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郷土史探訪(16)   宮武 紳一

昔の伝承を訪ねて「富浦町」

 富浦町一丁目の平野地をすっぽり取り囲んだ山際の北側、静かなたたずまいの中に冨浦 神社があります。
 
 創立は明治三十三年六月ですが、創立当時の神社の場所は現在地と異り、一丁目本通り 登別漁業協同組合西側隣り、松浦商店宅の裏側の一段高くなった所で、現在、 栗の木が茂っています。
 
 神社への道は、松浦氏宅から北へ少し上り西に向いた短い登り坂で、祭りの余興も神社から 見下ろすと松浦氏宅の裏畑で相撲を中心に部落の人達で賑わいました。
 
 その後、神社周辺にも家が増加し神社の敷地も狭いので現在地に移されましたが、保食神の他に 金毘羅大神を祭っているのが漁業の町、富浦町にぴったりです。
 
 金毘羅と言えば、発生は文武天皇の七百一年という古い時代に さかのぼりますが、「讃岐の金毘羅さん」として特に江戸時代、その名声は日本全国に響き、 読みものが大衆をもてはやし、文人墨客が訪れ、大名も参勤交代の折に立ち寄る ほど有名になりました。
 
 
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 金毘羅は、梵語(古代インドの文語)でクンビーラ・鰐魚、仏教では竜王・海神 と言って海難の時の祈願にこたえてくれる守護の善神であり、水産の町富浦町金毘羅さんを お祭りしたということも当然です。
 
 その冨浦町に金毘羅宮を祭るようになったのは、四国讃岐(香川県)から明治十六年に移住 した山下茂市さんが開拓の苦労も報われた明治四十年、赤樫勘作、合田勝次、大西荒次さんらと ともに開拓記念碑を建立し、現在の富浦町五丁目の山際に登別石で二十数段の立派な階段を造り 高台に神殿を安置したことに始まります。十月十日が祭りの日で、この頃、神殿のある高台から 見える前浜では鮭や鰯が毎日大漁であったと言われますが、この後に御神体が富浦町一丁目に 移され現在に至っています。
 
 残念な事は、五丁目、山下氏の所有地内にあった神殿跡・開拓記念碑は、昭和五十五年登別市を 襲った大集中豪雨の際、崖崩れの土砂とともに大部分が流出したことです。
 
 漁業の町富浦町を古くから訪ねると、考古学的遺跡もありアフンルパロの伝説やワツカオイ、 そして悪魔払いのウニエンテの風習も残っていたことを冨浦生れで八十二歳の松浦治太郎氏から 伺っています。
 
 
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 海の上で フ・アラ・オー
 雄の小鳥が フ・アラ・オー
 ふんどしふりふり
  助けを求めている
   フ・アラ・オー
 浜の砂原の上で フ・アラ・オー
 雄の小鳥が フ・アラ・オー
 大地ふみふみ泣き叫んでいる
      フ・アラ・オー
 
 これは水難の時のウポポ「坐歌」として幌別地方に伝承されていた歌で、 知里真志保先生の集録したものです。
 
 水難といえば昭和二十五年、登別沖で戦時中の浮遊機雷に部落民の漁船が触れ、 四人全員が死亡するという事件もありましたが、昔は水難の時、浜辺に人々が大勢 集まり、男は刀を抜いて振りかざし、一歩ごとに刀を前に突き出しては引きつけ、また 前に出す。悪魔払いの占術的踏舞行進をしました。
 
 江戸期から幌別場所の海産物、俵物の生産地として知られる地にこのような風習が 残されていたことを想像しても、これが漁業の町富浦の地であれば不思議ではないことでしょう。
 
 
 
 
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古川の流れる漁港「登別港町」

 スケトウタラの最盛期は過ぎましたが魚を満載した船が入港し、岸壁では魚箱を 船から陸上げしたり魚を取り外す仕事をする人達、港も狭い程に並んでいる船、 林立する帆柱-。ここは登別唯一の内陸港で、登別はもちろん、虎杖浜、白老の漁船や 漁民達の漁業基地として栄え、昭和四十九年の町名改正時には、登別港町と命名された所です。
 
 一丁目は漁港とフンベ山、鉄道敷地と工場があり、二丁目は工場と製品置き場などで、 海岸側にアスファルトで整備された道路が冨浦から漁港に通じています。
 
 登別港町の町名は、漁港基地の町として命名されたわけですが、昭和九年以前の字地番名 では漁港やフンベ山一帯をフシコベツ・フシコヘツ、また港町二丁目はハシナウス・フシュベツ・ 前浜などと命名されており、現在でも年輩の人達で登別漁港のことをフシコベツ漁港という 方がいらっしゃいます。
 
