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郷土史探訪(5)   宮武 紳一

古代ののぼりべつを訪ねて

 北海道に人が住みはじめたのは氷河期最後のウルムの終り頃で、今から二、三万年前といわれています。
 その当時、北海道はもちろん登別地方の気候は、現在よりも平均の温度が六度から 九度も低いのでワシ別岳(室蘭岳)、カムイヌプリ(幌別岳)・来馬・オロフレ岳は 雪でおおわれる季節が長く、日高山脈などは氷河でおおわれていました。
 
 現在、北海道と本州を結ぶ青函トンネルの工事が福島町から津軽半島の竜飛岬にかけて かなり進められていますが、大昔のこの頃は氷河などの影響で海面が現在よりも 八十メートルから百四十メートルも低く津軽海峡は陸続きであったといわれています。
 また、登別地方の海岸も今日よりずっと海の沖の方まで陸続きであったと思われます。
 
 しかし氷河時代ですから、カムイヌプリや来馬・オロフレ岳の山麓は、ぶな・ぐい松など 寒い地方で育つ樹や高山植物が多く、ツンドラのような荒野もあったと思われます。
 
 動物では、マンモス象が北の大陸シベリアから、ナウマン象は南の本州方面から 渡来してきましたが、シベリア方面から来た動物はその他、生きている化石として有名な ナキウサギが石狩地帯の奥深くに生存しているほか、エゾシカ、シマリスも 自然の環境に合わせて現存しています。
 
 明治三年登別地方にも開拓のため入植した片倉家の人達が、食糧がなくて困った ときに食べた動物の肉はエゾシカの肉で、その当時登別地方には随分エゾシカが生息していたようです。
 
 
 
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 明治十四年には、大雪のために多くの鹿が食糧を求められず、山から野に下ったが、餓死 したので開墾した畑の中の骨の処分で苦労したという開拓者の話も残っています。
 
 また、明治期には、登別地方にも生存していたオオカミは、明治二十九年に函館の毛皮商人 松下某がオオカミの毛皮数頭を取り扱った記録を最後に、北海道では死滅しています。
 
 そして、一万数千年前から約二万年ほど前に、やはりこれらの動物達を追い求め、 シベリア大陸方面から南下した人類が北海道へもやってきました。
 彼らは十勝の上士幌、千歳市の祝梅や網走管内の白滝村に住みつきました。
 
 中でも白滝村湧別川の段丘や川原には、ヤジリ、槍、ナイフ、オノ、キリなどの 石器をつくる黒曜石(十勝石)がたくさんあることを知り住みついたわけです。
 
 登別市内にも黒曜石の石器や土器の出土するところは二十数カ所ありますが、 残念ながらこのように古い時代のものではありませんし、白滝や上士幌遺跡などには、 土器や金属器などは遺跡から出土しないので無土器文化時代・前縄文化時代・旧石器時代 などといわれています。
 
 
 
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 登別近辺で最も古い遺跡の場所は、白老町の虎杖浜ポンアヨロ遺跡で、約七千年前 のものですが、登別市内では貝塚のある鷲別遺跡は、今から五、四千年前の縄文期のものです。
 
 寒い氷河期も今から約一万年前の沖積世という新しい時代になると、地球も温暖になり、氷河も 解け出し海面も次第に高くなりました。
 
 登別地方もこの時代になると、海の部分がどんどん入りこんで登別のフンベ山や鷲別岬も 島のような状態になったと思われますし、登別、冨浦、幌別、富岸、鷲別町などの低地帯は海の中であったと思われます。
 少し深く土を掘ると海の砂がでてくる所は、登別市内にはたくさんあります。
 
 現在の鷲別機関区の東側にはラクダのコブのような大きな砂丘が昭和十五、六年頃までありましたし、 石おのや土器が出土した事も知られています。
 幌別町七丁目は国道と国鉄の間にありますが、十八番地の佐藤さんの宅地からは 鯨の胸骨と思われる部分が登別高校郷土史研究部によって発掘されました。
 
