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郷土史探訪(7)   宮武 紳一

登別の川を訪ねて「色の濃い川」ヌプルペツ

 登別駅の南側、フンベ山(鯨山)の頭部西南に川口をもつ登別川は遠く来馬、オロフレ、加車山などに その源をもち、途中百メートルあまりの峡谷をつくってゆったりと流れ、海に流れ出ています。
 
 そしてフンベ山の西方高台や知里博士の顕彰碑のあるハシナウシの丘からながめる 川の景観はすばらしいもので、歴史的にも江戸時代から知られている古い川です。
 
 「登別」の地名は、江戸時代に多くの旅人達がこの川を通った時に名づけられていた川の 名「ヌプルペツ」に由来しています。
 
 たとえば最上徳内、松浦武四郎など有名な探検家の著書に登別温泉とも関連してよくでてきます。
 しかし、登別の語源「ヌプルペツ」の意味を誤って覚えている人が多いのは残念で、この機会に 正しく覚えてもらいたいものです。
 
 明治十九年、函館から幌別に移住し、幌別に愛隣学校を建てたイギリス人宣教師ジョン・バチェラーや 「蝦夷語地名解」でよくしられている永田方正も、ここを流れている川は温泉の硫黄がたくさん 流れこむため非常に濁って魚も住むことができないし「ヌプル」は濁り「ペツ」は川、すなわち 「濁った川」という意味に解釈し発表したので、これをうのみにして誤った解釈で伝えられました。
 
 
 
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 これに対して登別出身の知里博士は語源的に訳して「ヌプル」は神様やみこの「霊力」のある という言葉から色や味が「濃くある」という意味であることを「地名アイヌ語辞典」で述べていますし、 山田秀三先生もこの意味の解釈に感嘆し賛成されています。
 
 江戸時代の旅人は、「この川は白粉と紺青をかきたてるような色をしている。」とも書いています。
 そして明治になってから「温泉川」「湯気川」などとも呼ばれていたようです。
 
 このように、温泉の水の流れから「色の濃い川」と書かれている登別川ですが、魚や生物の住まない川 かというと、そうではありません。
 江戸時代の資料には、さけがのぼっている事が書かれ、川口には漁場も設けられていたようです。
 
 「東蝦夷地ホロベツ御場所図」には、登別川上流に漁場があり、秋味三十石(約四千五百キログラム) ほどの収益が書かれていますし、明治初期には、山田文右衛門が登別川の少し上流に、 現在の登別本町の川岸にやはり漁場をもってさけをとっておりました。
 
 滝本金蔵は温泉の開拓者として知られていますが、登別への最初の入植者でもあり、息子の金之助は 登別川口で漁場を開きやはり秋にはさけをとっていました。
 山田文右衛門のあとで行ったのでしょう。
 
 
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 登別本町二丁目の西側の崖の出っぱりは「ヘサンケ」(頭を前に出している者)と 呼ばれていましたが、このヘサンケから上流にかけて、イチヤヌニ(ホリがそこにある所) といってさけ・ますの産卵に最も適したよい場所であると伝えられています。
 
 さらに上流にいきますと、川に添ったキムンタイ(山奥の森林)の奥で、川の西方 札内側にナイコチェプンナイ(産卵を終えた後のさけが入る谷川)という所もあり さらにその上流、プルプルケハツタル(水のわき出している淵)までさけがのぼったといわれます。
 
 ますは二股をこえ千歳川の両側絶壁で箱場のようになって水をたたえている、シュヨプまで のぼったと言われていますが、もちろん私達もここは通ることのできない難所です。
 
 このように登別川には、一面魚に縁のない川のように思われますが、多くの地名伝説があり、 実際さけがのぼり漁場が設けられた事や、戦後はさけのふ化事業も行われた川であったのです。
 
 登別川が色の濃い川、ヌプルペツという本領を発揮するのが、ペトコピ(川が互いに別れていく所) の二股から右手に別れるクスリエサンペツ川(薬湯がそこにを通ってでてくる川)で、江戸時代「この 奥湯沢、硫黄山より流れ出て、川水濁りて白く見ゆ。ヌプリにて水色の濃し、という言葉なり。」 で紹介された登別温泉に通じている川です。
 一方左手の川は千歳川で、この二つの川の紹介は次回にします。
 
