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郷土史探訪(6)   宮武 紳一

登別の山々を訪ねて「カムイヌプリと鷲別岳」

 登別の人々にとって縁の深いアイヌ語研究家として著名な、山田秀三先生が「登別・室蘭のアイヌ語地名を尋ねて」 という著書を、今年五月に発行され、その中に、幌別周辺の山々として、約十の山をアイヌ語地名で紹介しています。
 
 カムイヌプリ(神の山)、アソイワ(幌別川本流の水源と考えられた山)、ライパヌプリ(来馬岳)、ポロヌプリ(大きい山・四方嶺)、 サマツキヌプリ(加車山)など、すでに忘れられた山も多いのですが、山田先生の紹介でよみがえりそうです。
 
 登別市内のそれぞれの地域で、私達を育て、多くの歴史とロマンをもつ郷土の山々を、私達はこの機会に よく知って、後の人々に伝えたいものです。
 
 カルルス温泉の人々には、千二百三十一メートルのオロフレ岳(その中赤い・山)、八百九十メートルの加車山 (サマツキヌプリといい、横になっている山の意味)は、雨の日に傘を広げた形に似ている所からきていると 言われていますが、忘れえぬ山でしょう。
 
 新登別温泉から見た、眼前の来馬岳と西南に遠くカムイヌプリ、鷲別岳、伊達の天狗山。
 登別温泉からは、四方嶺や日和山。
 台地状の山に囲まれた登別は、フンベ山、窟太郎山、四方嶺。
 富岸と鷲別地区では、鷲別岳とカムイヌプリ、冨浦と鷲別岬の山が見られます。
 
 
 
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 そして、幌別地区や海岸からはこれらほとんどの山々が見えて、朝、夕に素晴らしい景観を つくってその姿を見せてくれます。
 
 ところが郷土の山や川の由来を正しく理解していないために、誤って呼ばれ、本当の名も消えてしまう例が多くあります。
 たとえば、カルルスの加車山は傘山が正しいと、郷土史研究会の日野先生が話しています。
 
 特に、誤りの中で多いのは、幌別地区から見た、カムイヌプリを鷲別岳と呼ぶことです。第二に鷲別岳を ムロラン岳と呼んでいる誤りです。
 
 室蘭の人達は室蘭の北西にある山々をムロラン岳と呼んで鷲別岳とは呼びません。
 輪西や東室蘭などからこの山を見ると、ラクダのコブのように二つ並んで、異った山に見える鷲別岳や カムイヌプリまでも、ムロラン岳と言っています。
 
 
 
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 しかし、一般的な正しい呼び名は、ムロラン岳は誤りで、鷲別岳が正しいのです。
 このことは、建設省国土地理院の許可を得て発行している、小学館や平凡社の大地図などや 登別市全図の他に、室蘭市全図でさえも九百十一メートル、鷲別岳となっています。

 市販の道路地図に室蘭岳(八百五メートル)の名がありましたが、この山は九百十一メートルの 鷲別岳とは別で室蘭と伊達市の境界のチマイ別川上流にある牛舎奥山の南と鷲別岳西方の山で 地域的には伊達市に含まれたものです。
 
 次に、幌別地区から特にはっきり見えるカムイヌプリを鷲別岳と呼んでいる事ですが、このように ムロラン岳が鷲別岳で、カムイヌプリは七百五十メートルの地図の上でも別な山です。
 
 江戸時代も終り近くなると、幕府の役人が絵図面を書いたり、資料も多く書いているので、少しずつ 登別地方の地理の状況が分ってきます。
 
 安政二年(一八五五年)幕府の命令で目賀田守蔭が書いた、南部領ホロベツを画いた図は、 ホロベツ山を大きく、西側に小さくハソイワ山があり、この図のホロベツ山は、当地方の中心から 見たカムイヌプリとして画いたものと思います。
 
 

 また、北海道の名づけ親、蝦夷地の探検家として有名な松浦武四郎の蝦夷日誌で宇須(有珠)の項目の 中に、久保内・壮瞥方面から東南の方向の様子を記録しています。
 
 長流川の源流バンケペツブト・ベンケペツブト(幡渓・弁景か)の源は、幌別山よりくる。
 また、この辺の川の源は幌別・ヌフルベツ山から流れてきている事が書かれています。
 
