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郷土史探訪(15)   宮武 紳一

幸町・新栄町の伝説を訪ねて

 明治二十五年、幸町と新栄町の境にある国鉄室蘭本線が北海道炭鉱鉄道として開通された時、 新栄町の未開拓地や山麓に多く繁っていたクリ・カシワ・ナラなどの大木が鉄道の 枕木材として伐り出されました。
 
 これらの木は登別地方に多く、特にクリの木は中登別町へ行く途中に、クリの木の群生している所 という意味の「カシヤムニウシ」という地名があったほどで、ナラの木も胸高直径一メートル余りの 大木が多く繁っていました。カシワは、開拓時代に「オニ皮」と言われるほど荒い木肌で、 当時、カシワの葉は、食品を包んだり、皿の代わりに使ったり、樹に実るドングリは大切な 食料でもありました。
 
 幸町五丁目から見た新栄町の丘陵地に、崖・谷の意味を含むシパペシコツという沢があります。 ここは、現在常盤に住む山木ミツノさん(九十二歳)の父にあたる山木重太郎氏の開拓の跡で、 この旧宅の南側の低地帯に、昔、シパペシコツの沢から流れる川水が溜まった大きな沼があり、白鳥・ カモ・アオサギなどが群来したことを新栄町十九番地に住む明治四十年生まれの 足利ハルエさんが話してくださいました。
 
 また、新栄町・幸町と富浦町との境界の山麓は広い沢で、モユクンナイ、別称「今野の沢」 と呼ばれる所があります。沢の丘の上に赤い屋根の畜舎が見える所です。
 
 モユクンナイとは、エゾタヌキの入る沢という意味で、モユクとは小さな弱い獣の意味であることから この地方にエゾタヌキが多く居たようです。登別地方では、エゾタヌキのことを方言で 「ムジナ」と呼んでいますが、江戸時代から捕獲され皮にして売られていたようです。
 
 
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 安政四年(一八五七年)、箱館奉行の村恒範正らに従って蝦夷地を査察した玉虫左太夫の 「入北記」の中に、熊皮四八〇文、カワウソ皮三〇〇文、狐皮二〇〇文、貉皮二〇〇文という値で 幌別場所請負人が買い上げていますが、貉とはムジナのことで、とにかく昔の記録にあるほど ですから多く居たのでしょう。
 
 このモユウシナイに向かって左側に、モヤウシナイ、草を刈りつけている沢という意味の場所があります。
 
 モヤウシナイの地名は、江戸期安政二年(一八五五年)、長沢盛至の「東蝦夷地海岸図台帳」 に記載されていますが、モヤウシナイには洞穴・そこにある小川という意味のポルンナイがあります。
 
 岩壁が高く、大きく、奥に広がってそそり立つ崖で、国道からも注意をすると見えますが、この崖の 下からきれいな水が湧き出て小川になって流れています。このポルンナイについて 足利ハルエさんは、大雨が降り至る所に泥水が流れ水が濁っていても、ここの湧き水だけは きれいなのでよく水汲みに来た所ですと話してくださいました。
 
 このポルンナイは、洞穴のようになっていて、洞穴の前に約四メートルほどの大きな岩があり、これに 触ると馬鹿になるという伝説があって恐れられていました。ある時、和人の女が「こんな岩が 何だ」と言って冷やかし、馬鹿にして触ったところ、キツネつきになり狂ってしまったという話です。
 
 新栄町や幸町に出没したエゾタヌキに由来する「モユクンナイ」の地名や「馬鹿になる岩」 の伝説などが残っていることも新しい町、新栄町・幸町にとっては興味深いことです。
 
 
 
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ランボッケ、昔の富浦町を訪ねて

 陸地に湾入した豊かな所、という意味の「富浦」という地名が誕生したのは、 昭和九年の字地名改正の時からで今日まで約五十年、半世紀の時を経過しています。
 
 当時、人口の多かった幌別も、前浜は砂浜で海深も急に深く、海が少し荒れると海岸の波が 高くなり出漁出来ないのに比べて、冨浦岬は特に「やませ」と呼ばれる当地特有の風を防ぎ、岩礁も 多いことから登別市で最も古い漁業基地として栄えました。
 
 「岬が突きでて陸地に湾入した漁業の豊かな町」として名づけられた富浦町の現在は、 漁船の多くが登別漁港に停泊しているので、船数も少なく町も変容しつつあります。
 
 現在でも住民の多くの人達は漁業を中心とした生活をし、水産加工業や養殖事業を手がけ、 また登別漁業協同組合もあり、冨浦の名が示す水産の町としての内容を今日でも保持しています。

