◆  登別市立図書館市民活動サポーター おすすめ郷土資料

郷土史点描(11)   宮武 紳一

鷲別町を訪ねて 漁業のまち・砂丘から砂鉄産業へ

 鷲別町内で、最も早く開けた地方は、鷲別神社の北側、鷲別川西方のなだらかな丘陵地です。
 
 現在でも、西北の寒い方を背にして、暖かい太陽の恩恵を受ける南東向きに窓を向けますが、江戸時代初期 「わしべつはシャクシャインの持ち場」として5・6戸の家がこの地方にあったのでしょう。
 
 当時の鷲別川は、現在想像も出来ないほどの深い森林に被(おお)われ水量も豊かで、春・夏はマス、秋には、 サケが大群を作り鷲別川をのぼりました。
 
 明治・大正期にも鷲別川からワシベツライバ川を通り新生町・富岸町の方まで、マスやサケが沢山のぼっていたようです。
 
 鷲別岬付近の海は魚の宝庫です。江戸時代「遠山金四郎のクジラの潮吹き風景」の記録は勿論、岩礁に生息していた ウニ・アワビ・ツブ・ナマコ、前浜のカレイ・イワシ・スケトウダラ・ソイ、沖合のメヌキ・カジキマグロ・ サメなどの群遊魚も多かったのです。
 
 また、豊富な水量を湛(たた)えた鷲別川の川口は立派な漁港としての役割を果たし、鷲別岬名物のローソク岩も 現在の防潮堤の所に屹立(きつりつ)していました。この名物岩も第二次大戦後、道から漁港整備の指定を受け防潮堤 工事の時に破壊されたのは残念な事でした。
 
 
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 さて、明治三年片倉家家臣らが最初に鷲別に入植した所は美園町3・5丁目から室蘭高砂町3丁目にかけてですが、 明治5年(1872年)室蘭から鷲別、札幌へ通じる札幌本道が開設すると、往来の多い現在の国道の方に人家が建ちます。
 
 鷲別の農業開拓の特色に、明治7年、浜側に牛舎がつくられ、開拓使から牛2頭を借りて、耕作機具プラウによる 西洋式鋤耕(じょこう)の方法が牛により試みられています。
 
 また、片倉家の故郷白石は、和紙・うーめん・生糸が「白石三白」と言われる特産品で、旧家臣らは鷲別でも故郷の 生糸の生産に情熱を燃やしました。
 
 明治8年(1875)蚕(かいこ)を育てて繭(まゆ)をとったところが好結果を得たので桑の木の苗を白石から 取りよせたり、野生の桑の木を現在の鷲別神社付近から、日の出市場の高台の方向に桑園(札幌にも桑園の地名が残っている) をつくり養蚕業に尽くしたが、気候不順のため桑の葉の乾燥も不十分で蚕は病気にかかり失敗しました。
 
 さて、鷲別町は現在、国道の高さで平坦になっているようですが、前回も記述したように、鷲別町二~五丁目は高い砂丘地帯と、 その中を蛇行して鷲別川が流れ、多くの沼地をつくり、草深い低湿地帯であったことは、前号の写真図のとおりで地形も複雑でした。
 
 
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 鷲別橋からの国道の高さが、現在の鷲別町の平均的高さのようですが、昔の国道は、今より約3メートル程は 低かったようです。鷲別町六丁目黒澤商店横を浜の方に下がる路、三丁目の透禅寺方向に下がった路が昔の国道の 高さであると黒澤友義氏が話してくれました。
 
 一方、鷲別町の砂丘は、おおよそ国道沿いに鷲別小学校の方まで続き、また、鉄道官舎の方にも発達していました。
 
 「国道横の砂丘は、子供達の遊び場で、冬は橇(そり)すべりをした思い出の場所。『三つ山っ子・やまっこ』などと 呼ばれた砂丘群であること。昔の学校は、掃除はするがいつも砂だらけであったこと」なども黒沢氏は話してくれました。
 
 鷲別の砂丘の発達は、思わぬ所から産業の開発がありました。それは砂鉄の採掘です。
 
 鷲別の砂鉄鉱は、噴火湾系の砂鉄で、チタン含有量が約10パーセントと低く磁鉄鉱として利用され、鷲別岬から 幌別川付近まで、海岸の汀(なぎさ)線から約200~300メートルの範囲で砂丘、 砂地中に砂鉄が濃集(のうしゅう)していました。地表から2~3メートルの間は砂鉄と砂層が交互しその下部は 磁鉄鉱。含有率97・5パーセントの高品質で露天掘りをしたり原鉱を精製したり、鉱業所も5・6社はあったが 中には小・中学校の夏休みのグラウンドの採掘も休み中に終了しないと大騒ぎしたこともありました。
 
