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郷土史点描(10)   宮武 紳一

幌別町を訪ねて「江戸時代のホロベツ」

 幌別の地名は、アイヌ語地名の「ポロペツ・大きい川」からきているのはご承知のとおりである。
 
 幌別川は、イブリホロベツ川として知られ、長さ十七・六キロメートル。市内第一の長流である。 川岸も深い樹草に被われ、うっ蒼たる大森林に囲まれた中に悠然と流れていた。
 
 幌別川に合流する川は、東は来馬川。常盤町四丁目丘陵地西側からはウツナイ(川・沼から他の川や 沼へ流れる細長い川で刈田神社前で大沼をつくっていた)。幌別川の西側からは、ノボリトラシナイ(山に 添って登る沢川)。タッカルシナイ(ガンビを取り付けている沢川)が川上町・桜木町四・六丁目山麓から流れ、 青葉町吉鷹牧場付近からはヤンケシ川も流出していた。幌別川跡の三日月湖や葦の茂る大湿原は、大シケの時、 川水が逆流し河口も砂で埋まるので、たちまち大川の水はあふれ大和町・桜木町・緑町一丁目は、大湖水化して しまう。昔の国道が陸上自衛隊前の中央通りから、登別大谷高校前の白川商店横より二十八号踏切方向に 斜めに通っていたのもこのような理由があった。
 
 さて、幌別の地名は江戸時代の資料に、ホロベツ・ほろへつ・母衣別(ほろべつ)・保絽別(ほろべつ)・ 縨別(ほろべつ)などと書いているが、漢字は当て字が多く幌別に統一されたのは、明治二年蝦夷地を北海道 と改めた時である。
 
 
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 また、ホロベツの地名ではないが川名を別名「カニサシペツ」と市川十郎の「野作東部日記(えぞとうぶにっき)」に書いている。 アイヌの人に彼が聞いたところによると「錦繍(きんしゅう)・錦の刺繍(しゅう)のサラサラと音鳴りするもの」と記しているので、 アイヌ伝説のカニはシロカニ(銀)やカンカニ(金)のようなものをさし、幌別鉱山の金・銀の流れからこのいわれも分かるが、 別に通辞(つうじ=アイヌと和人の通訳をする人)から聞いて「かねざし(針盤・測量器)」を考えたらしい。
 
 昔、間宮林蔵(まみやりんぞう=間宮海峡発見者)がここに針盤を立て測量したことから「カニサシの地名となれり」と通辞の 言ったことを記録しているが、間宮林蔵は当地方へ来ていないので、彼の師の伊能忠敬(いのうただたか)や最上徳内(もがみとくない) をさしたのであろうか。
 
 ホロペツの由来伝説には、この地のアイヌの偉い神がこの川を渡ろうとして、足から膝に入り、もものあたりから大切な男のものまで 濡らすほどの深みに入ったので、思わず驚いて「ポロペツだ! 大きい川だ」と叫んだことから いわれるようになったとされるが地名にもいろいろな意味があっておもしろい。
 
 前回で紹介したように、約百四十年前の幌別に三百余人が集約されたのは、ロシアの南下に備えて北方警備の南部・仙台藩士のほか 会津藩士らが激しく通行しているので、幌別場所請負人の運上屋を会所とした。
 
 場所請負人は、近江商人岡田半兵衛であるが、支配人・通辞・帳役(ちょうやく=会計など)・番人(越年して番屋を守る管理人)らも同居し、 宿泊のための通行屋(旅宿所)や役人公用の馬屋もあり、刈田神社の前身とも言うべき妙見稲荷社も会所横に設置されていた。
 
 
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 同じころ、登別地方を通った長沢誠至(ながさわせいし)の記録には、会所は百四十七坪(四八五平方メートル) の平屋の大きな建物で、その他、鍛冶小屋・木挽(こびき=木材をのこで引く)小屋・大工小屋・秋味(あきあじ) 小屋・雑物小屋が四か所あり、舟数も二十三艘(そう)と記録している。
 