 この場合のヌフルベツ山とは、オロフレ岳を言い、幌別山というのは、登別市と壮瞥町の境界もある 七百三十六メートルの山で、現在の地図で唯一の幌別岳です。
 ですから当時は、カムイヌプリの幌別山と壮瞥境の幌別山と二つあった訳です。
 
 このように、幌別地区から見る前面の秀麗な山がカムイヌプリ、その西隣にあるのが鷲別岳で、 幌別岳は、壮瞥境にある七百三十六メートルの山であることを、郷土の山として知っておきたいものです。
 
 
 
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登別の川を訪ねて 幌別川とさけ

 「金の音がさらさらと美しく鳴りひびく川」カニサシペツは、聖なる山カムイヌプリ の北方から流れる幌別川の別名で、上流の山奥には、その名のとおり金・銀・銅の埋蔵 された鉱脈が走っています。
 
 また、ヌプリペツ(登別)は「濁った川」でなく「神の霊力のある川」で上流はクスリエサンペツ といい「薬湯が流れでる川」という意味です。
 
 鷲別川もさけやますの大群がのぼった豊かな川で、ソーダー工場の中を流れる岡志別 川には、川を中心として争った伝説もあります。
 
 登別市内を流れる川も、時代とともに大きく変化しましたが、多くの歴史とロマンをもつ、 これら郷土の川を訪ねてみましょう。
 
 カムイヌプリの裏側、西の鷲別岳や伊達天狗山、壮瞥方面の山々に多くの支流を もつ幌別川は、原名ポロペツ(大きい川)の名のとおり、広大な幌別の平野をつくり この地方では、最も雄大な川として江戸時代から親しまれてきました。
 
 川の両岸は、うっそうたる森林におおわれ、水量も豊かで、秋にはさけやますの大群が 川をのぼり川の近くにはコタンがあって、丸木舟で川に行き来し、さけやますなどの魚や 鹿をとって生活していました。
 
 
 
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 下流の水は深いのですが、川瀬の見える上流の川底には、きれいなカムイヌプリの影を 映したこの川は「カニサシペツ」という名でよばれていました。
 
 事実上流には金・銀・銅を生産した旭鉱山、岩か崎鉱、陰之沢鉱山など、硫黄の生産を いれて、日本一の生産を誇った事を考えると、カニサシペツの名もうなずけるわけです。
 
 ところが、カニサシペツといわれていたその昔にーある旅人の男達がやって来ました。
 もちろんこの大きな川を歩いて渡らなければなりません。
 
 浅いところをえらんで進んでいましたが、川の中ほどに行くにしたがい、次第に深く、 ひざから上に水がつかり、ついに男の大事なものをぬらしてしまいました。
 
 その時、男はびっくりして「何て大きい川なんだろう!ポロペツだ!」と大きな声で 仲間に叫びました。
 
 ーそれから以後「カニサシペツ」から「ポロペツ」に呼び名が変ったのだと、伝説で語られています。
 
 
 
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 幌別という地名や川の名は、道内で浦河町、枝幸町、後志などの地方にもありますが、 やはり大きい川を意味しています。
 
 また、「幌別」という字は、江戸時代には統一されていなくて、保侶別、保衣別、 母衣別、縨別などという音読みや、当て字も使われ今の幌別になったのは明治二年八月、 蝦夷地を北海道と改め、十一国八十六郡がおかれた時からです。
 
 昔の幌別川はどのような姿だったのでしょうか。
 川の流れは幌別ダムから川下にかけて大きく蛇行し、その両岸は太古から続くうっそうたる 原始林や深い草におおわれ、大木の林が海岸近くまで続いていました。
 現在の桜木町二丁目、新川町二丁目の一部は、その川を埋めたてた跡です。
 
 「幌別の母なる川」といわれたその顔は、時には怒り、川をはんらんさせましたが、 こえた大地をつくり、開拓村の農業を発達させました。
 
 また九月から一月にかけては、さけの大群が川上をのぼり、古くからコタンの人達の冬の生活には 欠かせない鹿の肉とともに、さけ・ますが大量に食前を満たしてくれました。
 
 江戸時代末期には、次第に人口も増えコタンの人達も約二百五十を数え、幌別川の東部、 中央町三丁目、幌別町一・二丁目を中心に住んでいました。
 
 
 
 
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 そして生活の中心は、農業も行われていましたが、やはり、さけ・ますを中心とした漁業でした。
 これらのさけが明治初期に幌別川をのぼっていた状況を、宮武藤之助の著書「丈草の記」に、次のように書かれています。
 