 
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鉱山町を訪ねて「金鉱と日本一の硫黄生産を誇る」

 むかし、幌別川は「カニサシペツ・黄金の音が鳴り響く川」という伝説で語られていました。
 
 幌別川の上流、シノマンベツに金の出る所があり「綺麗(きれい)な流れの中で砂金が触れ合い、美しい 音を出しているのだ」と言うのです。
 
 伝説の通り、幌別鉱山(シノマンベツ)の奥に金を算出した旭鉱山がある。その下流に熊の沢・白滝・ 滝の沢、幌別鉱山北東のライバエオマペツ(ライバに水源が向いている川)付近は岩の崎・山下・日の出 などの鉱床があって、明治39年から大正、昭和にかけ金・銀・銅などを大量に生産し、伝説を裏づけた 栄光の場所であったのです。
 
 また、幌別鉱山の北方約10キロメートル大峠を越えた黄渓の硫黄山から生産した硫黄鉱石は、玉村式索道 (ロープウエー)で鉱山に運搬精製し、大正期には、「硫黄生産日本一」の実力を誇った輝かしい町でした。
 
 さて、カニサシペツで知られた金属鉱の採掘については、江戸時代の資料にみえません。勿論、松前には 遠いし、幕府も北方警備で精一杯、場所請負人は、簡便な利益を追求した、ということでしょうか。明治に なり、アメリカ人地質学者ライマンが鉱物資源の調査を全道的に行い、登別ではカルルス温泉の鉄鉱石、登別 温泉の地獄谷、大湯沼の硫黄、幌別鉱山の金・銀・銅について北海道開拓使に報告しているが「幌別鉱山は 鉱脈も少なく企業性に乏しい」と述べている。当時は、石炭を重視した慌ただしい調査だったのでわからなかったのでしょう
 
 
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 片倉家の筆頭家老本澤直養(もとざわちょくよう)も幾度か調査し、黄金の開発を期待したが 思う通りにいかなかった。一攫千金を狙う山師の多い時代なので大勢の入り込みもあった。中でも 北海道炭鉱鉄道敷設に参加した仙台の早川組や函館の某など。
 
 本格的な幌別鉱山の開発は、小田良治という人物が明治39年幌別鉱山の経営に着手してから 鉱山の発展をみることになったのである。
 
 ちなみに、小田良治は明治5年大分県生まれ、18歳の時に渡米、苦学してサンフランシスコ 商業学校を卒業し、ニューヨークで日本商品販売店を開きましたが間もなく帰国、海運業を中心とする 三菱を1年で退社、三井物産に勤めましたが、明治32年(1899)同社の北海道初代所長に就任し、 彼と北海道、それに登別との関係を深めたのでありました。
 
 勿論、彼の所属する三井は、道内の石炭事業に関係深く、彼も三井財閥を背景に室蘭の日本製鋼所・ 苫小牧王子製紙の代表監事も務めていた。特に札幌駅前の老舗五番館(五番館西武)の初代社長に就任し、 独自の経営方式を試みています。例えば当時、商店で女性の店員を働かせるなど考えられない世の中で あったがエプロンスタイルの制服を着せた店員を配置し、現金売りをしたり(当時貸し売りが普通)、 札幌五番館の経営ぶりは、全国の百貨店を驚かせ、それは今日のデパートの基礎を築いた人物でもあったのです。
 
 
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 さて、小田良治の幌別鉱山の創業にあたり鉱山地方の地質を考えてみましょう。鉱山町の シノマンベツ(鉱山町の橋を渡り中央の旭鉱山の方向)上流に、濃緑色・緑色の火山性の岩盤 がみられるが、これが登別地方、西南北海道で最も古い地層に属する大曲沢層で、地質年代は先 白亜紀層に属しているから、恐竜など巨大動物の時代を思わせるが、断層が多く地層の走行・傾斜 も不定で化石も発見されておりません。
 
 また夢のような話ですが、その後海底で火山活動が起こり、重金属を含んだ溶岩が流出生成したのが 幌別鉱山の金属鉱床で、青緑色・黄緑色の岩肌に砂岩や海洋性のものが含まれています。
 