 
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登別の川を訪ねて「色の濃い川」ヌプルペツ

 登別のフンべ山南西に川口をもつ登別川(ヌプルペツ)は登別小学校前の旧国道・明治五年に開通した 札幌本道にかかる橋下をのぼり、昔のさけ・ます漁場や登別本町二丁目の崖の出っぱりヘサンケ、山奥の森林 という意味のキムンタイを過ぎて上流のペトコピまでのぼります。
 
 ペトコピは「川が互いに別れていく所」という意味で、ここで二股に別れ、左手はカルルス 温泉に通じる「ペケレペツ」明るい川の千歳川、右手は登別温泉から流れる「クスリエサンペツ川」 薬湯がそこを通って出てくる川です。
 
 このクスリエサンペツは、紅葉大橋の下に深い、谷まをつくって紅葉谷(クスリエサンペツニセイ)に 通じ、春先には他の場所よりも早くふきを採る事のできる日当たりのよい「コルコニタウシ」や温泉道路の 右手に山の神を祭る「ポールンナイ」を通り、登別温泉街の西北をのぼってポロユ (大きい湯)の大湯沼とポンユ(小さい湯)といわれる地獄谷に通じています。
 
 今から百二十年前の安政五年の記録には「止宿所もでき、湯治人もいたり、むしろを河中に敷て浴せし が、今は川の上に屋根をかけ二つの川を合わせてほどよき湯にして入るなり、硫黄にして臭気はなはだ し。」と書いてあります。
 
 湯宿の最初の位置を山田秀三先生は、現在の地形からみて「滝の家旅館」のやや上流に 当たる所ではないだろうか、と推定していますが、明確でないので当時の状況の いい伝えがあったら知りたいと話しています。
 
 
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 とにかくポロユとポンユなどを合わせますと一日約八千トンに及ぶ膨大な湯が流れ出ていますし、 登別温泉を江戸末期から「かねて名湯の由聞き及びければ」と評し、切り傷、刺し傷、その他のけが、 打身、寄生虫やその他皮ふ病などに機能して、この当時から紹介されています。
 
 一方、大湯沼、日和山の西北に流れる上流はアクナイ(われら飲む谷川)と呼ばれ、きれいな 谷川の水で水源池を作り温泉の町に配水しています。
 その位置は、ソーアンナイ(滝がそこにある谷川)と呼ばれる「勝どきの滝」の上です。
 
 この滝は、土砂崩れなどにより昔の面影はありませんが、当時高さ約四十メートル、幅約三・三 メートルもありました。
 
 今から約八十年前の明治三十三年頃に、登別温泉開拓功労者として知られる岩倉浜治が発見して 「霜降りの滝」と命名しました。
 
 したがって、岩倉浜治が発見した当時に滝の荘厳さから命名したその心と、その後もみそぎの霊地と してよく知られ、崇拝されている事なども合わせると、登別温泉の開拓者であり、滝の発見者でもある 岩倉浜治が命名した「霜降りの滝」とよぶのが先人命名の意思をくみとることになると思います。
 
 
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 ちなみに、登別温泉に電車が通るようになったのは大正十四年で今から約五十五年前ですが、 このソーアンナイの流れ、霜降りの滝を水力発電にも利用していました。
 
 一方、登別温泉のパンケユ(川下の温泉)から流れでるクスリエサンペツに比較して、二股から左手 の川はペンケユ(川上の温泉)カルルス温泉から流れてくる川でペケレペツ(明るい川)と呼ばれています。
 
 また、このペケレペツが千歳川で、命名者は片倉家の旧家臣日野愛憙(なるよし)の子日野久橘が 明治二十二年に登別川をさかのぼり、温泉を発見した時に、祝いの意味から「千歳川」と名付けたものとして知られています。
 
 登別川の本流である千歳川も、カルルス温泉町の中央を流れる所は、シノマンペツ(ずっと山奥に入って いる川)で、さらに上流には、来馬岳、オロフレ岳、加車山と馬てい型の深い山あいに源流を もって流れ出ています。
 
 谷まから流れ出るきれいな水と思われる上流のこの川には、不思議なことに魚がさっぱりいません。
 
 
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 カルルス温泉に居られる郷土文化研究会会長日野謙一さんのお話によりますと、 昔、サクラマスの陸封化されたヤマベがいたのは、カルルス温泉よりっずっと下流の 方で魚を放流してもいつのまにかいなくなってしまう。
 