 「秋ともなれば、幌別川にさけの大群がはんらんし、ほとんど川の底を見ることができないという日もしばしばある。
 はじめは手づかみでとったが、そのうち三本くわを持ち出し突き刺しては陸へ投げあげる。
 川中の足には、さけの頭が、胴体がぶつかり、魚のためにつまずいたり、すべってしまうという具合で、その 群の見事さ、すさまじさは驚くばかりです。
 さけの腹を裂くと見事な筋子がぞろぞろと出るので、当時の人達は「ぞろ子」とよんでいた。
 食事の雑炊の中には「ぞろ子」を真紅になるほどたくさん入れて煮こんで食べる。
 それは、きわめておいしいもので、考えると誠にぜいたくな食べ方であるが、開拓当時の 人達にはおいしい食物とか食べ方についてなまやさしい考えのものでなく、このような食べ方が、ただ 腹をみたすという方法でした。」と書いてあり、開拓の苦闘もうかがえます。
 
 
 
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 このように明治初期の幌別川には、九月から一月頃までさけは随分のぼったようです。
 
 盛漁期には、さけが川にはんらんするという表現を用いているほどの大群や、「ぞろ子」がぞろぞろというのは、 さけの産卵で卵が完熟した状態のものは卵がバラバラになるので、今日の「イクラ」のことをいいますし、卵がそのままで バラバラにならぬものは筋子ですが、とにかく魚も大きく、産卵期のさけのすさまじさを表現しています。
 
 江戸時代には、のぼりべつ、わしべつ、ほろべつを含め幌別場所といいますが、場所の生産物は 鹿の皮、干さけ、にしん、熊の毛皮、熊のきも、かわうその皮などの名前が多く、特に幌別川で とれる漁は、さけ、ます、チライ(イトウ)、うぐいなどですが、やはりさけとますが生産物で一番利益をあげています。
 
 
 
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登別の川を訪ねて 幌別川とさけ

 道内でも胆振の山ぞいはとりわけ、コブシの樹が多い。
 登別でも春さきにはコブシの白い花を一杯に咲かせます。このコブシの花が下を 向いて咲く年は、鮭や鱒が沢山獲れるんです。
 
 また、登別川の河口がフンベ山(鯨山)の近くを流れるとフンベ山の鯨が鮭や鱒を 食べてしまうので不漁になるといわれました。
 
 コタンの人達は、川口か川上まで漁の持ち場をきめて自由に獲り冬の保存食として蓄えました。
 時には足のふみ場もない程に幌別川をさかのぼったという鮭や鱒も、凶漁の事がしばしば ありました。当時の人達には、鮭や鹿の保存量が冬の生活を左右するので、大変に、大切な仕事でした。
 
 知里真志保先生の調査や研究によりますと登別地方の鮭漁をめぐる伝説もいろいろあるようです。
 秋になると川口に集まって酒をささげ、イナウ(木幣)を作って川の神の祭りの儀式を行います。
 
 川の入江の神には、「秋がきました。このコタンのために海から沢山の鮭をのぼらせてお恵みください」。
 川の神々には、「これからカムイチェップがのぼってきますが川を綺麗にし、不潔なものは 川に入れませんから沢山のぼらせてください」。
 
 
 
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 きつねの神々には「海の幸、山の幸を問わずわれわれに多くの獲物を与えてください」 などということです。
 
 また、人々は幌別川、登別川、鷲別川などの鮭がのぼる場所に、頭の毛が禿げたカラスが 現れると必ず豊漁になると考えられていました。これは白老地方のコタンでも 同じようにいわれています。
 
 冒頭で述べたように、コブシの花が下をむいて咲いた年は豊漁といわれますし、夏には 便所に黄色い蜂に似た大きなアブが沢山飛んでいる年も豊漁です。
 
 また、登別川の河口が昔から時々位置を変えてきましたが河口がフンベ山の近くにある時は 不漁、冨浦の岸壁近くにある時は豊漁になるといわれます。
 その他、タブーといわれるものも登別地方に多くありました。
 
 鮭がのぼる季節になると、川岸にあるニワトコ(エゾニワトコのことで北海道・樺太・南千島 などに分布し、小型で日当たりのよい所に多い)やニガキ(枝葉に強い苦味があり、 健胃薬として重要なや薬木となっている)の樹を、両者ともくせのある樹ですので、 すっかり切り払ってしまうわけです。
 