 行政地名や区画からみた富浦町の歴史をふりかえると、現在の冨浦町は昭和四十九年に 区画が変更され、海岸に面した平野地から山麓の部分を東側から西側にかけて 一丁目から五丁目に、そして山間部が富浦町に区画されています。
 
 
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 約五十年前に改正された冨浦の字地名では、サトヲカシベツ、サツナイ、モセウシナイ、 ハシナウス、ランボッケ、などの旧字名がありました。
 
 サトヲカシベツ、モセウシナイ、ランボッケなどの地名が大体現在の幸町、新栄町ですから 当時の富浦町は広大な地域でした。ただ不思議なことには、行政区画内に富浦町の地番を捜しても みられないことで、このことは、富浦町の前身をよく物語っているように思えます。
 
 冨浦の地名を「ランボッケ」、「ランポッケ」と呼ぶ人は、最近登別でも少なくなりました。
 
 冨浦の地名の歴史は、現在まで約半世紀ほどで、昭和九年まではランボッケ「蘭法華」 と呼び、約七十年の時を経過しています。
 
 正確には冨浦の前身、ランボッケの呼称は、登別地方を通った箱館奉行の役人や幕吏、そして多くの 蝦夷探検家の書き残した資料から江戸時代にさかのぼります。
 
 また、クッタラ火山噴出物に関連するランポーゲ層という厚い火山灰層が地質学的に 命名されていることから、その呼称はなかなか消えそうもありません。
 
 
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 ランボッケの地名がいつから呼称されたのかは正確にはわかりませんが、語源が山田・知里 先生紹介のアイヌ語地名「ラン・ポッケ」坂の・下の所、「ラン・ポク」坂の・下と解しておられ、 富浦町一丁目の通称七曲り坂を降りた地点から川の周囲にかけて、昔、コクンがあったので場所的には これらの地域であることはわかります。
 
 古い冨浦を理解するために江戸時代の資料を紹介し、みなさんと一緒に考えてみましょう。
 
 安政三年(一八五六年)幕府から蝦夷地調査を命じられた市川十郎の野作(えぞ)東部日記には、 「覧発気、山中平地多く下りなだらか也、楢(なら)の木ことに多し、楢坂とも云うへき所なり、 ランは下ること、ホッケは上ること、海岸出崎の山にてのぼりくだりする所」と説明され、また、 文中の幌別の項には、「運上屋(幌別町二丁目付近)より一里二町二十間にて良武保介なり、 今の一里榜のある所は本名、茂勢牛内にて、良武保介の旧地は海岸にありて・・・」と紹介されています。
 
 ランボッケの地名が漢字で、覧発気、良武保介と書かれ、冨浦町内にモセウシナイの地名が表われたり、 ランボッケの場所的な差が表われるなど、一つの資料をみても昔の冨浦の興味はつきません。
 
 
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開拓初期の富浦町を訪ねて

 富浦町・江戸時代からの地名ランポッケの町は、海へ突き出た東側の岬から北西部にかけて 屏風のようにそそり立つ段丘に取り囲まれた中にあるので、北西の風当りも少なく、暖い静かな町です。
 
 岬の高い丘はリフルカと呼ばれる広々とした美しい台地で、遠く駒ヶ岳や恵山の連峰、室蘭の イタンキ、トッカリショの岬が見えます。また、海に突き出た鷲別岬、トンケシ・ホロベツの弓形を 描いた海岸線・カムイヌプリを頂点とした海岸段丘など、松浦武四郎は「静岡県の薩た峠からみた 有名な三保の松原・清見潟、そして富峰(富士山)を見るが如し」と激賞しています。
 
 江戸時代の富浦町・ランボッケは、前号紹介の野作(えぞ)東部日記のほかに、松浦武四郎の東蝦夷地 海岸図台帳、玉虫左太夫の入北記などの記録があります。当時は、ロシアの南下策を中心とした諸外国の 対応がムロラン南部陣屋・白老仙台陣屋の構築となり、富浦町が交通の要路であったことから記録も多いものと思われます。
 
 蝦夷が北海道となり、富浦町周辺の集団的な開拓が行われるのは、片倉家旧臣・遠藤震三郎ら四戸 十一人が入植したのに始まるといわれていますが、明治五・六年頃作成の蘭法華・登別屋敷図をみると、 蘭法華戸数七戸、斉藤吉蔵を第一番屋敷として北原三郎・小野寺万吉・佐川寿治ら七番屋敷までの名前も見られます。
 
 遠藤震三郎は、戸長役場時代の明治七・八年に幌別郡副総代、明治八年から十一年までは幌別郡総代を務め、 また遠藤源七郎は副総代として遠藤家が登別の開拓に費した功は大きく、札幌や他の地に転居した大勢の 人々の中で数少ない片倉家旧臣として今日もご子孫のかたがたが残られています。
 
