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郷土史探訪(14)   宮武 紳一

ト・ウム・ケシの伝説と遺跡を訪ねて「富岸町」

 トンケシ町の「兎と津波」の伝説は、登別に残る貴重なウエペケル(おとぎ話)の一つです。 トンケシを含む幌別の昔の人達は、海に風が吹いて荒れてくると白波がたってくるので、これを イセポ・テレケ(兎が飛ぶ)といい、波立つ白波の様子を兎が走っているようであることを表現しています。
 
 また、赤ん坊をパツカイ・タラという子負いの縄で背におぶり、海岸で子供をあやしながら、岸によせ 白く砕ける波をみせて歌うイフムケ(子守歌)には、「海辺でウサチャン、ぴょんととぶ、ぴょんととぶ」 と繰り返しながら歌い聞かせる歌が幌別にありました。
 
 ポン・ウパシクマと呼ばれる金成マツさんの説話、伝承にも次のような話があります。  「昔、兎は今のように小さいものでなく、鹿のように大きく、呪術にも長じていたので 呪術によって悪いことをしておりましたが、オイナ神が「小柄(こづか)」を最上の家宝として もっていたのを知ってあkらは、いつかすきをみて小さな刀の小柄を盗んで やろうと思っていました。
 
 ある日、灰をかためて小柄をつくりオイナ神の小柄とすりかえて一人で喜んでいたところ、 オイナ神は兎の悪戯と知って兎を捕えて切り刻み、大きい鍋一杯にして煮てしましました。
 
 ところが、その一片の肉が鍋をもぐって逃げ出したのでオイナ神は再び捕えて、それを小さな兎にし、 また兎が灰で作った小柄で鼻を切ったので兎唇といわれる三つ口になり、小柄の灰が ぱっと散って兎の眼に入ったので赤く、盲になってしまいました。
 
 
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 富岸の「兎と津波」のウエペケルも兎と海の波との関係を示し、富岸に残っている伝承は、 民話・神話などの研究を進めていくと、まだまだ貴重な文学的意味が多く残されています。
 
 また、富岸町には、考古学的な遺跡が多く一丁目から三丁目のやや高台に位置する地点で 土器片や石器類が出土しています。たとえば富岸神社付近の遺跡、旧富岸小学校付近の遺跡、 亀田公園遺跡、一丁目の東北側丘陵地域の富岸遺跡などです。
 
 本格的な調査研究では、北海道埋蔵文化財センターによる前記の富岸遺跡で、この地帯から さらに南東の地域に遺跡の群落があり、登別南高校裏山から青葉町の川上B遺跡に及んでいます。
 
 この富岸遺跡の特徴は、出土品の産出量は少ないが、最も古い縄文時代早期から晩期まで 数千年の長い縄文時代があったということです。そして、富岸神社の前の富岸川河岸からは、今から 約千二百年から七百年前の北海道では擦文文化時代といわれる時代の土器も発見されており、 本州では奈良時代から鎌倉時代初期の時代に相当します。
 
 また、文化財センターによって発掘された富岸遺跡の中でも珍しいものとしては、Tピット「落し穴」 と呼ばれる跡が三カ所発見されています。
 
 
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 昔、動物を獲る狩猟の道具として、石器にはヤジリ・ヤリなどがあり、 鹿の角や骨で作った骨角器にはモリ・ヤスなどがありますが、動物を大量に 獲る方法はとしては、集団で動物を谷のような所へ追いつめて崖から落として 獲ったり、富岸遺跡のTピットのように、沢のような所のけもの道や林の中でも 通りやすい所に「落し穴」を掘り、動物を追って穴に落すという狩猟方法でした。
 
 この富岸遺跡は、トンケシの縄文時代人ともいうべき人々の生活跡が多く、考古学上、貴重な遺跡です。
 
 
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地名誕生から半世紀の千歳町を訪ねて

 登別市の行政地名も明治二年から幾度か変っていますが、約五十年前の昭和九年に大改革が行われ 百余の字名が十五に統制されました。そしてこの時に全く新しい地名として誕生したのが、現在に続く 千歳町です。
 
 地名の由来も、千歳は千年・多くの年・限りない年数をいい、世の中の平和や年齢の長久を祈る意味から、 永遠に栄え続く町として当時、命名されました。しかし、昭和九年以前の字名は複雑で、オカシペツ・ ヲカシヘツ・オホコチ・ニナルカ・ハマ・ランボツケなどいろいろありました。
 
