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郷土史探訪(13)   宮武 紳一

「頼婆」から「来馬」へ「来馬町」

 来馬岳の山開きによせて
 登別市にはカムイヌプリ・オロフレ・日和山・フンベ山・ポントコ山・ボンズ山などと 市民に親しまれている山が多くあります。
 
 その中で天然の大樹林やチシマ笹、クマイ笹などが深く、簡単に人を寄せつけなかった 山に来馬岳があります。千メートル余の高さと、広大で深い山麓は峻厳できびしい山ですが、 明治以来の開拓者にとっては温い包容力をもった母なる山として親しまれてきました。
 
 「来馬岳」の「ライバ」は、アイヌ語の「ライハ」にあたり来馬岳は古くから「ライハヌフリ」 と呼ばれていましたが、ライパの語源は「古川の川口」の意味であることを郷土出身の 知里博士が解説しています。
 
 そのライパ川の上流は「シノマンライパ」(ずっと山奥に入ったライパ)と呼ばれ、来馬岳 南方深くに源流をもっていますが、このほか来馬岳を源流とする川に幌別川十流の「ライパエオマペツ」 (来馬に水源が向かっている川)、千歳川上流の「ライパヌフリエオマペツ」(来馬山に行く川) などがあります。

 ライパヌプリの呼称は、文字をもたぬアイヌの人々が語り伝え、山の名として 古くから知られていましたが記録としてあらわれるのは江戸期のことです。
 
 
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 安政元年(一八五四年)、江戸幕府の命を受けて蝦夷実地検考御用に参加した市川十郎・榊原銈蔵の 「野作東部日記」に「幌別川の水源は、幌別にて頼婆(らいば)に近接する」と書かれ、来馬山が「頼婆山」の文字で紹介されています。
 
 また、北海道の名づけ親である松浦武四郎の「東蝦夷日誌」には「ライバ、此の川ライバの後に至る故 名づくる也」とあり、ライバ川がライバ山の源流であることから命名されたことを語っています。
 
 明治になると片倉家の支配地となった幌別郡が、開拓使に領地支配報告のために作成したと思われる 「胆振国幌別郡全図」のなかで来馬川が神岳(カムイヌプリ)の右手に書かれており、この時に「頼婆山」から 「来馬山」に変わったものと思われます。
 
 来馬岳を地学的にみると、カルルス温泉付近の低地形を囲むカルルス火山の外輪としての役割を呈しています。
 
 
 すなわち、来馬岳は一〇四〇メートルの高さをもち、山頂北方に爆裂火口の地系と、その急峻な傾斜をなして そびえていますが、来馬岳溶岩は札内台地のポントクセ溶岩(ポントコ山)と同様に洪積世最下部にあり、 またクッタラ火山噴出物の最下部にあるランポーゲ浮石層中に礫(れき)として認められている 古い火山なのです。
 
 
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 来馬岳の稜線は、西北に一〇三五メートルのソーアンペツ(滝・そこにある・川)上流の山岳やショーカアンナイ (滝・そこにある谷川)上流にある一〇七九メートルの山など一一〇〇メートル級の 壁が連なり、海抜九〇〇メートルのオロフレ峠へと続いています。さらに、岩質が 硬いため侵蝕に耐え残った一二三〇メートルのオロフレ岳八九七メートルの加車山、 ポン加車山などの稜線が続き、カルルスの橘湖(パシイヤントー)の湖面には、 その雄姿を美しくうつしていたことでしょう。
 
 登山道路の設置により来馬岳と素肌の面があらわれ、動物の生息もうかがい知れることでしょうが、 自然の宝庫である来馬岳とそれに連なる来馬岳連峰の自然が観察される楽しみとともに、自然が いつまでも保たれて市民の眼を楽しませてもらいたいものです。
 
 
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豊かな自然の中にうまれた「新生町」

 町名の由来が、上鷲別の丘陵下に続く山麓地と国鉄室蘭線の北西に広漠として広がる大湿地帯を 整理し、全く新しく誕生した町として名づけたのが「新生町」です。
 
 昭和四十年頃の山麓や丘陵地は雑木に被われ、長靴でも歩けないほどずぶずぶと沈む谷地で、 事実未開墾地として放置されていましたが、今では山麓の望洋団地や新学田通りを 中心に大きく町が広がり、眼を見張るような進展ぶりの新生町はその名にふさわしい町といえるでしょう。
 
 新生町の町名になる前の旧字地名は、字上鷲別町と字富岸町の行政地名に含まれていました。また 昭和九年以前の古い字地名は、ほとんど「トウボシナイ」の行政地名で、幾度か説明していますが、 「トフ・ウシ・ナイ」(竹・群生している・沢)という意味の地名でした。
 