 
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 移住者の変動の中で、昭和十六年から二十年にかけて四国讃岐国(香川県)から、 山下茂市、近井悦次ら十数戸の同郷人が移住し、明治十七年には、冨浦の漁業が豊かで あったことから松浦寿太郎は井上寅吉、吉原新七など同郷の人を呼びました。冨浦の 本格的な開拓は、この期を中心に行われます。
 
 現在、富浦町一丁目に住む松浦治太郎氏は、明治三十五年、冨浦で生まれで八十二歳、 昭和八年から十六年まで二期村議を務め、先代寿太郎氏の跡を継がれて今日もなお お元気で過ごされています。昔の生活のお話をしていただきました。
 
 「冨浦の浜は、北海道炭鉱鉄道(現室蘭本線)が出来る前は、砂原が広く、海岸の利用にも 便利であったし、とにかく魚の豊富な所で磯の物はもちろん、タカノハ、マガレ、オヒョウ、 イカ、イワシ、サバなどは、いつも大漁でカツオやカジキマグロもよく獲れた。秋イカ の時期に提灯をもって浜へ行くと燈火に惑わされたイカが岸辺にあがるのでつかまえると、 キュッ、キュッとなき腹をふくらませる。荒海の後にはホッキ貝があがるし、冬の毛ガニ も同様で、いわしの群まで岸にあがる。
 とにかく大漁でたくさん獲れた魚も、今日のような運送が出来ないので売りようがない。 筵(むしろ)で干し、魚粕にするのが最も良く、値段も良好だ。
 人手が足りないので、岩内方面のニシン漁が終ると六月頃から岩内の出稼人が 冨浦にやってくる。丁度、鱒漁の始まる頃で、出稼人が来ると浜は一層賑わい、 吉原、香川、松川さんなどの料理屋も繁盛し、芝居も行われた。」
 
 昔の情景に想いを馳せると治太郎翁の話は尽きることを知りません。
 
 
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白石城主片倉家主従の登別市開拓

 刈田神社の境内に、白石城主片倉邦憲とその家臣らの名を彫り込んだ開拓記念碑があります。
 
 記念碑には、明治二年九月十三日、太政官布告で胆振国幌別郡の分領支配を命ぜられ、 旧臣らとともに蝦夷が島に移住し未踏の地で寒さ・飢え・熊・狼の跳哮する中、開墾をすすめ 今日の登別の基礎を固めた業績が記されています。
 
 時は幕末の動乱、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗れ江戸城も明け渡しますが、朝敵となり 最後まで抵抗する会津藩の討伐について仙台藩六十二万石をはじめ三十一藩が奥羽越列藩同盟を成立 させ、白石城を本部として諸藩の重臣が集まりました。
 
 しかし、この白石同盟も瓦解分裂のきざしの中で奥羽鎮撫総督下参謀の世良修蔵が暗殺され 結局は瓦解し、仙台藩は賊軍となり、仙台藩の家臣である白石城主片倉家も同じ運命をたどったのです。
 
 白石領内に幕末の動乱状況を白石刈田年表でみるとー明治元年(慶応四年)四月、仙台藩主 白石城に入城、奥羽列藩同盟は成立するが世良修蔵暗殺賊軍となる。九月、仙台藩降伏し会津城 落城、東北地方平定、九月、岡山藩兵白石城入城。明治二年四月、白石城は南部藩に引き渡され 南部藩士が旧片倉家中屋敷に入る。八月、南部藩主白石城入城。九月、白石に農民一揆おこるー。
 
 
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 このように、白石領内の実情は賊軍としての取り扱いにより混乱を呈し、ここに片倉家の 蝦夷地移住の動機とその背景があります。
 
 その第一は、領地没収、宅地返上という問題であり、また明治政府側からみると、賊軍 仙台藩の家来が白石の片倉家であり、亘理の伊達・角田の石川・船岡の柴田家など直属の家来 である主君だけが仙台藩士の士族で、片倉家家臣などという陪臣の地位にある者は「刀を 捨てて百姓になれ」と命ぜられた事でした。
 
 白石領主の片倉家は仙台藩に引きとられますが、約千四百戸・七千五百余の家臣、家族は 生活上の直接的問題に遭遇し、刀を捨てて百姓になれということも「三百年の由緒正しい武門は 捨てられない。帯刀だけはお許し願いたい」と代表が嘆願しています。
 
 仙台藩には大名格一万石以上の家臣が八家あり、世にいう仙台支藩の士族移住の背景には、 封建制度下における多くの家臣を抱えた主従関係の問題や士族への強い執念があったのでしょう。
 
 それにしても、北海道移住・開拓ということの決定は、三百年余に及ぶ父祖伝来の地を捨てて 見知らぬ蝦夷が島へ成否も分らず行くという重大事でしたので、初代景綱以来代々の霊を祭る 常英山傑山寺に主従千余名が集り大討議を行っています。
 