 例えば、北海道曹達工場の辺はヲカシベツ、P・Sコンクリート工場のあたりはハマ、幌別 中学校の北西はニナルカ、北海道曹達の東はサトオカシペツなどの地名でした。また、オカシペツは 岡志別川に関係のある意味で「川尻に魚捕小屋のある川」と訳されるのではないかと山田秀三・ 知里真志保博士が述べられていますが、伝説では「互いに槍を投げて突き会った川」と 呼ぶようになったともいわれています。
 
 ニナルカは、市営の陸上競技場・野球場などから東の方に広がる高台をさして 一般的に呼称され、ニナルカ台地の東北側、北電幌別変電所下の山側に入り込む 低地帯は、イ・クンネ・レ・ペ「物を・黒く・する・水」という意味の場所で、西側の 山麓から流出した水によって、草深く沼状に澱んだ所でした。
 
 昔、オカシペツ川に住んでいたコタンの人達は、衣服(アツシ)をつくるために、 オヒヨウやシナノキ、ツルウメモドキなどの樹皮をとり、黒みの色に染色する場所に イクンネレペを選んでいたようです。
 
 
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 染色には、赤色がハンノキ・カシワ・エゾ松の真皮の煎汁。黄色は、古くからの薬木・染料木として有名な キハダで、江戸時代、幕府や大名はキハダを勝手に伐ることを禁止していたほどで、北海道では シコロと呼び、湿った谷地や河畔に多く繁っておりました。紫色にはガンコウランで、実が熟すると 紫黒色になります。そして、黒く染めるにはクルミ、カツラ、カシワの果皮の煎汁で煮て、 鉄分の多いイクンネレペの谷地水につけたのでしょう。
 
 千歳町を流れるオカシベツ川は、水量が豊富な川であることから、水力発電で木工場なども経営 されましたが、大湿原地帯とこれを囲む台地は、古代人達にとっても自然の動植物の豊かな 生活場所でもあり、縄文時代の多くの生活跡が残されています。
 
 千歳町の遺跡群は、登別高校郷土研究部の調査や、昭和五十五年埋蔵文化センター の本格的調査で七カ所発見されており、報告書を見ると、千歳町一八二番地の野呂秀男氏 宅東山麓の千歳第四遺跡は、札内に通ずる道道上登別室蘭線を前面にした 約六千年前の早期から後期にかけての遺跡で、住居の跡が六カ所、動物を獲る落し穴や 生活用具の土器、狩猟用の石器などが発見されています。
 
 古い年代の遺物がやや高い所に点在していることや、高台の地域に遺跡群の多いことから、 恐らく六・七千年前は海が深く陸地に入りこんで、千歳町一丁目は砂浜の地域であったのでしょう。 第二次大戦後、砂鉄の採取が行われたり、現在でもニナルカの低地帯で工事が行われた現場を見ると、 四・五メートルの深さの層の厚い海砂が海侵の状態を示しているのがわかります。
 
 
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大農場による開拓の跡「千歳町」

 千歳町を流れるオカシベツ川は、千歳町を形成する中心で上流が数本に分かれています。
 
 左のオカシペツという意味のハルキオカシペツが本流で、昭和六年源流の滝の所に不動尊王を 安置したことから「お不動さんの滝」で知られるなかなかの景勝地です。ほかに、中のオカシペツ という意味のシンノシケウンオカシペツ、頭が東に向かっているという意味のエコイカウンオカシペツ などがあり、いずれも札内の方向から流出しています。
 
 一見開拓に適したような千歳町も谷地と丘陵地が多いので畑に適さず、刈田神社の南東部一丁目 付近でさえもタコ沼地帯と呼ばれた沼地・湿地があり家畜の草刈り場的な存在でした。
 
 それでも、三・四丁目の丘陵地は放牧場として明治初期から利用され、明治十四年から十六年にかけて 愛知県人が約二十戸、そのほか兵庫、静岡県人らがオカシベツ川から現在の国道である札幌本道沿いの ランボッケ(冨浦)方向にかけて入植しており、山木馬太郎・池内三太郎らが二丁目付近の開拓をしています。
 
 また、但馬国豊岡藩家老で尊王論者であった木下弥八郎は、明治維新後北門警備の必要性から北海道 移住を決意して明治十五年、千歳町のニナルカ台地付近に入植しましたが、開拓は意のままになりませんでした。
 