 幌別鉱山を生成した新第3紀も後半になると幌別ダム周辺で灰色淡褐色の砂岩・泥岩層が見られる。 この中に500万~200万年前の北寄貝に似た大きなホタテ貝(学名タカハシホタテ)が登別高校 郷土史部により発掘され北大魚住教授が学会で発表しました。
 
 このころ登別地方は、まだ鷲別岳・来馬岳・オロフレ岳も見えない浅海の時代であったのです。
 
 
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鉱山町を訪ねて 幻のまち「旭鉱山」

 幌別鉱山で、試掘・採掘された鉱床は多いが(前号紹介)その中でも旭鉱・岩の崎・蔭の沢 は良く知られ成功した例である。
 
 金・銀鉱を採掘した旭鉱山の位置は、鉱山橋を渡って右手へ行くと二股に別れるがそれを左手に真っすぐ 行くのである。途中カマンベツの滝(三段の滝)へ行く道が左方にあるので注意したい。どこまでも 本流(シノマンベツ)の右手に添い山奥を進むと、青緑色の新第三紀の地層や、旭鉱に近い熊ノ沢では 黒ずんだ最古の大曲り沢層も見える。
 
 明治42年(1909)1月に完成した鉱山から旭鉱山までの馬車鉄道が4.6キロメートルというが、 現在の道路もおおよそ昔の軌道跡につくられているので、同数の距離と思われます。
 
 車の道は旭鉱近くで左は川、前方に車道がなく遮断されるが、この川の北東側一帯の付近は鉱石置き場、 トロッコ線・事務所・旭鉱社宅・小学校などが建ち金銀採掘でにぎわった幻のまちがあった。
 
 車の行き詰まり地点から北西側に進み右手の沢を進んだ辺りが金銀を採掘した旭鉱山である。広い山の中の 斜面に狭い小さな坑口もあるが、樹木や笹におおわれ路もなく初めての人には全く分からない。坑内は、坑口 から中の坑道が左右に別れ、水平坑道や斜坑(しゃこう)もあり一応鉱脈に添った形で掘られている。
 
 
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 途中所々に垂直の立坑(たてこう)もあるが、これは採掘場所の坑道が高い所にあるので 採掘をした鉱石を立坑から落とし、下の運搬道路から外へ搬出するのである。
 
 前記の道の行き詰まった川のそばに流盛坑という坑口のあることも、鉱山生粋の主、千葉辰男 氏から教えていただいた。
 
 また、銅の富鉱として知られる岩の崎鉱は、鉱山橋手前を右手へ100メートル程行くと、 右手に小山がある。これが岩の崎鉱山で現在遮断された坑口の2か所が見える。
 
 鉱山の工場は、鉱山橋を過ぎ右手へ行くと二股があり、更に北側右手に進んだ所が銅の製錬所跡。 直径1メートル余り、高さが5.5メートルの溶鉱炉8基を備え付けた粗銅生産工場も立ち並んでいた 所(前号写真)である。銅製錬所の西北側に日本一の生産を誇った硫黄の製錬所があった。また、金・ 銀・硫黄でにぎわった幌別鉱山の経営者は前号紹介の小田良治であるが、実際に鉱山に入山して 事業を進め発展させたのは、アメリカで知り合った河合敬二で、ちなみに明治43年(1910) 鉱山1カ年の鉱石の運搬量は約4万トンと言われるが、鉱山で製錬された粗銅(金・銀を含む)は、 1本30キログラム程の長方形のナマコにして幌別駅から大阪三菱精錬所に送っている。
 
 事業発展に伴い、道路の開削軌道の敷設(馬車軌道)、工場施設鉱山事務所、労務者の長屋住宅や 会社のクラブ施設・診療所・役場支所・小学校・郵便局・警官派出所・雑貨店・木賃宿なども 建ち並び盛況を極め、一時は幌別郡内第一の戸数を誇ったほどでした。
 
 
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 小田良治が、当時400万円という莫大な資金を投入したのも北海道の鉱物資源に 眼をつけた三井が三菱などに対抗した施策の表れであるが、それにしても幌別鉱山旭鉱 の金は小田を奮起させたに違いない。
 