 
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 議論は百出し、収拾がつかず、期間は十日間にも及んでいます。
 
 蝦夷地移住賛成派は、「片倉家三百年の名門保持のため新領国を再興 しよう。賊軍の汚名返上のため北門の砦となり、政府に忠勤を示し、また 士族の名を領地支配の中に求めよう。」との考えでした。
 
 移住反対派は「殿様は伊達家家臣として保護されるので心配はない。父祖伝来 の地・墳墓の地を守るためには、たとえ百姓になってもしかたがない。先祖伝来 の地で生きよう。」という考えでした。
 
 北海道移住派は「跋渉組」、郷里にとどまる者は「帰農組」と呼び、 結論として帰農組は郷里で働き財源をつくり移住を援助します。
 
 遠く戦場にでる者も、国内で生産に励むも、その差はなく武士の忠誠に変わり はないという考えからでした。
 
 
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白石城主片倉家主従登別市開拓

 「旧臣の一大決心は実に旧臣の名家たるを維持せんとするにあり、また、維新の 醜辱をそそいで祖先の名誉に花冠をそえるためにあり」と、常英山傑山寺の大集会は 議論の末、北海道移住を決定したのですが、このような精神的支柱こそ北地跋渉派が 帰農派に対して絶対的優位を占めたゆえんです。
 
 片倉家北海道開拓の嘆願書は、明治二年八月白石按檫府に差し出され、「胆振国 幌別郡・右一部その方支配を仰付候事」として同年九月太政官布告により命じられています。
 
 「旅の宿、雪降る里に年も日も、いつか明けぬる春に逢うべき」
 
 明治二年十一月十三日、白石を出発し片倉景範らと同行した本沢直養は旅の途路、 この歌を詠み、四十六日後の十二月二十八日、宿願の支配地である幌別郡に入りました。
 
 到着した片倉景範は、支配人・金兵衛以下十六名の在住者を前に支配地の引き継ぎ 趣意書を読みあげ支配地受領を完了し、フシコベツと白老との境に「是より西幌別領。是より 西片倉小十郎支配所」などの記入をした高さに二メートル余の三面の境杭たて境界を明確にしています。
 
 
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 また、「幌別郡の地たるや・・・幌別川その中央を流れ蝦夷人家屋を点在し、 他の家屋に至りては通行屋と称する木造柾ぶきの一家屋と東海林栄蔵なる者営む 掘立小屋一棟あるのみ・・・」という状況の中で一行八名が仮寓し、栄蔵の掘立 小屋を草囲いして二室に分け、仮開拓所と集会所を設けて移住の下備えをしたことも、 日野愛憙の「片倉家北海道移住顛末」の中に記されています。
 
 第一回の移住は、明治三年六月二十五日、寒風沢を風帆船鳳凰丸で出航し六月 二十九日に十九戸、第二回移住は、翌四年三月石浜港から汽船猶竜丸に乗船し 室蘭港に上陸、四月二十一日に二十八戸が幌別に到着しています。
 
 ところが後続予定の白石残留の旧家臣六百名は、開拓使貫属になることを命じられ、 現在の札幌白石町などを開拓することになり、集団移住はその後、絶えてしまいますが、 明治三年第一回から明治五年秋までの移住者八十五戸二百二十七名の多くが登別開拓の 礎石となっています。
 
 彼らの住居は、約七十五坪ほどの草ぶき長屋の共同住居で、これを「お長屋」と呼び、 家族間のしきりはすだれ一枚、隣り同士の生活は素通しで悲喜劇も多かったといわれます。
 
 
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 日常の生活にしても穀物を失ったその間は、鹿狩りに出かけ肉だけ食していたようで、 土地の開墾もすべて集団的行動が基本の「農業規約」を作成し、生産物の収納、 労務条件など厳しい規定を内容としていました。
 
 困苦を乗り越え、未開の地を永久の地と信じ骨を埋めようとする決意は、明治四年字浜の裏 (中央町二丁目千光寺附近)を墓地に選定し、また旧領の中心・刈田郡の刈田峯神社の祭神を 江戸期から会所横にあった妙見稲荷社に分霊合祭し刈田神社(幌別町一丁目)と 命名したことに見られます。
 
 「胆振に六領をおく幌別の名あり。」といわれたのが天正十七年(一五八九年)、それから 約三百九十年余、長い歴史的変遷の中で登別市は約六万人を有する中堅都市の発展をみています。
 
 その本格的な開拓が白石城主片倉家および家中の者の確固たる信念と希望、誇りのもとに行われた その偉功は、今日でも輝いてそのあとを慕うかたも多いようです。
 

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