撃に備えたが、牧場は 白老町竹浦に及ぶ広範囲なので仲々大変であったらしい。
 
 同じ頃、片倉家旧臣鈴木留吉、西東勇吾らは鷲別来馬(新生・若草・緑町・美園町二丁目) トンケシ(富岸・青葉・若山・緑町)で馬の放牧をしていたが深い原始林と谷地の続くこの土地は、 やはりクマの巣で、野獣の被害を受けて困り果てていた。
 
 ところが明治十年(一八七七)官設登別牧場が千歳に移転したので、移転の六年後であったが、 これは幸いとばかりに登別のハシナウシ(登別本町三・冨浦町高台)に限定して牧場を移し、牧夫 二人を雇い、百余頭の馬を放牧した。
 
 結果は、この年二十数頭の馬がクマ・オオカミに倒され、翌年も同様で野獣対策の目どもたたず、 二年余で閉鎖という情けない結果に終わってしまう。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 その後、郡内馬のクマなどの被害は、明治十八年(一八八五)馬十余頭、同十九年は オオカミに二頭、クマに六頭、同二十年はオオカミに六頭、クマに十五頭の被害というから、 当時の野獣対策は大変であったらしい。(幌別群戸長役場)。猶この場合のオオカミは、 当時ヤマイヌと言われた野犬のように思うが資料は「狼(オオカミ)」である。
 
 クマについては、アイヌ語のイヨマンテ(熊送り・神送り)が良く知られ、登別地方でも 盛大に行われていた。
 
 アイヌの神は、天界にいる最高の神の命令で、人間に協力するために地上や海や川に降りてくる。
 
 クマは天界から山の麓に降りた陸上で最強の山の神(キムンカムイ)がクマに化身したもので、 身体に沢山の肉や立派な毛皮などを持ってコタンにやってくる。
 
 コタンの人達は、クマ猟をして捕殺し、肉や毛皮など沢山の贈り物を神から貰ったお礼として、 クマ(神)をまつり感謝して、神(クマ)の前に御馳走を並べ、酒盛りや歌舞などで歓待し、 今度もまた来て下さい、とお願いして天上界に送りかえすのであるから、イヨマンテは祖先からの 儀礼による伝統を引きついだ敬けんな神への祈りであったのである。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 登別には金成マツ・知里幸恵・真志保ら偉大なユーカラの語り人や世界的 言語学者を輩出しているので、アイヌの歌謡・詞曲・散文物語など多く残って いる。例えば、クマに化身した神を丁寧にもてなし、神の国へ送るイヨマンテ ウポポ(熊送りの歌)。子グマの時から育てた「飼い熊」は、やがて神の国 へ送られるが檻から出されたクマは綱を引かれたまま祭り場で暴れまわる。 この姿は、神が舞っている姿ツセカリウポポ(綱を・とりまいて廻る・踊り歌) である。
 
 神様が山へお帰りになるよ
  お見送りの踊りを 踊りなさい
   それ お見送りの踊りを 踊りなさい
 
 これも、知里博士の「アイヌ文学」に記載されている一例で、登別に残っていた ウポポ(祭り歌)、山の神(クマ)を天界に送りだす最後の歌イヨマンテウポポである。 貴重な作品だと思う。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

カマンペツの滝「三段の滝」を訪ねて

 札幌生まれの随筆家、森田たまの随筆「登別の秋」の中で、「温泉場はどこでも秋が一番良いが、 殊に、登別の秋は日本一だと思っている。あの深く澄んだ空、紅葉と黄葉の入り交った鮮やかさは 登別独特のもの」と登別温泉の秋を誉めそやしている。
 
 カルルス温泉の秋も素晴らしい。
 
 登別は山川が多く湖に恵まれているので、渓谷や滝も各所にあり紅葉の季節は素晴らしい。その 一つ、幌別鉱山の奥に「カマンペツの滝」、現在の三段の滝がある。
 
 景観に勝れ、訪れる人も多いので地名の立場から考えてみたい。
 
 滝への経路は、鉱山橋から右手約二百メートル、此処から約二キロメートルの地点に、 夫々(それぞれ)案内の標示があるので迷うことなく滝の地点に着く。
 
 此処に樹齢百年以上と思われるミズナラの大木があり、鉱山の篤志家による「三段の滝」 の掲示板もあるのですぐ分かる。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 高さは約五十メートルという。灰色の凝灰岩の岩肌に、白い糸が垂れるように 三段に流れているので、三段の滝と後に名付けられたようである。此の辺りは、 エゾマツ・トドマツ・ミズナラの他に、ハウチワカエデ・ヤマモミジ・ツタウルシ なども多いので素晴らしい紅葉を見ることができるのである。
 