 大正四年から亀田公園付近に入植、開拓に従事していた小林太郎さん(八十一歳)は 「入植当時の新生町は、よし・すげ・ハンノキなどの植物がおい茂る湿原地で馬の草刈り場しか 利用できない土地だった。」と話してくださいました。また、現在の新学田道路も当時は 草木の深い曲がりくねった道路で、馬も通れぬ細道だったことからスミ焼きをしていた入植者たちは スミを俵につめて馬の背から両側にぶら下げる「ダンツケ」の方法でしか運べなかったようで大変苦労されたそうです。
 
 新生町の湿地帯には山麓から湧水が大量に流出し、またトンケシライバ川によって作られた多くの 湖沼もあったことでしょう。
 
 
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 これらの地域には、モウセンゴケ、ヤチボウズ、ヤチスゲ、ガマ、キタヨシなどあg 密生していたようで、特に陸生植物のスゲやヨシが群落をつくるようになると陸地化するように なり、最初に発生するのは現在でも新生町の未開地に多いヤチハンノキです。
 
 ヤチハンノキは、極端といわれる程の陽樹で成長が早く、ヨシやスゲの中でいつの間にか 若樹が成長しヤチハンノキの樹林を作ってしまいます。また、他の木の育たない痩せ地でも 丈夫に育つことから、新生町の湿地帯でもヤチハンノキ・ヤチダモなどが代表的な大木と して樹林帯があったものと想像されます。
 
 しかし、明治二十年以降の輪西村給与地としての開拓伐採と、明治二十五年の北海道 炭鉱鉄道(現在の室蘭本線)開通に伴う鉄道の枕木材の大きな需用によって この地域の大木は減ってしまい、小林さんが入植したときには胸の高さくらいのナラ・セン・ シナ・栗の木が多かったそうです。
 
 そのほか、新生町の湿地帯にはサビタの木が多く、小林さんの妻ふじさゑさんのお話では、 昭和の初期頃サビタの木の中皮を買いに来る人がいたので、夜の暇をみてはサビタの中皮をむいて 小使い銭にしたそうです。
 
 サビタは別名ノリの木、トロロの木、ネバリの木などと呼ばれてますが、本名「ノリウツギ」 で和紙を作る時の糊として使用されることから、サビタの皮を買いに来るのも和紙の製造に 関係ある人だったのでしょう。
 
 この他に、西の川にはマスがのぼっていたことやヤマベ、カジカなどの魚が沢山いて 獲ったお話セリ、ゼンマイなどの豊庫でキジ・カモなどがよく飛んできたり熊がでて 大騒ぎしたことなどが小林さんから伺い、昔の新生町の場所が、湿原地帯の荒漠な、そして草刈り場 的印象ではなく、豊かな浪漫的自然の明るい自由の天地であったことが想像されるのです。
 
 
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陽天丸座礁の地「大和町」

 登別市の町名で発想が不思議に思われる地名として大和町があります。ここの地域は、幌別の本流の 一部が浅い湖沼などとなって国鉄室蘭線と海岸の間を南西の方向に幅広く入りこみ、丈の低い葦原と雑草に 一帯が被われていた地域でしたが、昭和四十五年頃から新日鉄の鉱さいなどを投じて埋めたて、新工業地域 として造成された土地です。
 
 現在の大和町一丁目は、その昔暴風雨になると海岸線も分からなくなるほどの土地で、このような時、 幌別側から見ると、小高い大和町二丁目までは鉄道が水の中に浮いているようにも見えました。
 
 これにくらべ、二丁目は水の被害はなく、富岸川から東の方にかけては、当時大部分が牧場地帯でした。この 牧場は、通称田村牧場として親しまれた場所でしたが、現在では、その面影がありません。
 
 また、大和町二丁目の国道・国鉄沿線を富岸、鷲別町方面にかけては、鈴蘭の名所であったことが知られています。 鈴蘭の咲く六月初旬には臨時列車が出て室蘭方面からも鈴蘭狩りに、特に若い人達にとっては、 鈴蘭のロマン的香りとともに思い出の多い多感な日々もあったことでしょう。
 
