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郷土史点描(6)   宮武 紳一

登別市の境界 「ワシベツ岳」

 登別市と室蘭市の境界を示す山として「鷲別岳」がある。
 
 標高九百十一メートル。登別市では鷲別岳、室蘭の人達は室蘭岳とよんでいるので、 多少混乱があるようだ。
 
 国土地理院発行の地形図、その他公式名称としては、紛れもなく「鷲別岳」と記名されている。
 
 正式名称「鷲別岳」、愛称「室蘭岳」なのでとやかく云う訳ではないが、此の辺りは 確認しておきたい点であると思う。
 
 さて、名称の歴史的発生はどうだったのであろうか。
 
 北海道の名付け親、北方探検家として著名な松浦武四郎が、登別温泉の四方嶺(熊牧場のある山・ 昔ポロヌプリ)に登った時の景色に「東を望めば廻り一里半(約五・九キロ)と思われる湖水(クッタラ湖) 一つ見え、西を望めばモロラン岳、西北の峯を隔て臼(うす)か獄(有珠山)の沼(洞爺湖)に 距(へだた)る由」と記し、彼の「蝦夷日誌」に「チマイペツ」(室蘭・伊達の境界となった川)の水源シノマンベツ (ずうっと山奥へ入っている川)これ即ちモロラン岳に到る」と室蘭岳の所在を書いている。
 
 
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 ところが同時代、江戸幕府の命により、蝦夷地調査に当った市川十郎の「野作東部日記」 に「鷲別川の水源は鷲別岳で北三里」と鷲別岳の存在を示している。
 
 また、森春成・高井英一の「罕有(かんゆう)日記」では、鷲別岳を「ヘロキウパシ」と 呼んでいる。ヘロキウパシとは「雪・ニシン」の意味で山腹に、ニシン状の残雪がある時を ニシン漁期とすることから名付けられたらしいが、勿論(もちろん)、室蘭地方のアイヌの人達 の伝承からであろう。
 
 室蘭地方から見ると、鷲別岳の中腹に、白く細いニシン状の残雪が見え、此の頃になると 噴火湾では、ニシン漁の船を出しても良いという意味である。
 
 このような伝承は、例えば「ウパシシヤマンペ」とよばれる山を尊敬し、 目印にして沖に出漁する人達には「シヤマンペ魚(カレイ漁)は何時も豊漁」であったと 云われ、その地名が「長万部・オシャマンベ」になっている地方にも室蘭のヘロキウパシを 通じており、自然を観察して、漁・農期を占う昔の知恵が伺い知れる。
 
 
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 明治三年(一八七〇)前号で知られた通り、モロランは片倉家の支配地になり、当時は、明確でなかった 「鷲別岳」の名称は、室蘭地方や鷲別開拓に従事した片倉家家臣らにより「鷲別岳」と 大いに呼称したらしい。
 
 明治三・四年頃と思われる「胆振国幌別郡全図」にも明瞭に「鷲別岳」と記名されている。
 
 日本国内の本格的な地図は、明治五年(一八七二)陸・海軍省設置、陸軍参謀本部 創設の明治十年代には、参謀本部が国防上の必要から全国を地域ごとに作成し、 山名を僅(わず)かに記名されるようになったが、此の時、陸軍の調査官に報告されたのが、 山名として優位にあった「鷲別岳」であった。
 
 以後、公式名称として鷲別岳がある訳である。
 
 次に、幌別市内から秀麗な姿を見せる山が「カムイヌプリ」である。場所により形は変るが、 登別市内の大凡(おおよそ)の所から見える。
 
 カムイヌプリ名は、江戸時代、ホロベツ山(延叙歴検真図=えぞれきけんしんず)としてみえるが、コタンの 人達は「神の山」神霊の存在する山として尊称していたので、片倉家移住期の 「幌別郡地図」にも「幌別岳」一名「カモイノホリ」と山名をそのまま残したのである。
 