 会所で主に取引された品物は、ヒグマの毛皮類をはじめ登別地方の伝説に多いイタチ科のカワウソやイタチに似た獣の エゾテン。ムジナやアナグマなどと別枠されるエゾタヌキ(極東だけに分布した珍しい動物で、現在新栄町の山際に モユクンナイ・エゾタヌキが入る沢の地名も残っている)、キタキツネ・エゾイタチ・エゾシカ などである。また、ヒグマの胆(きも=肝のう)は上・中・下があり、魚類ではサケ・サケのあだつ(鮭を三枚におろし 尾はつけたまま乾かした物)・こんぶ・いりこ(煮たナマコ)・ホタテ貝・幻の魚イトウの名もある。
 
 それにしても、江戸時代末期から明治中期にかけてのまち並みの中心はどの辺りであろうか。
 
 
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幌別町を訪ねて「明治初期のホロベツ」

 明治初期の幌別町の情景を考えるとき、どこも大体同じであるが、自然の草深い原野と湿原・ 密林に覆われ、鉄道も国道もなく細い小道も見えない自然の状況をまず思い浮かべねばならない。 広い砂浜にヤマアラシの背の針のように堅いムリッチ・ハマボウフウ・シロヨモギ・ハマエンドウ・ ハマナシ(昔幌別ではハマナシと言い、ハマナスは浜梨の東北訛(なまり)だから、ハマナシが 正しいと我国植物の大家牧野博士が言っていた)が会所等の家並みに続いていた。
 
 「東蝦夷(えぞ)地海岸図台帳」によると会所・稲荷神社(刈田神社)付近から未(ひつじ)の 方向(南西)へ約二百四十間行くと幌別川がある。直線距離にすると約四百三十メートルで、中央町 三丁目からJRを越える「ときめき橋」の下、幌別町一丁目付近にある。
 
 明治六年頃と思われる「札幌本道出来形図」を見ても、会所・神社と会所前南西部海岸側に囲いを巡らした 馬の放牧場もみえるが、これは後述する駅逓(てい)用であろうし、場所は現在の幌別町二丁目 上田コンクリート工場付近であろう。
 
 江戸末期から明治・大正・昭和二十年代までは幌別町一~四丁目が町の中心であった。
 
 片倉家旧臣らの入植地は幌別町字浜(一~四丁目)、字来馬(来馬川を境に中央町三・四・五富士町 一・二・三丁目付近)、小平岸(新川・片倉町)など旧家老斎藤良知の他二十六戸が幌別に入植その他 鷲別・トンケシ・ランボッケ(冨浦)などである。
 
 
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 移住者は幌別を永久の地と信じ、旧領地の刈田郡刈田峯神社を現在の幌別町一丁目 三菱石油の西側に設けたが、鉄道の設置などで大正十四年(一九二五)現在の地の中央町に移転した。
 
 幌別町が現在の町の形になったのは明治五年(一八七二)札幌本道、明治二十五年に 北海道炭鉱鉄道が設けられ分断されたからで前記は国道三十六号、鉄道は室蘭に相当する。
 
 明治二年、札幌が北海道の首都に決定され、当時の戸数二戸七人、翌三年九戸十三人(北海道 四百十七人)という状況の中で急拠北都の建設が進められた。
 
 東京から札幌へ通ずる交通の開設は、当時北方ロシアの進出に対し北方警備の必要からも重要課題で、 およそ東京~(船)~函館~室蘭~札幌間は八~九日間、東京~(船)~室蘭~札幌を通ずると約五日間と いう計算であった。小樽港は日本海側で産業的課題やロシアの問題もある。
 