 国道は現在幌別町から大和町二丁目にかけて一直線に通じていますが、柏木町三丁目に住んでおられる 宗本秋吉さん(六十四歳)や桜木町二丁目の原市太郎さん(八十一歳)に伺いますと、国道が一直線に 通じたのは昭和十五年・六年頃で、それまでの大和町は国鉄と海岸に挟まれた河川地域でした。幌別川を渡った 対岸の海岸に近い方は一面ハマナスや野イチゴの草原で、多勢の人でもとりきれない程の真赤に熟した 実が沢山あって、手籠一杯になるのにも大した時間がかからないほどでした。
 
 
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 海岸では昔漁場が設けられて、手広く漁業を経営していた井上漁場があったことや、 小堀長三郎氏や関下某氏らの魚場なども古くから経営されていたことは明治三十五年 八十一歳の井上静さんから伺うことができました。また、幌別の刈田神社はもと幌別町 一丁目にあり、大正十一年に現在地へ移転しましたが、刈田神社の鳥居として大きな クジラの顎の骨が飾られ名物として近隣にも知られていました。井上さんの話では、 このクジラは明治四十三年、大和町一丁目の井上家の漁場附近に漂着したもので、 山の如く大きいクジラに梯子をかけて上り、百二十尺の巨大なクジラの処分に二年がかりの 仕事であったそうです。
 
 その他、昔の大和町を語る話題の大きなものに陽天丸の座礁事件があります。
 
 大正八年九月、外国航路の貨物船、七千百余トンという当時としては巨大な船であった 「陽天丸」が豆類その他の雑食物を、生糸、陶磁器などを満載し、神戸、横浜を出航して、 サンフランシスコ、ニューヨークに向う途中、燃料用の石炭を積み込むために 室蘭港に寄港しようとしてますが、青森県下北半島の尻屋岬附近から濃霧に襲われ、 結局座礁してしまったのです。
 
 時間は真夜中の一時四十分過ぎでしたが、警笛のため鷲別、幌別の住民は驚き、ほとんどの 住民がその場に集まったもののどうすることも出来ず、室蘭や函館からの救助船が 満潮の時沖へ引っ張っても、この巨船はびくともしなかったといいます。
 
 その後、波が高くなり救援作業の進まない中で船体が折れてしまい、結局廃船となり解体することに なったそうです。
 
 
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登別地方むかしのお正月

 もう幾つ寝るとお正月 お正月には、タコあげて コマを廻して遊びましょう 早くこいこい お正月
 
 昔、子供の頃の最も楽しい思い出として、村の神社のお祭りや部落をあげての運動会などがありましたが、 自然に歌声になってしまうほどのお正月は、本当に待ち遠しいものでした。
 
 現在と異ってほとんどの家庭の生活は貧しく、ラジオ、テレビなだおの娯楽設備もない時代ですから 年に一度の正月は楽しいのも当然のことでしょう。「お正月には茶碗蒸しが食べられるんだよ。」と言った 友達の言葉が今でも耳に残っています。
 
 お正月というのは、年神様をお迎えする行事ですから家のまわりや家の中の汚れを払いおとし、 飾り物や供え物をします。昔、農家では馬小屋、漁師らは漁具小屋などそれぞれの納屋の掃除もし、 煤払いが終わると飾りつけをしました。
 
 また、今では正月用の注連飾り(しめかざり)を中心に売る「歳の市」が登別市内のあちこちに見られ ますが、昔は農家の副業として家まで売りにきたものでしたし、苦餅として嫌われる二十九日 を除いてほとんどの家では餅つきを行ないました。
 
 
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 登別地方にも、餅つきの時にまゆ玉を作る風習があって、主に枝の多いみず木の 小枝に餅を小さくまるめてつけ、紙の七福神や大判・小判など餅花といわれる飾りを 一杯にして神棚に飾りました。今でも、赤や黄色、白色のまゆ玉やみず木が売られているのを見かけます。
 
 このような中でようやく年越しを迎えますが、年越しとは一年の境目で、大晦日から 元旦にわたる年神を迎えるときですから、昔は清浄にして物忌みし終夜寝ないで起きあかす のが本来で火を焚いて神を迎える地方もありました。
 
 また、この夜には本来特別豪華な食事ではないのですが「オセチ」という特殊な食事を とりました。「オセチ」とは、今で言うオセチ料理のことで、マメに元気で働けるように、 子孫が繁栄するように、細く、長く生きるようにと黒豆、カズの子、年越しそばなどを食べました。
 
 いずれにしても、セチ・節は一年という期間の折目のふしぶしに当たる時ですから、「年越し」 すなわち年とりと正月は厳粛な行事でした。除夜は、百八つの鐘を聞いて一睡もせずに 過ごし、元旦の朝は暗いうちから井戸の水をくみ若水を神に供え、雑煮をつくるのに も若水を使う。そしてこのような行事の主役を一家の主人がみずから行うというところに、 昔の家を統率する家長たる由縁もあったのでしょう。
 