 正式名称は「鷲別岳」、愛称は「室蘭岳」。両者とも生活する人達の心の潤い、 愛着から発生したもの。
 
 最近、鷲別岳(通称室蘭岳)カムイヌプリに登る人も多い。縦走するのも良く、 双方とも景観は大いに期待できる山である。
 
 
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登別市の町名を訪ねて

 登別市に住んで、ときどき、意味の分からない「地名」を聞くことはないだろうか。
 
 ランボッケ・トンケシ・ライバなどは、地名の意味が分からなくても、通常使用されて いる地名だから気にしないであろうが、それがキブンタイ・ホロヤチ(登別地方)川上・ ニナルカ・オビラカシ・トラシナイ(幌別)・イワリカナイ・トプシナイ(鷲別地方) などと古い地名が、年配者との話題の中にでてくると分からなくなる。
 
 登別市の町名は、現在三十七町ある。命名当時は、それぞれの立地条件などを考慮して 名づけたのであろうが、他の市町村も多用している一般的町名には味気ない気がする。
 
 古い時代から住んでいたその場所の自然や、人々の生活の跡が存在していたことを考えると 「地名」は大切に扱いたいもの。最近、多くの町で反省があるようだが、それでも、昭和 四十九年(一九七四)の改正でもう二十年近い歳月を過ぎたのであるから、次第に 新地名に馴(な)れ親しみのある町名になりそうである。
 
 昔は、難しい地名も多かったので、時代に即応する必要もあり、今後は現代町名に 結びつける手立ても考えて、町名の歴史の跡を知り語り残すことが大切であろう。
 
 
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 さて、登別市前身、幌別郡のように行政地名が誕生したのは明治二年(一八六九) 、北方探検家として知られ、登別市にも馴染(なじ)み深い松浦武四郎の提案した 六案のうち、北加伊を北海と直し、東海道のように北海道として、十一か国、八十六 郡が設定された時からである。
 
 地名の古い資料では、オランダのフリースが率いる探検隊航海長クーンが印した 地名が、ヤンソニウスの地図に、室蘭のエトモや襟裳岬とともに、「パラピット」の名称で 世界地図に表されているようだが、一六六九年の「シャクシャイン蜂起」の時、 津軽藩の隠密(おんみつ)調査による資料などを纏(まと)めた「津軽一統志」に 「わしへつ・ほろへつ・のほりへつ」の名が、距離やコタンの家の数、土地の簡単な状況 とともに記されている。
 
 また、登別温泉の「鉈作(なたづく)り観音」は、黒く焦(こ)げているので、円空が 仏の背面に彫ったとされる「のぼりべつゆのごんげん」の文字は見えないが、登別も 古い地名で、資料の書体は仮名書きが多く、漢字は「延別(のぼりべつ)」とも書いている。
 
 明治五年(一八七二)幌別戸長役場ができ初めて幌別村・登別村・鷲別村の三村が誕生。明治九年 幌別・登別・蘭法華・富岸・鷲別村の五村になるが、人口不足から五年後に旧の三村に戻っている。
 
 
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 明治十五年、北海道に三県(根室・札幌・函館県)設置の時は札幌県に属し、 明治十九年(一八八六)は北海道庁の所轄となる。
 
 それにしても、明治・大正時代は、昔から多くの地名があり、大正八年大字 制施行時の様子をみると、登別村にペンケ子(ね)セ(カルルス)・湯の滝(登別温泉)・ 神威若(かむいわっか)(中登別)・キムンタイ・蘭法華など、幌別村はオカシベツ・ オホコチ・ハマ・来馬・奥川上・東川上・西川上・幌別鉱山、鷲別村は鷲別富岸・ トウボシナイ・奥山・奥鷲別・学田など、これに小字地名を入れると、幌別郡内の 地名は約二百余に達する程であった。
 
 昭和九年(一九三四)、字地名の大改正が行われ、この多くの字名も十五の新字名 に統合されて、一応すっきりした形になったが、例えば鷲別村中山・川添・ドロカクベツ・ 追込など、当時失った地名を尋ねると、旧地名の場所や旧地名から、古い地域の状況も 分かり興味深いものが感じられる。
 