 室蘭から札幌への道路設置の計画がアメリカ人開拓使顧問ケプロンにより献案され、測量技師ワーフィルド が工事計画をすすめた。
 
 
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 彼は、室蘭のホシケサンペ(沖から船で帰って来ると最初にみえてくる山)に登り三角測量の基点を定めたので 以後「測量山・見当山」とよぶようになったが、新室蘭港はトキカラモイ(魚のチカがいる入江)で海岸町・緑町(港の 文学館南東)に新港が造られ札幌道路一番杭が打ち込まれた。
 
 当時の幌別郡と室蘭郡の境界は三つ橋(うぐいす橋)で現在の輪西町二丁目・みゆき町二丁目の境辺りであろうか。 鷲辺都(わしべつ)役所前に(鷲別一丁目)四百五番~四百三十番の柱が打ち込まれた。
 
 当時鷲別のこの辺りは住民が居なかったので山腹を削り、土塁を築き、官吏詰所一棟・長屋を二棟・板庫・炊事場 各一棟、製粉・製氷のための水礁(すいしょう=水車小屋)を約九百メートル鷲別川上流に設けた。このうち官吏 詰所は翌六年幌別戸長役場庁舎として払い下げ、幌別一丁目にあった会所番屋は外国人技師や官吏などの休泊所とし、 新築の仮小屋二棟には職工夫が宿泊したので札幌道路建設でにぎわった。札幌本道の完成とともに、 人や荷物輸送が増加し、移住旅行・携帯の運送に人馬(じんば)継(つ)ぎ立(たて)業の駅逓も旧会所を中心に行われた。
 
 幌別居住の古い東海林栄蔵一家の金太郎も幌別で旅籠屋(はたごや)渡世として部屋の増築願いを出している。
 
 北海道開拓で重要な郵便制度も明治五年函館郵便役所など約二十の郵便取扱所を設けたが、幌別の駅逓取扱人の 松谷金弥が同年開設、以後場所は変わったが現在も幌別鉄南郵便局に引き継がれている。
 
 
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幌別町を訪ねて「愛隣学校」の設立

 明治をむかえ、北の都札幌の建設が進められた中で、陸の大動脈「札幌本道」が開通し 幌別はその宿泊地として発展しました。ワーフィルドらの調査に基づき、開拓使顧問ケプロン の進言で開設された「札幌本道」は、日本で最初の「洋式馬車道」だったのです。
 
 草木刈り取り道幅も狭く、曲がりくねった駄馬(だば)の道路に比べ、新道は道幅も広く 玉砂利を敷き、車馬輸送の道ですから4頭だての幌馬車で走っている姿を想像してください。 速いものです。現実には、室蘭~札幌間は荷馬車で2日間をみていたようです。
 
 当時の新室蘭港(室蘭駅北西)から鷲別への道は、室蘭の御崎町、輪西町を通る崖下が海岸なので 道路はなく、室蘭御前水から山中に入り輪西のみゆき町高台(観光道路)からイタンキ海岸路を 通りました。午前中に新室蘭港に上陸しても、曲折の多い現在の観光道路を歩いたり、小船で輪西に 上陸しても、幌別までが時間的に限度なので宿泊業が幌別で発展した訳です。
 
 宿泊所は東海林栄蔵(しょうじえいぞう)・美恵の夫婦、後に鈴木留吉・久本幸吉・佐藤清左衛門・ 石川福松それに金成喜蔵(かんなりきぞう)らが経営しております。
 
 商業も小杉万五郎・西東勇吾・千葉儀助・紺野久治・志家芝九郎・鈴木留吉・金成喜蔵・中山弥重 などが活躍し、中山商店は、伊達家家老の田村顕允(あきまさ)にカアーヘル(ストーブ)と煙突を入手 販売するなど先進的な取引をしていました。
 
 
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 特筆すべきことは、旅館業を営んでいた金成喜蔵の所に二人の外国人が宿泊していることです。
 
 アイヌの父として尊敬された英国人ジョン・バチェラーと、バチェラーの大先輩で東京帝国大学教授 チェンバレンの来訪です。チェンバレンも3週間金成家に滞在したのでエピソードもあり、これについては 後述することにします。
 