 
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 そして、元旦を迎えることになります。新しく清々しい朝を迎える元旦は、去る年の節目をつけて新しく 出発する神聖な日なので、一年の幸を願う初詣は除夜の鐘と同時に参詣する人も非常に増えます。
 
 家族や親戚が集まって祖先をまつる年賀の式も、最近は血縁的なものから隣近所や 職場的、社会一般的な儀礼になり。訪問や応接が中心であった年賀も、印刷の挨拶状 が配達されるしくみになりました。
 
 正月の遊びはもちろん、正月のもつ内容も大きく変わってきましたが、大人も子供も家事や 日常生活の仕事や学習から解放され、新しい年への夢や希望のもてるお正月は、やはり昔も今も 変わらない大きな楽しみの一つでしょう。
 
 
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ト・ウム・ケシの伝説を訪ねて「富岸町」

 トンケシ(富岸)の地名は、北海道の名づけ親として知られる松浦武四郎の蝦夷日誌や 廻浦日誌、森春成らによる罕有日記、市川十郎らの野作東部日記など江戸時代末期の資料にでる地名です。
 
 通常はカナ名で「トンケシ」と資料に書かれているが、「通計志、トウケシ」という文字 もみられ、今日の「富岸」になったのは明治三年から五年頃と思われます。
 
 明治二年八月、蝦夷は北海道となり十一国八十六郡に行政区画され、胆振国幌別郡として 幌別村・鷲別村・登別村の三村が誕生します。明治五年五月には、蘭法華(ランボッケ)・富岸 (トンケシ)を加えて五カ村になり、「富岸」村として確実に漢字で誕生しました。 この「富岸」の語源は、ト・ウム・ケシ(沼・尻・の末)の意味であることを知里真志保先生、 山田秀三先生が説かれています。
 
 市川十郎という役人の野作東部日記では「鷲別より三十四町二十間の所に通計志と言える 鮭漁場があり。“トウ”とは太陽の光彩が通る。“ケシ”は減少するということで、 山嵐がふき、霧が多く日照の少ないところである」と述べています。
 
 通計志(トウケシ)は当て字の漢字で、またトウケシは音読みの聞き違いの言葉でしょうが、 浜の近くまでカシワの樹が茂っていた密林中の濃霧は「霧陰気凝結シテ日輪ノ光 薄キ浜ナレハナリ」の意味もわかるような気がします。
 
 また、松浦武四郎の廻浦日誌によると「此所も昔、大村なりしが津波のため皆ふく没せしと、」という 記事があります。昔、大きな村があったというのは、トンケシにもコタンがあり、鮭・ますなどが容易に 獲れる産卵場や鹿などの獲物が豊富な場所であったことを示しています。また、津波で全滅したといのは 明確ではありませんが、寛保元年(一七四一年)渡島大島の爆裂により大津波がおこり、幌別はすべて 廃村になったという記事が松前道広の指示で編さんされた「福山秘府」にみられます。
 
 
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 事実であったかどうかは別にして、この津波がトンケシの伝説として、知里真志保の「えぞおばけ 列伝」の「兎と津波」の項で、トンケシコタンが全滅したことが語られているのも、今まで説明 した関係からみて面白いので紹介します。
 
 「胆振国幌別町内にトンケシという部落がある。ここに昔、大きなアイヌ部落があって六人の首領が住んで いた。あるとき、日高のトヌウオウシという人がここを通ったら丘の上に兎が一匹立っていて、沖の方へ 手をつき出して、しきりに何物かを招きよせるような身振りをしていた。彼あhそこでトンケシの部落に 向かって「津波がくるぞ、早く逃げろ」と叫んだ。
 
 六人の首領たたいは、たまたま酒宴をしていたが、いっせいに立ちあがって「へん、津波なぞきてみろ。 こうしてやる。ああしてやる。」といいながら刀を抜いてふりまわしました。
 
 トヌウオウシはあきれて、そのまま一散に虻田の部落の方へ走り去った。そのとき彼の背負っていた鞄が 背中のうしろで一直線になったまま落ちなかったほど物凄い速力だった。彼が有珠の部落まで来たとき、 はるかうしろで津波のまくれ上がる音がした。この津波で古いトンケシの部落は亡びてしまったという。
 
 この伝説の「コタン」や「津波」が、前記の資料とどのような関係があるのかは別として、 湿原地帯ではあるが豊かなトンケシコタンの情景が眼に浮ぶようです。
 

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