 さて、三段の滝を以前は「カマンペツの滝」と呼称していたのは前記の通りである。
 
 明治二十九年(一八九六)・明治四十三年の陸地測量部出版の測図に、現在の 三段の滝の川が、アイヌ語名で「カマンペツ、岩盤・そこにある・川」と命名されている。
 
 これは知里・山田先生の幌別のアイヌ語地名でも同様である。
 
 明治三十九年(一九〇六)、幌別鉱山開業とともに、鉱山地方の鉱物調査も隈なくすすみ、 特に、伊達方面への道路探索も実施したので、「カマンペツの滝」は、当時既に 発見されていたようである。(
 
 また、大正六年(一九一七)、大日本帝国陸地測量部の測図に、カアマンペツの滝へ行く 中程までの里道が記載されているが、鉱山に住む方々が「カマンペツの滝」と呼称したのも、 此の頃のように思われる。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 「三段の滝」の名称は、前記のような意味であろうが、呼称年時代は、第二次大戦 以後と言われる他は分からない。
 
 前記二者の他に昭和五十三年のある絵図に、三段の滝が「白紗の滝」と呼ばれていたのが 見えた。白紗の「紗」の読み方は、漢用音で「しゃ」、音で「さ」であるが何れあろうか。 「紗」は通常うすぎぬのことで、きめ細かい絹布の意味があるので、「白紗の滝」も 分るような気がする。
 
 然し、一般的に私達の考える「川」は、山の方から低地に流れ、川口から海に流出しているが、 アイヌ語の立場は、川は海からのぼり、部落を通って山奥へ入る生物で、山奥は川の頭として とらえている。これはサケが川をのぼる姿を思い起すが、実生活の中から、知里・山田先生は、 登別のアイヌ語地名の中で、地名を大切にすることを教えている。
 
 「カマンペツの滝」から「三段の滝」それが「白紗の滝」に変わるようでも困る。
 
 幸いなことに、現在「三段の滝」に定着しているが、「カマンペツの滝」の名は、この渓谷の 状況や滝の様子を良く表したアイヌ語の地名、明治末期以降、幌別鉱山で苦闘した人々の愛称でもあった。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 

登別の滝を訪ねて

 渓流と滝、それに紅葉という素晴らしい秋の季節も過ぎたが、山や谷は素肌を露(あらわ)し、 尾根の稜(りょう)線・谷川・滝など地形の調査、自然の情景を観察するのには最も良い 季節である。前号に続き滝を巡検してみよう。
 
 登別市史に紹介されている滝は、カルルス温泉「錦の滝」、登別温泉「勝鬨の滝」札内「不動の 滝」、幌別鉱山「不動の滝」・「カマンペツの滝」がある。
 
 幌別鉱山町の千葉辰男さんは生粋の鉱山子で七十五歳、鉱山の前記の滝は有名であるがその他、 次の滝を教えてくださったので早速巡検してみた。
 
 ※温泉滝 幌別鉱山橋を渡り左手の道を進み、鷲別来馬川を渡って右手に川を眺め駐車場広場まで 進む。此処から徒歩で約二十分、途中で川を渡るが路は標示されているので分り易く川縁の川又 温泉に着く。滝は、温泉下流五十メートルの二股の川の右、西北西側を川に添い約五百メートル のぼると温泉滝にでる。函館営林局の地図では「柾沢(まさざわ)」の名がある。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 ※美沢の滝 幌別鉱山橋から本流シノマンペツに添って約三・一キロメートル金山 旭鉱山方向へ進むと右手、北側、熊の沢、大曲沢から流れる川の旭橋がある。此処から百メートル程で左側 (西)に分れる道があり、古い橋が架かり、橋から五百メートルで道の南側「旭鉱第一支流」の美沢の滝の 北側に出る。急峻な沢(崖)を下りると見事な「美沢の滝」がある。
 
 ※鉱山不動の滝 鉱山橋を過ぎ右手へ向うとすぐに不動尊・三段 の滝(カマンペツの滝)の掲示板がある。北側右手に進むが、此処は銅の製錬所跡で直径 一メートル、高さ五・五メートルの熔鉱炉を八基備えつけた粗銅製産工場が建ち並んでいた所、 赤レンガの建物もすっかり整地された。工場跡を過ぎて間もなく、銀鉱の山下坑跡が左手にある。
 
 さて、滝は掲示板より約三キロの地点を進むと、右道路側に案内板と路があるのですぐ分る。 約十五メートルのロープを渡した木橋を過ぎると、弘法大師行脚の石像が祀(まつ)られ、 此処から太いミズナラ・カツラ・イタヤカエデ・ヤマモミジなどの樹林を約十数分 過ぎると不動の滝に着く。路も良く、渓流もあり距離も近い。
 
 滝の三方は、凝灰岩の崖が高く聳(そび)え立っているが、上流の川床は深く入り込んでいるので 滝の高さは十メートル程あろうか。水量も多いので滝つぼはやや深い。ところが滝の左崖は高く、 崖壁の中程から下壁にかけて、深く刳(えぐ)られているので石敷の広場は高い崖が 覆い被さり不気味である。最近、此の滝に打たれ荒行をする人も居ると聞いたが本当のような気がする。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 ※錦の滝 カルルス温泉のサンスポーツランドから、道道洞爺湖登別線を 登別温泉側に走る。此処はやや急な曲りであるが、すぐ直線の降(くだ)りとなり凹みの中を通る 感じがする。この凹地の左山側は、古カルルス湖粘土層のある場所で、これから大曲りを西方に 四・五百メートル上ると、右手の沢に車の入れる道が見え、これが錦の滝の入口で、すぐ中に 駐車の出来る広場がある。
 