 ジョン・バチェラーは、明治十九年(一八八六)から二十六年札幌に転居するまで幌別に居住、現在の 青葉町吉鷹敬次郎氏の牧場脇に家を建て妻のルイザ夫人らと住んでいたし、札幌転居後も幾度か訪れています。 建物の情景を書き残した宮武フデによると「おとぎばなしにでるような家が緑の中に一軒建っていて、ホルスタイン の白黒の牛がのんびりと草を食べていた。英国人の神学博士バチラさんという方が伝導と信仰の生活をしていらっしゃった のです」と、馬に乗っての布教活動やルイザ夫人のケーキづくり、珍しかった牛乳のことも記されております。 特に、バチェラーと登別の関係深いのは「愛隣学校」の建設です。
 
 公立の学校として室蘭常盤学校が明治九年、幌別小学校が明治十四年開校していますが、明治二十一年九月十日 開校の「愛隣学校」は、私立では道内でも屈指の古い学校として幌別町五丁目、本町東通りに面しバチェラーにより 開設されました。校主は金成喜蔵の長男である金成太郎です。金成太郎については、道内で最も古い函館新聞の 明治十四年(一八八一)四月二十日号に大体次のような記載があります。
 
 
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 「昔から軽視されアイヌ人も開化文運の美徳に潤いすぐれた人物が現れた。これは、 胆振国幌別郡にいる常盤学校の生徒の金成太郎で今年十四歳。幼齢に似ず学業に熟して いるので同校でも太郎を教員にしたら良い、と協議していた」ということが論評され、 札幌農学校(北大の前身)へ入学した友人斎藤次郎宛ての手紙もわざわざ記載されるほどの 俊才でありました。
 
 金成太郎らについては、後述することにしますが、はじめバチェラーの設置した相愛学校 であったのが、突然変更され校名も変わっています。明治二十一年四月二十日の開校届の校主 は「金成太郎」。校名は「私立相愛小学校」。同年八月「校主変更の伺い書」が出され、 九月九日の校主変更で「私立相愛学校」が「愛隣学校」となり、「校主金成太郎」の名が消えています。
 
 明治二十一年九月十六日の「函館新聞・幌別通信」によると「私立愛隣小学校はいよいよ本日 十日開校式を行った。参会者二百三十余名、開村以来盛大な儀式でバチュラ氏は、アイヌ語で 答辞をし参会者の祝文も多数あり」と開校式の盛況ぶりを紹介しています。
 
 
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幌別町を訪ねて「バッタの襲来」と「葉タバコ」を育てた人達

 幌別郡から明治十年(一八七七)札幌郡白石村に転居した片倉景範(かげのり)を 慕い、旧家臣三十余戸も移住したので、郡内は火の消えたような寂しさになりました。
 
 この様な変動の中で、明治十四年から同十六年にかけて香川県より四十七戸、同十八年より 二十年にかけて兵庫県約五十戸、徳島県約七十戸、その他静岡県などからの移住者をみます。 明治十年の戸数六十五戸が同二十五年四百三十五戸に増加。これから自由移民の開拓で農業・ 水産業・狩畜業の生産が高まります。狩畜業とは鹿・テン・カワウソ・キツネ・ヒグマなどの狩猟 と馬の放牧でした。
 
 入植した開拓者も、森林を切り拓き畑地にしなければ国から土地をもらえません。労働で破れた 仕事着の補充もつかず売店もありません。それにヒグマや鹿・カラスが畑を荒らし、登別牧場では ヒグマ・野犬らに二十一頭の馬が襲われるという被害を出したのでクマ狩りをして八頭を獲殺していますが 生活は大変でしょう。
 
 開拓中、自然の脅威は思いがけない事変を起こします。明治十三年十勝地方に大発生したバッタ (いなご)の飛来は、日高・苫小牧・白老・登別地方を襲い全道的にも大被害を与えました。
 