 幌別の地名は、恐らくアイヌ文化時代からの呼称でポロペツ・大きい川の 和名化したものであろう。
 
 
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登別市の町名を訪ねて 「来馬町」

 来馬(ライバ)とは、随分変った名称である。「ライマ」と読むのだろうか。 また、馬に関係ある地名かな、とよく質問される。
 
 ライバの語源は「ライパ」の訛(なま)りで、勿論アイヌ語地名に由来する。
 
 ところが、意味の解釈で「蝦夷語地名解」を著(あらわ)した永田方正氏は「ライパ ・死者を発見する処の意味、今の小学校前を流れる川が流れていた頃人多く落ちて 死したりと云う」と述べているので、「とんでもない!」と怒った登別の偉大な言語 学者知里真志保先生は、ライはライペツなど道内でよくでている地名「古い川・淀 んでいるような処の意味。人が多く落ちて死んだなど聞いたことがない」と指摘し、 更に北海道曹達株式会社を設立し登別の町をこよなく愛したアイヌ語地名の大家 山田秀三先生も「楽しい町にケチをつけられては我慢できない。昔の来馬川は水量も 豊富で、下流は鉄橋付近をゆっくりと流れ幌別川に合流していた。今でも満潮時は 海水が遡(さかのぼ)り、川が動かないように見える」とアイヌ語本来の自然の情景を 観察しながら「淀んでいる河口」と解釈され、知里先生とともに、永田氏の誤りを 指摘している。
 
 また、昔登別に「ライパ」が二か所あり、現在の富岸川は、「ワシベツライバ川」と云い、 西富岸川・上鷲別川や他の沢水と合流して富岸・新生・若草・美園町の大湿原地帯を ゆっくり流れ、鷲別駅の鉄北で鷲別川に流入していた。現在の富岸川のように直接海に 流出させたのは、明治四十年(一九〇七)頃で、両者とも知里・山田先生が訳されている ように「ゆったりとした川」の意味があった訳である。
 
 
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 さて、「来馬」の名称であるが、約四十年前の資料では「ポロライバ・ ポンライバ」など、大、小ライバの意味の片仮名字がみられるが、同時代に 蝦夷地調査隊に参加した市川十郎の「野作東部(エゾトウブ)日記」に「会所 より測量・頼婆登丑(ライバノボリウシ)五分」即ち「会所のあった幌別町 一・二丁目からみて、丑五分・北北東に頼婆山がある」と漢字で初めて記録した 「頼婆」の字がみえ、測量でも頼婆登は現在の来馬岳の方向なので、両者は同じ 山の名称であることは明白である。
 
 頼婆は勿論当て字であるが、前記の幌別町一・二丁目は、江戸時代場所請負の中心で、 通行屋・会所などがあり、蝦夷地警備のため幕府役人、南部・仙台藩士などの 往来、荷物の運送で馬は常時用意され飼育されていたが、来馬川付近は野生馬が多く、 片倉家支配地となった明治初年、開墾が進むにつれ「数百の馬が群をなし、貧弱な 囲いを押し倒し、畑地に入り作物を食い荒らす」などの被害が報告されているので、 馬とは無関係でない状況にある。
 
 ライバから、頼婆の字も使われたが、漢字表現の必要性から「頼婆」の地名も おかしく、入植者も知っていたかどうか。
 
 記録の上で、来馬の字が表れたのは明治三年(一八七〇)片倉家入植以降「胆振国 幌別郡全図」に来馬山・ライハ川・来馬の地名が記入され「幌別郡之内、東西来馬丁 屋敷の図」に来馬の名がみえるので、此の頃「来馬」の地名に定着したものと思われる。
 
 それにしても「来馬」の地域は現在、山奥に引っ込んでしまったが、当時は広かった。
 
 現在の中央町四~七丁目、桜木町の一部以外に、富士、柏木、常盤、新川、片倉、 来馬町の全域は「字来馬」に包含されていた。
 
 中央町は来馬・ホンライバ・ポン来馬、桜木町は小平河岸(オヒラカシ)などという 字名であるが、これは一部分の代表的地名で「字来馬」の小字名は三十三もあって複雑であった。
 
 
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冨浦町を訪ねて 昔の蘭法華

 冨浦町の前地名「蘭法華(ランボッケ)を初めての人には難しい名称である。
 
 ランホッケ・ランポウゲ・ランポッケ・ランボケなどと読める。
 
 何(いず)れも、江戸時代から文献に記録されている地名なので誤りではない。それに 今日でも、旧国道にある「蘭法華隧道(ずいどう)」や、公的地図に「蘭法華岬」などと生きている。
 