 フシコベツとは「古い・川」の意味で、一般的に漢字では「伏古別」または「節木別」と書かれ、 その地名は江戸末期の資料にたびたび紹介されています。
 
 
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 安政元年(一八五四年)、江戸幕府の命により蝦夷地調査御用の一行に加わった 榊原銈蔵・市川十郎の野作(えぞ)東部日記にはー
 
 「伏古別は保侶別(幌別)・白生(白老)の境。登別より此の辺山間の沢地にて 悪水はきかたき地也。葭茅(よし)のみ茂りたる処多し。フシコは昔というアイヌ語 で古川なれば即ち昔の川という意なり、此の所より左端山へ入り阿餘呂(アヨロ) 山の奥湯沢という所温泉あり、此山中一里ばかり行ってかえり見すれば東北の山間に 周囲二里餘あらんと思わるる湖水あり、湖名も「久宇多累志上宇(くつたらうしとう)・・・」 とあり現在のクッタラ湖も紹介しています。
 
 また長沢盛至の東蝦夷地海岸図台帳にはー
 
 「フシコヘツ此の所の小川より東はシラヲヰ、西はホロヘツ分也。西の方恵山岬より フシコヘツまでは御家(南部藩)の御持場にして、それより東は仙台家御持場也・・・・。 早朝ホロヘツを出舟してフシコヘツに着き此処より陸路に上りって測量せしに、甲より乙 までの谷地深く馬に打乗りて超ゆれば既に馬の背も水にひたる也と思う程也」とあります。
 
 
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 港町一丁目は、砂浜海岸が広がり、砂原からムリツゲ原そしてハマナス原となりススキ、 ヨモギの草やぶが続き、耕作には不適で開発も遅れましたが、いわゆる前浜として漁業には 恵まれ毛ガニのかん詰め工場がで出来たのもこの街です。前記の海岸図台帳の絵図をみると、 登別川が冨浦岬近くを流れ比較的海岸に近い東側に漁業に従事していた人達とコタンと思われる 家屋が描かれています。
 
 また、知里・山田先生の地名の由来に、ワカタウシ(水を・汲み・つけている・場所)と呼んだ 場所があります。説明では「もとランボッケ岬の東側に前浜部落があり白老系統のアイヌが コタンをつくっていたが、此処はその人々の水汲場で岬の東斜面の中腹にある」とあります。
 
 港町二丁目のワカタウシは、現在削りとられ、昔をしのぶ何ものもありませんが、冨浦側から 旧道のトンネルを過ぎ、国鉄を渡る橋から西側になだらかな、やや広い坂を約二十メートル のぼる高台の広場には住居跡の敷石や木片が残っていました。すでに井戸もなく水も枯れて いましたが、広場の下方に水の湿潤がみられたことと付近から続縄文時代の恵山式土器片を 発見したことを私は覚えています。
 
 
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フンペサパの伝説「登別港町」

 三月十日夜七時のHBCテレビ「まんが日本昔ばなし」に、登別「フンベ山」の伝説が 「山になった鯨」という題名で放映されたのをご覧になられた方も多かったことと思います。
 
 登別駅南東の海に面して大きく広がる丘状のフンベ山は、テレビで放映されるまでもなく 伝説の由来から呼称されている山で、語源は「フンペサパ」(鯨・頭)と呼ばれウエペケレ(昔話) の中でも有名です。ここでフンベ山の話を簡単に説明しましょう。
 
 ー昔、天に住んでいた偉い神々が人間の住んでいる他界の国をふと見ると、ショキナという 巨大な鯨のような海魔が、上のあごを天空すれすれに、下あごは海底すれすれに大きな口を 開いて人間達の舟を呑みこもうとしていました。驚いた神々はこのショキナを退治して人間の 住む国を助ける勇ましい神はいないかと相談するが、海魔を恐れて誰一人救いに行こうとする 者がいない。
 
 この時、「カワウソの神」が普段の威張り癖から「誰も退治できないのか」と馬鹿にしたように 言ったので、他の神々からショキナを討つ役目を仰せつかってします。失敗したかと思ったが 後のまつりで、仕方なく天から下りたカワウソの神はショキナに立ち向かったものの、恐ろしい ほどの力をもったショキナの勢いに慌てて逃げまどいながら刀を捜したが見つからない。岸辺の 里の神々に「里の神よ、刀を貸してくれ」と頼み訴えた誰も普段威張り屋のカワウソに対しそっぽを 向いている。
 