 火山灰の坂道は広く分り易い。約十二、三分も下ると幅四、五メートル程の谷川があり、右手 五十メートルに「錦の滝」が見える。此の辺りがカシュンナイ(狩り小屋に行く沢)の渓谷で、 滝の高さは約八メートル。滝の下まで行けるが水流が激しく三段の滝のようにも見える。近くに カエデ類が多く、秋の紅葉は素晴らしく「錦の滝」も頷ける。
 
 旧名は「蘇志茂利の滝」、「蘇戸茂利」が正しいと思うが舞楽の曲名である。 四~六人で舞う踊りの美を滝に表わしたものであろうか。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

登別の開拓と動物たち その9「オオカミとのかかわり」

 現在、北海道から姿を消したエゾオオカミは、開拓以前の道内に広く生存し、通称ホルケウカムイ (狼神)として尊敬されていた。
 
 知里博士の「分類アイヌ語辞典」には、登別地方でヌプリパコルカムイ (山のかみてを支配する神)という尊称で呼ばれ、ヒグマはキムンカムイ (山の神)であるが人里に近い下手の方を支配する神として、形式的にはエゾオオカミが 上位の神に位置している。
 
 その他の呼称にオルンプカムイ(狩をする神)、ユクコイキカムイ(シカをとる神)、ウオセカムイ (ウォーとほえる神)などがあり、独特の叫びは神が呼んでいる声で、冬はその辺りに行くと 一部分だけ食べた鹿が残されているので「神が人間に与えたもの」と考えもらってきたと言われる。 しかしこのオオカミの遠ぼえには狩猟の名人であるコタンのセタ(イヌ)も尾を下げて逃げ込んだらしい。
 
 何しろエゾオオカミは。本州のホンドオオカミと異種のシベリアオオカミの種類で 体長も大型である。
 
 吻(口もと)が長く額は低く、毛色は変化するが狼灰白色・背・尾に灰黒色の刺毛があり、 極めて強力で、コタンの人達に「狩りの神」として恐れ尊敬されていたものである。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 当時のエゾオオカミの食料は、雑草に例えられる程多く群棲し、身体が大きく、 肉をどっさり持ったエゾシカを主食にしていたので、知恵のある武器を持った 人間を襲うことなく、また人間からみるとオオカミはやせて見え、肉も少なく、 精悍(せいかん)で獰猛(どうもう)なものに弓を向けることは、自分の命の保障 がないので無理して敵対する必要もなかったし、相互に敬遠し、等間隔をもって 接していたので日常の対立はなかったらしい。
 
 この均衡を破ったのは人間の方である。
 
 明治になり、和人の開拓が始まると、鉄砲でシカを殺し、明治六(一八七三)・七・八年には 平均十二万頭が捕獲され、明治十一年シカ肉缶詰工場が出来るという程までに乱獲したのである。
 
 登別も例外でない。シカが急激に減少すると、エゾオオカミも、ヒグマも、人間が飼育している 放牧場のウマを襲うようになる。
 
 幌別戸長役場の記録に、明治十九年四頭、同二十年に六頭のウマがオオカミの被害を 受けている。全体にヒグマの被害あh、同年合計で二十九頭と多いが「山犬」 でなく明確に「狼害」と書いてあり、明治二十一年の幌別戸長役場の資料にも「 狼は出没常なし」と記録されている。オオカミの被害を記録した資料も珍しい。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 日高の新冠牧場では、明治九年親子ウマ百八十頭を放牧したが、子ウマは 次々と姿を消し、親ウマも同様でオオカミに襲われ全滅した。開拓使は牧場 計画の中止も考えたが、アメリカ人顧問エドウイン・ダンの意見で硝酸ストリキニーネ を買い集め、不足分はアメリカより取り寄せ、馬の肉に混入して牧場付近に ばらまいた。集団を組むオオカミは毎日数十頭の死体を残して惨敗したのである。
 
 また開拓使は、明治十年からオオカミ退治に一頭二円(約九万円)の奨励金をだしたが、 成果がないので一挙に三倍以上の七円とはね上げたので、ヒグマ五円より高く、 明治二十一年の廃止までに千五百十頭を捕殺している。
 
 賞金値段が高いので「これはオオカミの子だ」「いや、顔つきが少し変だ」とエゾタヌキが 化けたり、アイヌ犬を安く仕入れ、脚を切って「何とぞ御褒美を」と役所に 申し込んだ連中もいたとか・・。
 
 但し、登別地方でエゾオオカミを捕殺したという記録はない。
 
 

 ←点描(3)へ     目次へ     点描(5)へ →

郷土資料トップページへ戻る  
 
 

Index