 蘭法華の書き方は、江戸時代ほとんど前記のような仮名書きであるが、たまには「良武保介・覧発気」 の当て字も利用されていたようだ。
 
 漢字「蘭法華」の使用は明治四年(一八七一)の開拓使公文録にあるので、この頃から 使われたのであろう。
 
 さて、読み方は、漢字ばかりで仮名がない。大正八年の二級町村制施行のとき 「大字登別村(ノボリベツムラ)字蘭法華(ランボッケ)」という仮名ふり公文書を やっと見つけた。これ以前は小字地名でランホッケもあるが「ランボッケ」が圧倒的 に多いので、明治九年(一八七六)から五年間設けた蘭法華村の呼称も「蘭法華(ランボッケ)」と思われる。
 
 
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 さて、語源は勿論(もちろん)アイヌ語地名で「ランポク・ランボッケ、 坂下・坂下の所」の意味。蘭法華高台から、冨浦町一丁目の通称「七曲り坂」 を降りた冨浦川の周囲にかけて、昔コタンもあったので、「坂下の所」意味から、 この地域を総称したものでしょう。但し江戸時代の調査記録では、坂の上の高台 一帯をランホッケなどといい、坂下の方は「モセウシナイ、草を刈りつけている沢」 と云っているがこのことは後日にしたい。
 
 この「蘭法華」が「冨浦」に変わったのは、昭和九年(一九三四)、大字鷲別・ 幌別・登別の三村二百余の小字名を十五字に改正したときで、今日まで約六十年になる。
 
 冨浦は、海へ張り出た蘭法華岬から北西に、屏風のようにそそりたつ高台に囲まれ、 東は岬が海からの冷たいヤマセ風を、冬は北西の寒風を遮る温和な場所である。
 
 それに、岬の崖下岩礁には、海藻・魚介類が良く育ち、海底の砂中はホッキ貝などの宝庫であった。
 
 町名の由来も「岬が東に大きく突き出て入江となり、陸地に湾入した漁業の豊かな町」 ということで「冨浦」と命名された。噴火湾岸の「豊浦」と同意義である。
 
 
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 現在も、漁船は登別漁港に停泊しているものの、多くの住民達は漁業・ 水産加工に従事し、登別漁業協同組合もあって「冨浦」の名が示す水産の 町として栄えている。
 
 蘭法華高台は、「リフルカ、高い丘・土」といわれる広い美しい台地。 海の幸の豊漁を祈り、海難を避ける祭り場があり、全道・全国的にも貴重な 「アフンルパル」という長径約三十メートルの竪穴(たてあな)がある。 これは金成マツ媼(おうな)の語る「あの世の入口」という伝説の場所であるが、 その他に、地獄・極楽へ行く穴なので亡者がここから出て、磯場から昆布や 海胆(ウニ)などを取り、アフンルパルへ戻っていく、という話。オカシペツ 川(幌別町・幸町間)を境に「ランポッケとワシペツのどちらに、ウニが多いか」 と争った話など、漁業の町冨浦は、漁に関わる伝説が多いのも特色であろう。
 
 明治三十五年蘭法華生まれの、松浦治太郎さんから伺った話は、父親 寿太郎氏の時代までさかのぼる。
 
 とにかく魚介類の豊富な所、スケソ・イワシ・サバ・カレイは何時(いつ)も 大漁で、オバケダコといわれる程の大ダコや、カツオ・カジキマグロもとれた。 秋イカの時期は海岸で提灯を振ると光に惑わされたのか岸に上がってきた。 時化(しけ)の後にはホッキ貝、冬の小さな波の時は毛ガニ、程よく西風が吹く日は イワシの群が何を誤ったのか岸に上がってきた。大漁続きも需要が少ないので 魚粕(サカナカス)にするのが最もよい、という勿体(もったい)ない話である。
 