 調査によって、約三千年ほど前のこのあたりは、海岸であったと推測されますし、 この時代の遺跡は登別に多くありました。
 
 しかし、今後発見されない限り登別地方の古代人の活躍は約五千年ほど前からはじまるようです。
 
 
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古代ののぼりべつを訪ねて「鷲別遺跡」

 登別市内で石器や土器の出土する遺跡は、約二十カ所ありますが貝塚のある遺跡としては、 鷲別遺跡がただ一カ所あります。
 鷲別岬の標高約四十メートル北西側は、ゆるい傾斜面になっていますが、鷲別神社の上の方が 貝塚のある遺跡で、全体の広さは約三・五万平方メートルにおよんでいます。
 
 登別市と室蘭市にまたがるこの遺跡は、室蘭市本輪西のポンナイ遺跡、伊達市の北黄金貝塚とともに、 胆振地方では大規模な遺跡として知られています。
 
 鷲別遺跡を最初に発見したのは、明治二十八年で、高畑宜一氏の記録によりますと、 「鷲別岬の山腹傾斜せる畑中に二十八カ所あり、その前にはなお多くのたて穴がある」と記されていますが、 本格的に調査されたのは、昭和三十五年で今は故人の、溝口稠氏によって行われました。
 
 鷲別遺跡から掘り出された遺物には、まず縄文式の土器があります。
 種類も多く、約五千年前から紀元前六百年の終り頃までの約六千年の間に使われた、円筒上層式や北筒式土器、 入江式土器があり、鷲別神社、真宗寺境内には縄文時代終り頃の亀ヶ岡式土器が多く出土しています。
 
 この土器を使って食物を煮たり、保存をした当時の人達は、食物の採集生活をしていたので 食糧の多くある所を求めて移動していたと思われますが、鷲別遺跡には古代人達が家を造って 住んでいたたて穴住居の跡が発見されています。
 
 
 
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 やや楕円形のもので深さは一・九メートルも土を掘り下げ、長い所で十・七メートルで大型の 二段式の住居の型で中央に円形の炉の跡もあるめずらしいものです。
 
 今は破壊されましたが、室蘭側や鷲別神社の下方には、住居の跡が多くあったようです。
 
 鷲別遺跡の付近では食糧が非常に豊富なので、貝塚からは、ハマグリ、アサリ、カキ、ウニ、 ホタテ、ホッキ、イガイ、コダマ貝などの貝類のほかに、鹿、熊、狐、うさぎ、犬、かわうそや 海獣のアザラシ、イルカなどの骨がたくさん見つかりました。
 
 当時の鷲別地方は、海岸が美園町や若草町の低い所まで入りこんでいて、年代によっては遠浅になり、 また鷲別機関区付近にあった砂丘などにせきとめられて海跡湖のようになり、 また岩場もずっと奥の方まで続いていたことでしょう。
 
 現在ハマグリの生息している場所は、仙台湾が最北の地とされ、温帯性のものですから、当時の 登別市の海岸は暖かったことも推察されます。
 
 かわうそは、現在四国地方にだけ、生息している珍しい動物ですが江戸時代や明治の初期には、 登別地方にもいたようです。
 
 夜行性の動物で海岸や川付近で夜に魚を獲りますが、身体が比較的大きいので、夜かわうそが 魚をとっているのを見たり、水の音を聞いた人間はびっくりしたらしく「かわうそにだまされた」 という話が残っています。
 
 
 
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 これらの動物を獲るために、石器や骨角器が作られました。一般にいう矢じりや石槍、獲物の皮をはぐ のに使われた石匙(スクレイパー)などの石器のほかは、漁労用の釣り針、やす、モリが あり、多くの骨角器も発見されています。
 
 また、人間がはじめて自然のものに科学的変化を与えて作った土器も発見されています。
 人骨(縄文時代人)の発見も学問的に高く評価されています。
 
 北大の医学部で調査した結果、約五~四千年前の成年男子で身長は、一六三センチで二個の石を抱え、 あおむけに、脚を折りまげた状態で埋められていました。
 頭の方向は南西向きです。
 