 ところが、のぼりべつの里へ来ると、その里神が「カワウソの神よ、刀は自分の腰にさして持っているでは ないか」と教えてくれたので、カワウソの神もやっと気がつき、自分の腰の刀を抜いてショキナを 両断し退治してしまう。この時にお礼として、頭の方をのぼりべつの里神に残したのがフンペサパ・クジラ山だという。
 
 伝説の由来からも伺われますが、昔は神聖な山で、漁港の西方に新道から山に 登ることの出来る緩やかな空沢があり、右手の方向に頂上が通じています。この 空沢を幣場に行く沢「ヌサシコツ」といい、頂上のやや平地の所を西の方向に進み きると「オンネサウシ」(古い・幣)といわれる祭り場があったといわれます。


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 伝説のあるこのフンベ山の組成は溶結凝灰岩で「登別石」として全道にその名を広めました。
 
 登別石が生産されるようになったのは明治二十年代で、今から約百年前ですが、削り 易いこと、色彩の良さなどで古くから使用されたものと思われます。
 
 明治二十五年、北海道炭鉱鉄道の開設、登別駅の開設によって、このフンベ山の北側から採取 された石材は、鉄道工事用や大量の宅地造成工事用として生産され、大正初期になると、道路・ 排水溝・倉庫・石塀・寺社などに大量の需要があり、フンベ山麓近くに石材専用の岐線が 敷設されるようになりました。
 
 岩の下層部分は紅色を帯び、ついで紫紅色、上部は紫青色と、落ち着いた柔い色合いや、粘り、 油けがあり、石材として人の眼をひきつけるに充分なフンベ山が最初の石切り場も、冨浦東部、 登別本町二丁目のヘサンケの石切り場などと増え、登別石の名を全道的に高めました。しかし、フンベ山が、 陸に上がった鯨が日乾しにされ痩せた姿をみせているようで伝説の末路もなんとなく哀れに感じられます。
 
 
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白老との境界フシコベツ「登別港町」

 冨浦から蘭法華トンネルを抜けて港町にでると、海岸に添って漁港に通ずる新道が 昔の前浜を通っています。天気の良い日は漁港の堤防の上部に虎杖浜ポンアヨロの 岸壁が紺碧の海に美しく、台地状に連なっているのがよく見えます。
 
 護岸の堤防が出来る前は、蘭法華岬からフンベ山まで広い砂浜海岸が続き、知里真志保 先生も登別アイヌ語地名の命名案内者として知られる板久孫吉さんらに連れられ、ハタハタ 獲りをした時の漁場の風景を記録されています。
 
 登別川から東へ五・六十メートルも行くと右折する坂道があり、これをのぼり 更に東に下ると、海に面し一段高くなっている石切り場跡に板囲いをした温泉小屋 があります。ひなびたというより粗末な建物ですが、誰でも遠慮なく無料で入れ、 泉源は白い手拭いも赤褐色に染る鉄泉です。
 
 知里真志保先生を慕って四年ほど前の晩秋に先生宅を訪れた時、ツルウメモドキの黄色い 表皮に包まれた朱色の実がたくさん玄関と部屋に飾られ、鉄分に染まった手拭いも 干してありました。大人も健康のため鉄泉を時々利用していたのですが、温泉の名称や 所有者など質問を受けた時に不明なので「真志保先生の愛したフンベ山にある温泉だし先生が 居られるとすれば必ずフンベ山温泉と命名するでしょうから」と即座に筆者もフンベ山温泉の 名付けを約束してしまいました。
 
 ひそかな憩いの場をフンベ山温泉などと声を大にすると、温泉小屋も消えるのではないのだろうかと ためらいを感じるのですが、昭和三十六年六月九日に亡くなられた偉大な知里先生の命日も 近いので、あえて記載させていただきます。
 
 
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 また、登別駅は明治二十五年、北海道炭鉱鉄道開通と共に開駅しましたが、現在の駅より登別川、そして フンベ山寄りに設置されました。駅設定の理由は、全国著名温泉、北海道温泉場で知られる程有名に なる登別温泉と登別石の切り出しであったといわれます。
 
 登別と白老の境界は、フシコベツ川であることは江戸末期の野作(えぞ)東部日記、東蝦夷地海岸図 台帳などの資料で紹介しました。片倉家が明治二年八月、北海道開拓の嘆願書を政府に提出し 「胆振国のうち幌別郡・右一部をその方支配に仰せつけられ候」として太政官布告により幌別郡支配を 命じられました。同年十月十八日、支配地受けとりの為に片倉景範と旧家臣らは白石を出発し、十月九日、 幌別に到着しています。
 