 
 
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 又、婦女子を川から遠ざけたりしました。
 鮭の獲りかたは、マレック(もりで突く)とウライ漁(石や樹の枝で水路を狭くし 落とし箱で獲る)がありました。
 
 また幌別川の明治中期頃の漁場は次のような状況です。昔の幌別川は大きく 幾つも蛇行していました。まず幌別川の川口から来馬川の川口の合流点が仙台引場、 大谷高校東横の中央橋付近は、トウビサンケウク場所、同高校から桜木町二丁目 の原宅の裏側付近は埋立てて川跡もありませんが西側を流れていた上流にかけて カネシリ場所とカンナリ場所、片倉町四丁目、桜木町五丁目の隣接する小平岸橋 から上流にかけて仙台場所で、ヌプリトラシナイ川(山に沿って登る沢)と合流しています。 その上流、片倉町四丁目、六丁目の隣接地付近がシケクル場所で、ポロシユマ (大きい石)といって深い川の淵に大きな石があり東側の崖と深いよどみ、それに 大きな岩石があってなかなか景色のよいところでした。
 
 仙台場所とは、仙台支藩の片倉家の幌別郡移住家臣らの漁場であったところからいわれています。
 
 
 
 
 
 
 
 
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登別の川を訪ねて 来馬川

 登別市の新しくこられた人達にいつも、随分変わった名前ですねと不思議がられたり、この 地方には昔から馬が放牧されていたのですね、と質問のような言葉をなげかけられるのが「来馬」の地名です。
 
 昭和九年の字地名改正までは、幌別郡という行政区画名でよばれていた郡内に約百十四の小字 地名があって随分変わった名称もありました。
 
 例えば、最近まで冨浦をランボッケ、カルルスをペンケセネ、登別漁港の方をフシコペツ、 登別川のやや上流をキムンタイとよんでいました。
 
 幌別川の下流に川口があり、その上流はシライパ(本当のライパ本流をさす)、ポンライパ (子であるライパ)に分岐しながらも、まっすぐにライパ岳に向かっている来馬川も、 登別市内では歴史や意味のある大切な川で、地名の由来も「ライパ」からきています。
 
 ライパの語源は「ライパ」で、古川の川口をさしていう意味であることを知里真志保博士は 考えておられたし、今年十一月三日に北海道文化功労賞を受けられた山田秀三先生もこの意味に賛成しています。
 
 
 
 
 
 
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 一方、アイヌ語研究で知られる永田方正氏の「北海道蝦夷語地名解」には、 ライバを「死者を発見するところ」と意味して、「このライパ川は、今の 幌別小学校前を流れたる頃、人多く川に落ちて死したりという」と記載されています。
 しかし、歴史的にみても、このような悪い意味で名前がついたほどの事実はないようです。
 
 来馬川の支流ですがさけが豊富にのぼる地域でもありましたが、明治二十二年さけ資源 保護のため禁漁河川の指定を道庁から受け、さけますをとることはできません。
 
 また来馬川上流には繁殖場を設けて育成したので、以後十年くらいは幌別川のさけ、ますの 漁獲は最高であったといわれます。
 
 ちなみに北海道に馬がはじめてあらわれたのは、一七八九年の「くなしり騒動」 の時で、幌別に役人の継立用の馬がおかれたのは翌年の一七九〇年で、今から 約百九十年前ですが、来馬の地名は馬がはじめて使用されたという、登別の発祥の 地であるとか、牧場地域であったという意味でもありません。
 語源のライパ「古川の口」という意味からきているのです。
 
 広大であった来馬町は、現在山奥に残すだけとなりましたが、明治初期の登別開拓発祥の土地 であることを忘れてはいけません。
 
 
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登別の川を訪ねて 岡志別川

 来馬川の東、刈田神社から幌別小学校、そして北海道曹達株式会社の住宅地である 千歳町三・四・五丁目の高台は、古くから、ニナルカ(台地の上)とよばれた地域で、今でも ソーダ工場に関係のある人達は「ニナルカ住宅」と呼んで、昔の地名を残しています。
 
 恐らくアイヌ語研究で著名な山田秀三先生が同工場の工場長や会長をされておられたので、ニナルカ の地名が残っていたのか、と感心しております。
 
 そのニナルカの高台地域の東側低地帯には、昭和二十四年五月に設立された北海道曹達 幌別工場があり、その中央を流れているのが岡志別(オカシベツ)川で、川下の東側に 三洋工業や東興ブロックの工場、西側は幌別八丁目の四階建市営住宅があります。
 