 このような開拓の苦闘が続いているなかで、明治二十五年、現在の室蘭本線の前身である 北海道炭鉱鉄道が敷設されると幌別駅が設置されました。
 
 
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 この駅の位置は現在の、北海道曹達とP・Sコンクリート工場の中間あたりの位置でしたが、駅舎が 火災にあったときに村民が当時約三百円あまりの寄付金を出し合い、明治 三十五年、現在駅の南側に移転されました。
 
 その後千歳町の開拓について、現在八十一歳になられる千歳の伊奈卯太郎さんが 次のような話をしてくださいました。
 
 『明治四十二年当時の幌別村字オカシベツ一三七番地(現在の千歳町六丁目) 付近に大阪在住の徳田弥七氏が事務所を設置し、管理人を前田安次郎氏に当てらせ、 香川県より若者約二十名を連れて直営の開墾を開始しました。開拓は千歳町のほかに、 登別から富岸にかけての約三百三十町歩、当時としては珍しいプラウ、ハローや除草 機のカルチベーター、デスクハローなどの農機具をアメリカから買い入れて 大規模経営を行い、主として大豆・小豆・トウモロコシ・エンバク・馬鈴薯などを 栽培し、豆類などの雑穀は台車で小樽に運び本州に出荷していたようです。
 
 しかし、気候が不順なことから凶作が続き、大正三年頃経営は一旦中止され、以後は 徳田農場から独立した若者の岸本清五郎氏らが北海道曹達工場付近を耕作していました。 そして昭和八年、徳田農場は昭和洋行幌別農場として新発足し、新農場社長の義弟で あった私が管理人となりましたが、日中戦争のため日中貿易に関係していた農場経営に この会社も昭和十五年に解散しました。
 
 それでも、幾度か開拓が繰り返えされた千歳町のニナルカ台地には、競馬場があり 年中行事として村の人気を集めました。』
 
 また、131ページで紹介した吉岡和彦氏提供の馬揃いの写真は、軍用馬として徴用する目的 で集められた農耕馬であることを伊奈さんは話してくださいました。
 
 そして、日中戦争の勃発とともに千歳町は工場地として進展していきます。
 
 
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銀のしずく降れ降れまわりに

 「東から神様が天降った 祭場の山のそばに天降った祭場の山のそばに 金具の音が美しく 聞えた。」
 
 これは、イヨマンテ「熊送り」のときに、登別地方で歌われた祭りの歌「イヨマンテウポポ」 の一節です。
 
 海難や病気を避ける呪文として「角の生えた婆様の子孫でございます。運がよくなるように 神様 よ、お守りください」
 
 そして以前にも紹介したように海の波を静める呪法(じゅほう)と関連して、 『浜辺で、うさちゃんぴょんととぶ、ぴょんととぶ「オオタ カタ イセポ ポンテルケ ポンテツケ」』 など、登別地方には、登別独特の呪法・呪文ばかりでなく、歌謡や詩曲、散文の物語などが多く残されています。
 金成マツ、知里真志保博士はあまりにも有名ですが、知里真志保博士の姉で、 金田一博士のもとで著述に励み、表現が豊かで美しい神謡集を残し、十九歳の短い 生涯を閉じた、知里幸恵さんのことはあまり知られていません。
 
 
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 「登別の春は、どんなにかきれいでしょう。登別の海はどんなにのどかでしょう。春雨のソボソボ 降る景色はどんなに美しいでしょう。」と、登別を心から愛し育った幸恵さんが、 登別を離れたときに書いた文章、少女時代の手紙の一節です。
 
 登別本町三丁目、国道三十六号線を上がりきった高台リフリカは昔の地名で 「高い丘」とよばれ、東側、昔、海の幸を祈る御幣場があったといわれるハシナウシ の丘が続いています。このハシナウシの丘に立つと、登別川や登別の街並み、フンベ山や アヨロ岬(虎杖浜)までが一望に見え、ここに「海の見える川の丘に住みたい」と 生前話をしていた知里真志保の顕彰碑が、昭和四十八年、同窓の多くの人達によって 建立されています。
 
 この顕彰碑には、白く鮮かに、「銀のしずく、降れ降れまわりに」と、まるで 周囲の静寂な樹々の中から飛び出して銀のしずくが舞っているような、幻想的思いにかられるような文字が見られます。
 
 これは幸恵が、東京の金田一博士宅の一室で、死の直前まで校正に没頭しながら 書き残した神謡集「梟(ふくろう)の神の自ら歌った謡」の冒頭の文の一節です。
 
 
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 『「銀の滴、降る降るまわりに金の滴、降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら、流れに沿って 下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると、昔の貧乏人が今お金持ちになっていて、 昔のお金持ちが今の貧乏人になっているようです。」という文から始まり、貧乏であるが人間としての 品格をもち、神を尊重する者達を救い、人間の世界を守っている、ふくろうの神の美しい文の物語です。
 