 
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 バッタ襲来の状況は「天を被う程(ほど)のバッタが飛来すると、今までまばゆいばかりに 輝いていた太陽も一時は日食のように薄暗く、その羽音は数十羽の大鷲が眼前に飛ぶごとく 騒がしく、見る間に畑作を食い尽くしてしまう。その凄まじさに、人々は大声をあげて叫び、板切れ で叩きつけ火を焚くが何の効果もなく、ただ呆然と見守るばかり」と丈草の記(宮武藤之助)は記録 していますが、バッタの来襲を「飛蝗(ひこう)」と言い「飛ぶ早さは一分間に六百五十メートル、 通り過ぎた後は緑色も無くなった」と語られています。
 
 このような中でも村は着実に発展していきますが、幌別の特産物として有名を馳せたのが 「葉煙草(はたばこ)」の栽培でした。
 
 日本へのタバコの移入は、ポルトガル人の来航(一五四三)以後と伝えられますが、たちまち全国に広がり、 慶長年間(一五九六~一六一五)には本州各地で栽培され、特に西日本では「男女を問わず、子供まで タバコをふかしていた」という記録もあります。
 
 タバコ・キセルもポルトガル語。喫煙の大流行はタバコの火の不始末から出火もあったので、江戸幕府は ぜいたくの禁止とともに禁煙令を出し、タバコ栽培者の土地を没収。大名の中に喫煙者を処刑した例もありましたが、 何れも一時的禁令で終わり、喫煙風習の流行はタバコの商品価値を全国に高めます。
 
 ちなみに、日本人の喫煙の方法は深く吸い込み中枢・知覚神経の特異な感覚を味わう 傾向が強かっただけに酒による陶酔感と共通していました。昔の酒盃のやりとりと同じで「タバコの回しのみ」 も仲間意識の共食の風俗でした。また仕事中の小休止を「一服しよう」、地方により「たばこにしよう」と言うことは 「お茶の時間だ」と同じように、喫煙の風習は全国に広まり、明治末まで高齢者女性の喫煙は当たり前でした。
 
 
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 それにしても、幌別でのタバコ栽培は珍しく、開拓使の指導で明治十二年初めて字ハマ (幌別町)で試作され順調な成育のようでしたが、当時の村内特産品は、蚕を飼ってマユをとり 絹織物に仕立てる養蚕業(ようさんぎょう)が中心だったのでタバコは奨励されなかったようです。
 
 ところが明治二十五年、四国阿波国で商業・農業をやりタバコ栽培に経験のある井上藤吉(とうきち) が字ハマに居住し、本格的にタバコ栽培を行い、成育も良く、香り・味・色つやも良かったので 乾燥させた葉タバコを札幌に送り「北海熊」という名称でキセルで吸うきざみタバコとして売り出されました。
 
 幌別での葉タバコの生産は、その後専売局で幌別村を「タバコ耕作の地」に指定、更に外国タバコ 栽培の指導もしていたことが「北海道殖民公報」に記載されています。
 
 
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鷲別町を訪ねて「貝塚のある遺跡と烽火場のあった鷲別町」

 登別市内で、最も古い地名の一つに「わしべつ」があります。
 
 シャクシャインの乱の時、東北の津軽藩は、蝦夷に隠密を派遣し松前藩の不正や 弾圧を探り江戸幕府に報告したが、その資料「寛文拾年狄烽起集書(かんぶんじゅうねん てきほうきしゅうしょ)」に「わしべつ、やち也(なり)、川あり、シイチャイン持ち場で 家が五・六戸」とわしべつの名前がでてきます。鷲別岬付近にコタンがつくられえいたのでしょう。 今から約三二五年前の鷲別です。
 
 昔の鷲別は、現在の室蘭市知利別が境界で、明治二年の鷲別村は現在の室蘭市輪西町の東南、 室蘭工業高校北側の楽山(らくさん)から、室蘭工大の天神山にかけての東南が鷲別村の行政区 であったのは、郷土史点描二十三・二十四号で紹介のとおりです。
 