 この川は、あまり大きい川ではありませんが、江戸時代末期に蝦夷地探検家として有名な 松浦武四郎や長沢盛至などの記録や地図にもでてくる古い川や地名で、当時からよく知られていました。
 
 長沢盛至の東蝦夷地海岸図台帳の中の登別地方の地図をみますとオカシベツから現在の幌別町の 方へ約千二百間(二千百六十メートル)の距離に、建坪四十七坪(百五十五平方メートル)の当時幕府 の支配人や番人などが詰め合う「会所」や通行屋、民家のあったことが書かれています。
 
 
 
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 その会所のあった場所が現在の幌別町一・二丁目にかけての位置である事が はっきりしているので距離的に昔のオカシベツ川の位置は現在と変わりがないようです。
 
 ただし川口は幌別東小学校の方向、幌別町六丁目や東は幸町二・四丁目などに流れ、 たえず変化していました。
 
 オカシベツ川には、三つの支流がありますが、本流はその上流が「お不動さんの滝」として よく知られている「ハルキ(左の)オカシベツ」です。
 
 三つの支流は、札内台地という極めて広大な高台の地域を削り、広い扇状地を作って、 中央町から千歳町へ通る中央通りの西北には、イクンネレペ(物を黒くする水)の地名で 知られた湿地帯がひろがり、川の東側は現在工場になっている地帯も含めて明治期より 早く開拓されていたし、川の上流では鯉の養殖や水力を利用した木工場もつくらえていました。
 
 またオカシベツ川付近から東側地域にかけて、サトオカシベツ、オカシベツ、ヲカシヘツなど 五つの字地名がありましたが、昭和九年の行政地名の変更でこれを統合して 千歳町という地名になり、オカシベツの地名がなくなりました。
 
 千歳町は千年、永遠の歳月を祈ってつけられたものでしょうが、地名が全く消えたのは残念です。
 
 
 
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 オカシベツの語源は、オ・カシ・ウン・ペツ(川尻・魚捕小屋・ある・川)と、 ウ・カチツウ・ペツ(互いに・槍を投げて突き合った・川)の二つの説があって、 知里真志保博士も山田秀三先生もどちらが本当か疑問をもっていたようですし、 表題の解釈もその意味で理解してもらいたいと思っています。
 
 オカシペツと訳した場合、この川は大きな川ではありませんが、水もきれいで やはり秋には鮭がのぼったり、イワナ、ヤマメもたくさんいました。
 
 前記に紹介した東蝦夷地海岸図台帳をみますと、川口に二戸の家があるのは魚が よくとれていたのでコタンが作られていたのでしょうし、明治以降、登別の大漁業家 であった井上伊勢八氏経営の井上漁場もありました。
 
 また別の語源「ウカツチウペツ」の意味から考えると「互いに槍を投げて突き合った川」 というおだやかでない地名由来の印象をうけますが、知里博士、山田先生の言われる 地名伝説には次のような説明がされています。
 
 
 
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 むかしランポッケ(冨浦)とワシペツ(鷲別)びいきの者がいてそれぞれどちらに 「ウニ」がたくさんあるかということで争いになり、結局この川を出発点として 西のワシペツと東のランポッケまで走り、どちらが先にウニをたくさん取って もどってくるか競争になりました。
 
 ところが結果的には遠いはずのワシペツ側がたくさんのウニを早く取ってきたので 「ずるい事をしてごまかしたのであろう」と、今度は両者の決闘となり、ヨモギで 作った投げ槍をもって、この川を、へだてて投げ合ったので、それ以来この川を、 ウカツチペツとよぶようになったのだと言われています。
 
 また江戸時代、幌別場所の生産物に、かわうその皮の名がありますが、この川岸には 現在日本でもその生息がめずらしいといわれている、イタチ科の「かわうそ」が住んで いたような話があり、人間が通った時。人の言葉をまねして、人をだまし水に さそいこんだという語りぐさが多く残っている川でもあります。
 
 そして今から約百年前、明治十四年以降の登別市開拓に大きな力のあった四国讃岐 (香川県)の移住者の多くが、このオカシベツ川から東の方、ランボッケ (冨浦)にかけて移住開拓した土地であることも知っておきたいものです。
 

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