 現代は、寝たような状態の伸展葬にしますが、大昔の人達は生まれた赤ん坊 のように脚を折りまげた屈葬の方法をよく用いました。
 
 墓の穴を掘る労力が節約され、疲れた時の休んだ姿勢であることや、死者が再び 生れてくるようにと、赤ん坊の姿勢をまねたようです。
 
 特に二個の石を抱えさせて埋葬し、十九個の大小の積石をしているのは、死んだ人の 霊が生きかえらぬようにと、死に対する畏怖の念から包石葬にしたのです。
 
 また、貝で作った平玉が首の所にありましたが、これはネックレスです。
 鷲別遺跡の約五千年前の古代人も、現代人に共通する点があるようで面白いですね。
 
 
 
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古代ののぼりべつを訪ねて「遺跡からみたのぼりべつ」

 鷲別遺跡から発掘された円筒上層式土器は、今から約五千~四千年ほど前の古い土器ですが、 富岸三丁目の亀田公園内と常磐町三丁目の山木さん所有の畑からも同じものが発見されています。
 
 亀田公園内には、石やりと粗悪な土器片が見つかり、鷲別遺跡の土器より古い土器かと思われます。
 山木さん宅付近は、家屋も多く建ち、道路もアスファルトで固められたので発掘はむずかしくなりました。
 
 時代が少し下ってくると、次の新しい文化を代表する遺跡が桜木町二丁目原市太郎氏所有の畑から、縄文時代 晩期(約三千年から二千年前)と続縄文時代(約二千年から千四百年前)の土器として発見されています。
 
 続縄文時代の文化は、北海道独特のもので、本州では弥生文化といわれる時代で、鉄器や青銅器が 朝鮮半島をへて日本に伝わってきました。
 
 米づくりなどの農耕栽培も九州近畿地方で行われ、古代の日本が統一に向かった時代ですから、急速に 東北地方までつたわり、鉄器の文化は北海道に影響し、漁、狩猟がいちじるしく発達、収穫物も増加しました。
 
 このような当時の北海道の文化は、恵山式土器や後北式土器に代表され、登別市内では,鷲別・富岸の山ろくや 青葉町・千歳町・登別本町二丁目ばど、高台や平地帯など多くの場所から恵山式土器が発見されています。
 桜木町の原さん所有の畑から発見された土器などは、この時代の代表的なものです。
 
 
 
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 また珍しいものとして、土で人の形を作って焼いた「土偶」も桜木町二丁目にある 二階建てアパート付近の土中から発見されました。
 
 残念ながら、土偶は首の部分だけなので全体の形体はわかりませんが、郷土史 探訪五十ページに掲載した土人形の顔の部分です。
 顔の端に穴がついているのは、樹の繊維などで作ったひもで穴を通し、ぶら下げて祭ったものと思われます。
 
 桜木町出土の土偶は、顔のつくりも大体良いのですが、土偶には現実とかけはなれた怪奇な ものが非常に多く、形も人間だけでなく動物を模倣したものもあります。
 
 桜木町付近で幌別川を利用して生活していた古代の人々は、どのような考えでこの 土偶を作ったのでしょうか。その理由は色々あると思いますが、とにかく首から上の部分だけで、 身体の部分がないので男か女か分りません。
 
 土偶は、乳房や腰のまわりが大きく女と思われるのが一般的に多いので、やはり同様に 女形として作られとものとしたら、女が子供を生むという事は、古代人には不思議で神秘的 なものであり、また仲間が生まれ増えるということは狩猟などの獲物の増産や生産にも 結びつきますので、女形の土偶を作ってまつったのでしょう。
 
 
 
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 また女と思われない怪奇な形のものがあります。
 そして、このような土偶は、例えば腕の部分や足が欠けているというように、 土偶の身体の一部がこわされ、欠損しているのです。
 