 鷲別の語源の由来も前号で紹介の「チユ・アシ・ペツ、波・たつ川」の意味などがあります。
 
 
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 さて、現在の鷲別町は鉄道の南側だけになりましたが、大正八年(一九一九)の大字鷲別村は、 鷲別・奥鷲別・富岸・トウボシナイにわかれ、六十年前の昭和九年の鷲別町は、現在の美園・若草・ 新生町・栄町の部分も含まれ、字(あざ)地名も沢山ありました。
 
 例えば、現在の鷲別町一丁目は字ハマ・濱(はま)・鷲別・ワシベツ、二丁目は字ハマ・濱・ワシベツ・ 鷲別・ドロカワフツ、三丁目は字ハマ・ワシベツ、四・五丁目は、字ワシベツ・濱・ハマで六丁目は 前濱・ハマ・濱などおいう名称です。
 
 ハマ・前濱などの字名は、幌別、登別の海岸地帯にもみられ、自分の家の近くで獲った魚などを「前ハマ の魚」などと言うし、ハマから少し奥へ入ると「ハマの裏」などと名付けていました。また鷲別町二・三丁目 の鉄道沿線の地名が、鷲別村字ドロカワツブであるのは「ト・沼、ル・路」の若草町などの湿地帯に 鷲別町側の砂丘が小山になっている「ウカオプ」の意味であることは61ページで紹介の通りです。挿絵 のように鷲別の「やち川」は大変でした。
 
 さて、鷲別で最初に栄えた一丁目は、約一〇七メートルの鷲別岬(鯨岬)の頂上から、西側は室蘭と境界を分け 国道三十六号まで、東は鷲別川の範囲でありますが、鷲別で最も古い地域と言えましょう。
 
 縄文時代の中期と言われる鷲別遺跡は、登別市内唯一の貝塚のある遺跡で、約百年前の明治二十八年に高畑 宜一により「縄文時代人の住居の跡が二十八か所もある」と発表していました。その後、 昭和三十六年に北大の大場利夫教授らの発掘調査で、貝塚の下層から十九個の敷石の中に、二個の石を抱えて 仰向きになり、脚を屈めた屈葬(そう)の形で、首に平玉(ひらたま)三個をつけた縄文時代の人骨が発見されて います。
 
 
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 屈葬や、頭部が南西向きに、二個の石を抱えた姿は、この時代、既に死者に対する精神文化が 芽生えていたことを伺わせます。この貝塚は、鷲別神社北東の真宗寺下方に薄い層でみられ、 広範囲にあるので縄文時代の長い生活の場として栄えたのが分かります。これら縄文時代の土器片 や石器などは室蘭市高砂町一丁目から三丁目の緩い段丘地に美園町の低地帯を囲むようにみられます
 
 次に、鷲別岬中腹に設けられていたのが江戸末期の南部藩の「ワシヘツ警衙所勤番所(けいがしょきんばんしょ)」 で、鉄砲武者ら三人と足軽ら三人詰め、鷲別岬頂上から、東は冨浦・アヨロ岬沖、南は太平洋と恵山岬 から噴火湾、トッカリショ・イタンキ沖を通る異国船の監視にあたり、南部陣屋(室蘭市陣屋町) 幌別会所それに白老の仙台陣屋にも知らせる重要な役割を果たしていました。
 
 また、鷲別岬頂上から、烽火(のろし)をあげると、ランボッケ岬・アヨロ岬(虎杖浜)からも見えやすいので、 クナシリ・メナシの戦い(一七八九)の時はここを烽火場(のろしば)としたようです。
 
 その後、蝦夷地は幕府直轄地(一七九九)となり、この時の江戸北町奉行の遠山金四郎は、テレビで 知られていますが、彼の父遠山景普(かげくに)も蝦夷地の調査に来た時、鷲別岬に烽火場のあることを 紹介しています。
 
 

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