 また、温泉から上流の川に魚がいないのは、土砂に鉄・明ばん・そしてヒ素などが含まれ ているからではないだろうか、と言うことでした。
 
 さらに、大正初期から採掘しているカルルス鉱山の鉄鉱石に加えオロフレ道路の 開削も大きく影響していることでしょう。
 
 それにしても、来馬・オロフレの源流から、札内台地に深い谷まをつくり、鯨山 の口の部分に川口をもって流れている登別川は、やはりヌプルペツ・色の濃い川の 特質をもって遠い昔から今日まで、そして今後も悠然と流れていくことでしょう。
 
 
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登別の川を訪ねて「波立つ川」チウアシペツ

 水源は、鷲別岳から登別市内の海岸には、ランボッケ岬やフンベ山、鷲別岬などのように 岬や小山があって、その高台からのながめは格別です。
 
 フンベ山のオンネヌサウシ(古い幣場で山の西側にあった)、ランボッケの七曲がり坂に ついては幾度か紹介していますので省略しますが、鷲別岬の高台からは、海の色が白く波たつ 海岸と、岬からランボッケ岬まで続く海岸平野と町並みのつらなり、さらに札内台地などの 段丘や背後の鷲別岳、カムイヌプリ、来馬、オロフレ、クツタロー山などが一望され、室蘭 側のイタンキやトッカリショ、そして渡島半島につらなる海岸や太平洋をのぞむ景色は、特に 素晴らしいものです。
 
 今から約百二十年前、北方警備のために幕府から命令を受けた南部藩は、出張陣屋をポロペケレオタ (室蘭市陣屋町)にきずいたとき、この鷲別岬にも遠見番所をつくり岬の頂上から 沖を通る外国船の出没を見張り、厳重に警戒した場所でもありました。
 
 鷲別神社の境内に遠見番所の説明板が立てられています。
 この鷲別岬の東北側の真下に川口をもち、鷲別岳のふところ深くに水源をもって流れているのが鷲別川です。
 
  「鷲別」という地名の由来は・・・  
 この鷲別川は、昔の川名からいうと、鉄道線路沿いに北東から流れてくるワシペツライパ(鷲別川 の古川の口)と、サツテクワシペツ(やせ衰える鷲別川)の二流が主になっていますが、 鷲別川の名称はどのような意味から名付けられたのでしょうか。
 
 
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 登別市内にある「わしべつ」という名前のつくものは、鷲別岳(室蘭岳ともいう)、 鷲別岬、鷲別川、鷲別町や上鷲別町、鷲別駅や小・中学校、ワシペツライパ、 サツテクワシペツなどたくさんあります。
 
 それだけに「わしべつ」という地名は、今から約二百八十年前に松前藩が江戸幕府 に献上した「元禄郷帳」という記録と共に「元禄御国絵図」に書かれていますから、 非常に古い地名である訳です。
 
 しかし「わしべつ」の語源、地名の由来がどうもはっきりしていません。
 漢字鷲別という文字からうける印象では、ペツ(別)は川という意味ですから 「鷲の川」ということでしょうか、昔はこの辺に羽根を開くと二メートル程にもなる 大鷲などがたくさんいたのか、また鷲別川上流の山頂に生息していたのか、と鳥の鷲 に関係した地名の由来を思わせます。
 
 実際に江戸時代の文献や明治になってから開拓使の発行した「北海道志」の四巻ー地理 戸口編に「鷲別村は鷲別川の東にあり、南は海に面している。方言でカハリペツとよび、 鷲の意味である。」と記されています。
 
 また、磯部精一の北海道地名解にも「鷲別、カハリペツとよび、鷲の意味である。」 と記されています。
 特に、昭和二十二年「駅名の起源」には、「カパチリペツ・鷲のいる川の意味である」 とはっきり書いています。
 
 
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 このように、鷲と関係のある川の名として解釈されていましたが今日では否定されています。
 石炭川という説もありました。
 次は、ハシュペツ(柴川)から「わしべつ」になったという説で「ハシ」はかん木の意味があります。
 
 鷲別川から富岸にかけた鉄道の北側、現在の新生町や若草町はワシペツライパ(現在の富岸川)が流れ、 イワリカナイ・トプシナイと言われた沢水と合流して大湿地帯をつくってきました。
 