 金田一博士の依頼を受けて執筆にとりかかったのは彼女が十七歳のとき、そして神謡集筆録最初の ノートを博士のもとに送ったのが十八歳の四月、金田一博士が彼女を「 私の研究のお話相手」という事で上京させたのは大正十一年今から六十二年前の五月半ば、丁度今頃の季節です。
 
 晴れがましいはずの彼女の出発も、わずか四カ月後の九月十八日銀色や金色に輝く水滴が散るように、 十九歳三カ月の生涯を博士の家で終っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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開拓百年の跡 幸町・新栄町を訪ねて

 幌別町・千歳町の東側オカシベツ川を境に、国鉄室蘭本線の南東側に広がり冨浦町に 接している地域が「幸町」、一方国鉄室蘭本線から北西の丘陵地と草原や雑木林の平野地帯が 「新栄町」で、両町とも昭和四十九年の町名改正の時に誕生した新しい町です。
 
 幸町は三丁目を中心に今日でも樫の林と草深い地域が残っており、町名の由来は今後の 新しい町づくりの発展に幸の多いことを期待して名づけられました。
 
 現在一丁目には、昭和三十七年に操業を開始した三洋工業や二丁目の市衛生センター、市清掃工場、 東興ブロック工場などがあり、さらに市営の通称日の出野球場が市民スポーツの場といsて国道 沿線添いに広がっています。また、四・六丁目は砂の採取とともに土地整備が行われ、五丁目は 昭和五十年以降、柏を中心として林の樹も伐採され住宅に変容しましたが、同時に昔の面影も 急速に失ってきました。
 
 海岸から砂原に上がるとムリツチという若芽が山嵐の背の針のように生え、ボウフやシロヨモギ、 ハマエンドウがあり、そして当地方ではハマナシと呼ばれていたハマナス原があり、 六月初旬には、大勢の若い人々で賑わったことを思いおこすと夢のような変わり様です。
 
 
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 一方、国鉄室蘭線から北西の丘陵地と平野地は、町名変更以前は西方に字千歳町に、 東側が字富浦町に属し、町名の由来も新しく生まれ栄える町としての願いから「新栄町」 と命名されました。
 
 幸町も新栄町も丘陵と海の間に国鉄室蘭本線や国道を挟んで広がっているので幅が狭い ような町ですが、幌別・千歳町から冨浦町まで続いている長大な地域で町名由来の通り 未来へ夢の多い町です。
 
 開発や発展の歴史を振り返ってみると両町ともすでに百年前に開拓者が入植しています。
 
 明治十四年には静岡県出身の藤沢禎次郎や兵庫県の橋本一根が移住し、明治十五年には 愛媛県出身者約二十戸という大勢の移住者があり、当時の札幌本道(現在の国道三十六号) 沿いに間口をもちオカシベツ川東方から冨浦方面にかけて入植しています。北海道炭鉱鉄道 (現室蘭本線)の開設が九十年前の明治二十五年なので鉄道のない当時としては広大な地域であったことでしょう。
 
 
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 移住状況をオカシベツ方面からみると、山下茂市、山木ツイ、大西貞造、大西弥三治、 脇官治、田中忠太郎、浜田菊治などの名が資料にみられます。また、江戸期の道路は、現 国道より浜側に設けられていました。
 
 昔の地名を見て両町の足跡を西側からたどってみると、新栄町十一番地の南輝雄氏宅 の方から流れ出るサトオカシベツ川は乾いているオカシベツ川の意味で、現在は北海道 曹達工場にはいりこんでいますが、昔は新栄町を東に下り幸町一・二丁目の方向に流れ コペチャウシという沼に通じていました。知里・山田先生らのアイヌ語地名によると 「鴨の群生する所」という意味で、植生や土地の状況などからみて幸町二丁目の日の出 野球場の東側方向の広い地域に大きな沼があったものと思われます。
 
 コペチヤ、あるいはコペツチヤは普通マガモのことですが、クロガモのメナシケや肉が 美味でないよしやれガモ(キングロハジロ)などはもちろん、他の水鳥も群来したのでしょう。 サトオカシベツの流入するこのコペチヤウシは海岸側の段丘によって水が海へ流出しない 沼であったともいわれます。
 

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