 この土偶は、当時の人達が病気になったり、怪我をした場合に身体の悪い部分 を意識して土偶を代用に悪い部分を欠損させて病傷の苦しみからのがれようとしたのではないかと思われます。
 
 桜木町出土の土偶は、首だけですから、病傷のために作られたものであるとしたら大変ですね。
 
 土偶の首一つから当時、大木の茂る桜木町の幌別川に近い所で住居をつくり、 恵山式土器という薄手の固い素晴らしいつぼを使用し、石鏃というヤジリ を矢の先につけて鹿などの動物を追い、幌別川をのぼる魚の群をとらえ、自然生活 の吉凶は土偶に祈る恵山式文化の人達がいて、生活していたことが眼に見えるようです。
 
 
 
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オピラカシのチャシを訪ねて

 登別高校の北側、片倉町二丁目の高台は、西北方向に幌別ダムの湖面が広がり、南方向には 幌別地区の町並が一望に見える景色がよい所です。
 
 ここは、通称オピラカシ(川尻の崖の上)と言われる高台が北に続いて、ヌイナクル(隠れる道) に通じ、北側を上がりきった地点で、とりでのように突き出ていてここにチャシ(囲い・とりで)があります。
 このチャシの歴史的呼び方がないので、一応オピラカシのチャシと呼んでいます。
 
 この辺は、昔、幌別川の水面がすっかり変わるほど、大量ににのぼった鮭の密漁の場所でもあり、 取り締まり支配人の眼をかすめて獲った鮭をかついでヌイナクルからオピラカシ伝いに逃げた、という 話が残っている所です。
 とりでは、普通、本城を離れた要所に築いた小規模な城を意味しています。
 
 外敵との争いから部族を守るためというのが主体的なものでしょうが、熊や狼などの野獣の害から身を守る 役割があったり戦闘用だけでなく、チャランケ(談判)チャシと言われる、話し合いの場や 祭り場として使われたものがあります。
 
 
 
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 道内の東北方面には後北式文化人、登別を含む道南地方に恵山式土器文化人が住んでいました。
 しかし、オホーツク文化人といわれる人達が北方から北海道に浸入してきて、それまで 北海道に生活圏をもっていた人達との間に摩擦が生じ、争いも起きるようになりました。
 
 ユーカラでは、北方からの侵入者オホーツク文化人達をレプンクルといい、登別地方を含めて 道南地方の恵山式土器文化人達をヤウンクルと呼んで、北方からの侵略者と戦いました。
 
 もちろん、登別地方のヤウンクルも団結し、民族の意識を高めてやがてアイヌ民族 の結束により侵入者を追い払うことになります。
 
 オホーツク文化人達の浸入・レプンクルとヤウンクルとの闘争の歴史は考古学的に、 生活文化的にも多くの問題を提起していますし、文学的にも幻想的で面白いと思います。
 
 
 
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 しかし、鎌倉時代以後急速に道南地方に勢力を伸ばしてきた和人の横暴は、 長禄元年(一四五七年)アイヌ少年を刺殺した事件を口火に、コシャマインの乱 となり、その後、シヨヤ・コウシの乱、タナサカシの変など百年にわたり、アイヌ 対和人の断続的な衝突となってあらわれます。
 
 そして江戸時代の寛文九年(一六六九年)の「シャクシャインの乱」は、蝦夷地 全体をゆるがし東蝦夷地では、釧路のシラヌカから帯広、日高、そして胆振の ホロベツまでのアイヌが立ちあがりました。
 
 アイヌ語研究で、特に登別に関係深い、山田秀三先生もシャクシャインの乱とノボリベツに 深い興味を持たれています。
 
 登別にとりでが築かれるならばそしてオピラカシのチャシについて考えを深めて いくならば、今から三百年以前のシャクシャインの乱とノボリベツとの関係が一層高まってきます。
 
 
 