 ハンノキ、ミズナラ、ヤチダモなど、湿原性の樹木が多い谷地でしたので、ハシュペツ、またはパシュペツ から「わしべつ」の言葉になったのでしょうか。
 
 しかし、パシュペツは水田方正の蝦夷語地名解では増毛の項で石炭川と訳していました。
 
 わしべつが石炭川と呼ばれていなかったにもかかわらず「鷲別川口から石炭がでる」ということで 明治政府にクラークやケプロンらと共に招待されて来道していた、米人地質学者ライマンが 調査したところ「室蘭近傍ワシベツ川口にあるという、煤炭を検査したがこれは難破汽船の 煤炭で、海岸に寄せられたものである」という事であっさりと片がつきました。
 これは明治六年のことです。
 
 
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  語源をさかのぼると・・・
 そして今日「わしべつ」の地名の由来定着したのが、知里博士の「チウ・アシ・ペツ」です。
 
 イギリス人、ジョン・バチェラーの「アイヌ語よりみたる日本地名研究」に 鷲別の地名を「白波の川」と訳しています。
 
 これをさらに語源にさかのぼって研究をすすめたのが知里博士で昭和二十九年、 北方文化研究報告に「ワシペツ・鷲別川は「チワシペツ(波・立つ・川)」の 上略形か」と書かれています。
 
 つまり「チウ・アシ・ペツ」が「チワシペツ」となり、上が省略されて「ワシベツ」 になったという考えです。
 
 写真のように、潮こみの時や波が少し高い時など、今でも波が川口に入り込んで おり、「波たつ川」の「わしべつ」の語源もわかります。
 
 くわしく知りたい方は、山田秀三先生の「登別・室蘭のアイヌ語地名を尋ねて」を 読まれると、別の角度からよくわかると思います。
 
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  昔は川口まで舟が入った・・・
 現在の鷲別川は、流れの形も随分と変り、水の量も少ない川になりましたが、 明治時代までの鷲別川は富岸川と合流していましたし工業用水や飲料水として 取水していないので水の量も多く、川岸は深い草や林におおわれ川口も深く 本州方面からくる百石積(約七トン)以上の弁財船が川口に入ったという 言い伝えがあります。
 
 鷲別川の川口から鷲別駅にかけて現在は護岸も整備されましたが特に鷲別二・三丁目 は土地が低く、川は大きく蛇行していました。
 
 鉄道の下を流れる鷲別川の鉄橋も今は駅に近いところにありますが、川の流れの ない昔の鉄橋だけが駅から遠い所に残されています。
 
 そして古い鉄橋の少し南の所で大きく二つに分かれ、一つは国鉄の北側に 添うような形で蛇行しながら富岸まで続き、上流はカムイヌプリにむかっています。
 
 富岸川が鷲別川につながっていました。これがワシペツライバ川(鷲別川の古川の口)です。
 
 
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鷲別川と開拓への道

 今から二百四十年前の寛保元年(一七四一年)に渡島大島の大爆発で大津波がおこり、 ホロベツワシペツのアイヌは波にさらわれて全滅したという記録があります。
 
 鷲別川の東側から海岸にかけては、砂原で砂丘もあり、ここは続縄文文化の土器類や磨製土器が 出土されていますので、古くから人が住んでいたようですが、このような地帯では、農業に適さないので 漁業以外には産業の発展も随分遅れました。
 
 鷲別にはじめて入植し開拓にのりだした人は、武州大宮の岩井帯刀で、特に養蚕に力を 入れていた事など、玉虫左太夫の入北記や松浦武四郎の蝦夷日記に書かれています。
 
 結果的に失敗したようですが、入植の場所は、室蘭市高砂町三、四丁目付近と思われます(当時幌別領でした)。
 
 その後、本格的な開拓がはじまったのは今から約百十年前の明治二年(一八六九年)に、南部出身の 釜谷岩吉が鷲別川添いの高砂町二丁目に入植し、同年、白石城主片倉邦憲が幌別郡の支配を受け、 明治三年家臣の須田弥平左衛門らが入植してからです。
 