 幌別郡支配地受領の一団の中心として加わった、公用方の本沢浩斉は「胆振国幌別郡御支配所出張萬 記録」にその経過を述べていますが、やはり支配地境界確認のためにフシコ別を訪ね、標柱建立について記しています。
 
 「十月二十七日好天気、朝五ツ時少シ過キ御馬ニ而フシコ別御境見分」
 
 「御境杭被相建候事、長サ一丈六尺、幅一尺六寸」
 
 二十七日の朝八時過ぎにフシコ別の境を見分し、境界の杭を建てたのでしょう。しかし、標柱建立の 位置については明確でありません。「伏古別ハ山間ノ沢地ニテ悪水ハキカタキ地也」という程で 沼地に標柱は建立できませんし、海岸図台帳記載の推測からフンベ山東端の港入口から約六百メートル 北西の方向と見当をつけるより他にないでしょう。
 
 伏古別は「古い川」の意味で、東町一・三・四丁目もフシコベツです。標柱の定かでない境界は白老側 としばしば紛争をおこし、明治三十年にやっと両郡境界の解決をみています。
 
 
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白石城主片倉家主従の登別市開拓

 鎖国の夢を覚まし、世界の進展から取り残された当時、日本の大きな歴史的変革の 中に小武士団たちが翻ろうされた感があります。
 
 その第一は、北方ロシアの脅威に対し、北方領土の確保と警備が新政府にとって緊急な 課題であったことにあります。
 
 安政元年(一八五四年)の日露和親条約では、クナシリ・エトロフ島は日本領、ウルップ 島以東はロシア領とし、樺太島は日本・ロシアの雑居地でした。しかし樺太島では絶えず 紛争がおこり、日本人抑留事件や殺傷事件などと両国の軍事的力関係で日本勢力は 次第に後退していました。
 
 このような北方領土の緊迫からその基点となる北海道の開拓は、まことに急務で重要な 問題でしたが、箱館五稜郭の戦いでやっと国内統一をした明治政府は、財政難、支配権が いずれも確立されておらず、強力な政治を実行できない状態でした。
 
 その中で政府は明治二年七月、開拓使を設置し分領支配によって北海道の開拓を押し 進めようとしたのです。
 
 開拓は、鹿児島・名古屋・熊本・水戸・秋田・米沢・斗南など二十四藩、 一橋・田安家など二華族、増上寺・仏光寺など二寺院、そして片倉邦憲・伊達邦成・ 石川邦光・伊達邦直・稲田邦直ら八士族により始まり、結果的に最後まで維持したものは、 十三藩、二華族、二寺院、六士族にすぎませんでした。
 
 
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 明治政府の中心的な鹿児島藩は一カ月で返上願いを出し、オホーツクに面し ロシアと対峙する主要地域にあった名古屋、広島、金沢藩なども約十カ月で開拓を放棄しています。
 
 一方、仙台藩家臣として朝敵となり支配地没収で新天地に領国を求めて渡道した白石の 片倉家主従には、武門の誇りと新領土建設の夢をもって移住を志した高邁な 理想があり、他藩とは異なる決意があったのです。
 
 しかし。開墾は費用のすべてが自己負担という条件下で行われ、「片倉小十郎儀、 北海道開墾ノ為メ疲弊ヲ凌ギ尽力候ニ付キ廃毀仰付ケラレ候白石城材木共外下賜候条、 勝手ニ始末イタシ開墾入費ニ充候様相達ス可キ事」として白石城材木その他がその お金にあてられています。
 
 その後の片倉家主従の開拓は苦斗を極めましたが、明治四年、第三回移住を予定された 旧家臣六百余が旗本奉行・家老職である佐藤孝郷の采配で開拓使貫属を命じられ、 開拓使所属として現在の札幌白石町、手稲町に入植したことは幌別組移住者にとり 大きな衝撃でした。
 
 
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 明治十年、片倉景範が札幌郡に転居し、三十余戸が旧主を慕って上白石に転居したことも残留組に とって悲痛を極めました。
 
 明治二十年、子息景光を主君として迎え結束を固めますが、華族会の公布により同じ仙台支藩の 伊達邦成・邦直が爵位を授けられながら片倉家に沙汰がなく授爵運動に奔走したことも 白石城主一万八千石の面目にかけてのことでしょう。
 
 明治四十年、幌別郡移住開拓の中心、片倉景光も故郷白石に転去します。
 
 片倉家主従の移住開拓-片倉家の再興を夢に、また賊軍汚名をそそぐために、ただひたすら 武士の意地を通した北海道跋渉組は結果的に時代の変革に翻ろうされましたが、その基礎の上に 今の登別があると思うとき、片倉一族とその家臣ら一同の先人に深く頭の下がる思いがします。
 

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