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オピラカシのチャシを訪ねて

 登別高校北側の高台にある、オピラカシのチャシ(川尻の崖の上の囲い・とりで)がいつ、どのような 目的で、どのようにしてつくられたのか、またどんな意味を持っているのかは、資料がないので残念ながらわかりません。
 しかし、登別の近くには虎杖浜のポンアヨロと、室蘭の絵鞆町にエンルムチャシがあります。
 
 エンルムチャシは年代的にみるとアイヌ文化期(紀元前八百年から百年)のものと思われ、主要な部分も 発掘されたので、いちおうの状況がわかります。
 
 特色は、明らかに外敵の襲来を防ぐためにつくられたと思われる幅五~九メートル深さ二メートルの溝が掘られ、 また斜めに、南向きにある横穴の跡は二十五~十五センチメートルほどの丸太状の跡で、 丸太の先をとがらせて、いっせいに並べ、戦闘の場合に敵が攻め寄せても充分に守ることができる 実戦のための備えにしています。
 
 戦いというと、和人の侵入に対する戦いか、アイヌ人同士の戦いという事になるのでしょうが、 オピラカシのチャシは「溝」だけでくいの跡はないようです。
 
 しかし、当時のホロベツ地方の居住地は、ワシペツ、ヌプリペツにしても、それぞれの川の流域で 海岸に近いところに住んでいたようで、ホロペツも海岸に近いホロペツ川やライパ川の周辺が中心です。
 
 
 
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 深い森林に囲まれ、距離のある要害の地(地勢がけわしく、まもるのによい所)に、 溝を掘るだけでも相当な労働力が必要で、人を集めるための理由と命令をする権力者が いなければできません。
 
 オピラカシのチャシをつくる理由の第一として、このような立場からも、当時の大事変であった、「 シャクシャインの乱」をどうしても思いおこさずにはいられません。
 
 「シャクシャインの乱」とは、最初はアイヌ同士の争いであったものが、和人の不正交易や横暴 な搾取的行為に対する反動として、蝦夷地全体に起こった乱のことをいいます。
 
 時代は、江戸末期になりますが、箱館奉行が東蝦夷地を巡察し、ホロペツ会所に 立ち寄った時に、奉行役人を案内した蝦夷人に、八升入り俵の米を与え、その俵を後で見ると 俵が小さく六升しか入っていない、奉行役人は怒って、ますを持って計ったところが、 一升ますが規程よりっずっと小さく、出稼ぎ和人の番人が、これで計ってごまかしていたといいます。
 
 自分が相手に物を与えるときは小さなますを使い、相手から物を計ってとるときは大きいますでとる、というわるさです。
 数をかぞえるときは、例えば、十の数に、はじめ・中・終わりの言葉を入れて 十三にして相手から多く取る、という手段です。
 
 
 
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 箱館奉行役人に随行した玉虫左太夫は、ホロペツでのこの状況を著書「入北記」に 「そのわるがしこさ、実に悪むべきことなり」と憤慨しています。
 
 このような事は、津軽藩から蝦夷に隠密に入り調査した「津軽一統志」などにも 書かれ、松前藩の秘密主義が露呈されています。
 
 シャクシャインが立ち上がったのは、寛文九年(一六六九年)六月、そしてエトモ (室蘭)に攻めのぼったのは七月二十五日、恐らく登別の地域を通過したのは七月 二十三・二十四日頃でしょう。
 
 このような状況から、オピラカシのチャシがつくられたとしたならば、シャクシャインと 共に立ち上がったホロペツアイヌが、六月頃に作ったのかも知れません。
 
 しかし、十日後の八月四、五日には、オシャマンベ・シツカリの戦いで 敗走し、以後、日高に向かって退却しています。
 
 進軍の勇壮さにくらべ、敗戦で疲れおとろえたシャクシャインらが、幌別を通貨した ときは、どのようであったのでしょうか。
 
 また、ホロペツから出兵した人達はどうなったのでしょうか、シャクシャインの乱後に、 オピラカシのチャシが築かれという推測は全く思いつきません。
 

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