 この場所は、美園町三丁目から高砂町一、二丁目にかけての鷲別川両岸でした。
 
 当時幌別郡の行政区画は、室蘭のイタンキから知利別の方まで含まれていましたので、 今の高砂町は当時の鷲別村にふくまれていました。
 
 
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 開墾のための住居には鷲別川と道路をはさんで一番から二十番までの屋敷が建てられました。
 
 しかし、一回目の入植者は約三十坪の長屋で、周囲は草造り、内部はすだれで仕切ると いう粗末なものでしたが、これが移住者の生活の本拠でもありました。
 
 入植者の作った主な物は、大豆や小豆、大根などで養蚕も行いましたが、生活は厳しいものでした。
 
 集団で働き、農事規約をつくって、病気や事故以外は休むことはできません。雨天の場合でも 農業に関する仕事をし、休みの日はみんな集まって開拓の話し合いをするなど苦闘を続けました。
 
 写真の幌別郡之内鷲別屋敷図は明治四年末頃のもので、現在鷲別町在住の黒沢氏の先代である、 黒沢源一郎は第十九番屋敷として約千二百坪(三千九百六十平方メートル)が割り当てになり、 開墾に従事していたことがわかります。
 
 鷲別には、砂丘などの海砂に悩まされながらも、このような古い開拓の跡がたくさん残っています。
 
 
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登別の「森林」を訪ねて

 北海道ソーダー工場の山側を約五キロメートル札内台地へのぼっていくと道路の右側、高圧線 の近くに、開拓記念樹があります。
 
 樹齢約二百五十年、高さ二十五メートル、直径百十一センチで、明治二十九年札内開拓の入植時 からあったミズナラの樹です。
 
 この樹は、名前の通り多量の水分を含んでいるため、倒木して薪にしても乾燥しずらいので、 なかなか燃えません。そして、堅く重いので、開拓した昔の人達には、始め邪魔で嫌われるものでした。 伐り倒して二・三年は放りなげて燃やしてしまうのが普通でした。
 
 知里真志保博士によると、ミズナラはアイヌ語で「ペロ」といい、これは「ペ・ノ」水を含んでいる 意味ではないかと話しています。
 
 しかし、ヨーロッパでは堅い重いどっしりした木材であることから、特に家具材として特級品扱いされていました。
 日本でも、明治の末頃から輸入品として注目されはじめています。
 
 雄花と雌花が同じ木に別々について咲き、十月になると「ドングリ」で知られる実になります。
 
 兄弟木である「カシワ」とは異なり、果実は卵状の長楕円形で帽子は椀形です。昔から子供達 から親しまれ、よく童謡で歌わられています。ミズナラのドングリは、皮をむき、灰水で煮て渋味をとり、 臼でひいて粉にし、冬の大切な食糧にしました。
 
 
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 開拓記念樹の下には古くから開拓に従事した三原、杉本、鎌田、脇、近井、 橋本、大平氏などによる開拓記念碑が置かれ、また五角の神を祭る石碑もあり、 この木を通して魔よけにしたり、病気が早く治ることを頼む神木として尊ばれていました。
 
 いまでは、この記念樹のような大木は珍しくなりましたが、登別市全域では、五十五 %はまだ林野でしめられ室蘭、伊達、登別の三市合計の三十六%を占める ほど多くあると、営林署の沢村さんが話しています。
 
 林業に関する記録は、安政五年幌別場所請負人の岡田半兵衛が、「ホロベツ山より、 木材、ブナ板等の切り出しを行った」との記録があり、登別の木材業の初まりであったようです。
 
 しかし、漁業、動物の皮革、そして登別温泉地獄谷付近からの硫黄採掘が主たる仕事で、 木材業にはあまり力を入れなかったようです。また、記録で珍しいのは、ブナの北限が黒松内と 寿都を結ぶ線であるとされていながら、当時登別地方で生産した記録があって、興味のあることです。
 
 このほかに伐り出された木材として考えられるのは、家屋用には腐りづらいハシドイ、 ヤマグワ、イチイなど、舟材には水によく浮いて軽いカツラ、ヤチダモ、セン、薪炭用(焚木) には良く燃えるハルニレ、シラカバなどです。
 
 また、カムイヌプリ、来馬岳には、トド松、エゾ松など「蝦夷桧唐松」といわれていた 良材の大木が多く繁っていたことがわかりますし、これらの良材は、いつどのようにして運び出されたのでしょうか。
 

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