 
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冨浦町を訪ねて 「草刈り場」と景勝の地

 今から、約六十年前の冨浦(ランボッケ)の字名に、サトヲカシベツ、サツナイ、 ランボッケ、モセウシナイの地名があった。
 
 サトヲカシベツは「乾いているヲカシベツ」の意味で、現在の新栄・幸町などの 海岸に近い原野地。
 
 サツナイは、「乾いている沢」で一般的に新栄・冨浦町の高台。
 
 ところが、ランボッケは「坂下の所」の意味であるから、現在の富浦町一~ 四丁目の低地帯を指しているようであるが、昔の資料では蘭法華(ランボッケ)岬 から北西に広がる高い丘の上(リーフルカ)をランボッケとよんでいる。
 
 例えば、江戸末期に蝦夷地を調査した長沢誠至の「東蝦夷地海岸図台帳」によると、 「ランボッケ此(こ)の所に小休所あり是(これ)より九折(ツズラオリ)坂に下り、 モセウシナイと云う」。
 
 また、同じ頃に巡検した森春成らの「罕有(かんゆう)日記」に「ヌフリヘツ川を 渡り山に登り十余町(一〇九〇メートル)程行くとランボッケ一里塚・小休所があり、 険しい坂道を下るとモセウシナイに着き、小川に板橋がある」などと、現在の富浦市街の 低地帯は「モセウシナイ」と言う地名、高台の方を「ランボッケ」と呼んでいたようである。
 
 
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 それにしても、冨浦の低地帯がランボッケでなく、何故モセウシナイと言われて いたのであろうか。モセウシナイとは、「草を刈りつけている沢」の意味である。
 
 むかし、富浦町の地域は、一丁目の御膳水の湧(わ)き水、五丁目山下牧場山間から 流れる冨浦川。その西側のポールンナイ(馬鹿になる岩の伝説)、モユクンナイ(エゾ タヌキ入る沢)とよばれる湧水・沢水が流れ、沼のようになっていたこの辺りは、フトイ・スゲ・ ガマなどが群生していた。この草類は当時の織物の大切な材料なので毎年、刈りとりに行った ものと思われ、モセウシナイ(草を刈りつけている沢)の地名は、生活に合致した昔の 富浦町であったわけである。
 
 フトイは、スゲ・ガマなどと共に沼地の辺りに多く自生し、トキナ(沼・草)と呼んで、敷物にすると さらっとした肌触りが良い感触、夏用の織物に作られた。
 
 スゲはアイヌ語のポプケキナ(暖かい草)と言い、織物のゴザは、寝具に使ったり、ケリ(くつ) の中に入れて保温用に使用している。
 
 ガマの穂で知られるガマは、昔生活上とくに大切な草木。知里博士も「ゴザを編む草には いろいろあるが、その中で最も喜ばれるのは、ガマでシ・キナ(本当の草)の名で全道に知られている」 と言いガマで編んだ敷物は、他の草で編んだものより、暖かく柔らかいので寝具用に最適、また 丈夫なので舟の帆用に編んだり、神聖な祭壇を飾る幕・敷物を作る材料も「ガマ」が最高。 クルミ・ハンノキの皮から作った染料で、それぞれ黒や赤褐色に染め、織物に織り込んで美しい 模様を作るのが、染料に良く馴染んだのもガマ。イヨマンテ(クマ送り)などの神聖なキムンカムイ (山の神・ヒグマ)の座る場にも使われた。
 
 
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 さて、昔のランボッケ・富浦町一丁目の東側高台の上がる坂道は、江戸時代から旧道で知られ、 上りきった高台には前記の小休所もあり、此処(ここ)から眺望する景色は素晴らしい。
 
 「中国(唐)の西湖八景、我国の近江八景も『かくまでにはあるまじき絶景』で、文字で表現 できないので絵に描いてみせたいものだ」と高島日記に書いている。
 
 また「下を臨(ノゾ)めば白波岸を打ち西を眺(なが)めれば会所(幌別)元よりエトモ岬・ 内浦岳(駒ケ岳)、その景恰(あたか)も薩埵峠(サッタトウゲ)にて富峰(フホウ)を見る如(ゴト)し。」
 
 松浦武四郎は、駿河国の薩埵峠(サッタトウゲ)から三保の松原を眼下に遠く富士山を見るように、 冨浦岬の高台は素晴らしいと激賞していたのである。
 
 

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