 当時の金は、世界の貨幣として国際間に移動する特異な商品であり、貿易の主流は 欧米では、勿論金本位制、金の保有量や金の国内での産出量は一国の経済を左右する 大問題であった。また、世界史の中で時の権力と結び付き希少性(きしょうせい)と美しい 光沢ゆえに金ほど尊重された金属はない。展性(てんせい)・延性(えんせい)に勝れ 金箔の厚さは1万分の1ミリ、1グラムの金は3キロメートルの長さの針金になる。 空気中、水中でも変化せず、普通の無機酸にも溶けないので金属では最高。
 
 我が国の金は、生産量も少ないのに江戸時代末期の開港と同時に大量に外国へ流出 したのである。明治新政府も全く金がない。日清戦争の勝利で得た賠償金の3億6千万円 (邦貨)で我が国の金本位制を確立した状態であった。
 
 幌別鉱山、旭鉱の金に熱い眼を向けられるのも当然であろう。
 
 
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鉱山町を訪ねて「幌別硫黄鉱山の友子制度」

 草鞋(わらじ)の藁(わら)の目に、金を隠して持ち出したと言われる程に沸いた幌別鉱山旭鉱の金。
 
 金は、日本人好みで、現在も酒の中に金箔を入れたものもある。「毒性がないのかな」と危惧(きぐ)されるが 何しろ金箔の厚さは1ミリの1万分の1という薄さになるので、酒に混入しても実に微量、身体に 直接の害はないようである。
 
 さて、幌別鉱山を全国的に有名にしたのは硫黄の生産にあった。
 
 硫黄鉱山の場所は、幌別鉱山の北側壮瞥町の黄渓で弁景川の上流にある。
 
 オロフレ峠から壮瞥町の方へ約6キロメートル下ると左手に弁景川の大きな沢が見え、笹原のハゲ山が広がり 大きな樹木は生育していない。この沢の東側が旧壮瞥村字硫黄山・旧硫黄鉱山であるが現在は誰も住んでいない。
 
 明治35年(1902)ころ、樵夫(きこり)がこの渓流中で硫黄鉱石の露頭を偶然に発見したのが始めと言われてるが、 幌別鉱山を開発し札幌五番館経営の小田良治が明治44年大量埋蔵の硫黄鉱床を発見、早速操業に乗り出し、大正5年(1916) には1万9千トンの生産に達し我国第一の硫黄生産を誇った。
 
 
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 その後、生産量の多かったこの第一鉱床で坑内火災や坑内陥没などの災厄がおこり、 第一次大戦後の不況に会い一時頓挫(とんざ)をきたしたが、 旧鉱床の東北部に、東西延長700メートル、南西300メートル、厚さ20メートルの 新鉱床を発見。また、大正9年小田良治が退陣し三井財閥系の硫黄鉱山と合同して北海道 硫黄株式会社となり鋭意近代化を図り生産の立て直しが行われた。
 
 採掘された硫黄鉱の品位は85パーセントの良質の黄鉱(おうこう)や、質の落ちる 黒鉱(くろこう)、縞鉱(しまこう)などがあったので、硫黄鉱山(元山)と幌別鉱山で製錬した。
 
 製錬法は、耐火レンガで造った火炉の上に直径約1.2メートルの鉄製丸釜に鉱石を入れ、 粉炭(ふんたん)で加熱気化させ、蒸留した硫黄をパイプで冷却し受釜(うけがま)に流出させた。 溶けた精製硫黄は型罐に入れ1個約30キログラム程の円筒型の製品にし、硫黄鉱山から、硫黄製品・ 硫黄鉱石を幌別鉱山まで約9キロメートルの山中を玉村式索道(ロープウエー)で1分間約 110メートルの速さで搬出し、鉱山から軽鉄道で幌別駅に送った。
 
 硫黄鉱山には、鉱員長屋・合宿所・診療所・日用品を扱う直営の分配所・小学校なども設けられ、 また、採鉱夫・製錬夫・工作夫など当時鉱夫として従業していた人は560余名である。
 
 ところで、発生的には江戸時代の鉱山坑夫の間に、相互扶助の立場から組織されたといわれている 「友子制度」という組織が幌別硫黄鉱山にあったことが「幌別硫黄山、友子同盟連判状」という縦19センチ、 長さ3メートル余の書状で確認された。
 
 
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 北海道開拓の裏面史として、明治期の鉱業資本確立のため生産と利潤第一主義の 中心にあって労働団体の組織もなく、過酷な労働を訴える術もなかったこの時代に仕組まれた 囚人労働・土工部屋(たこ部屋)など、使い殺しの監獄部屋が、特に炭鉱・道路開削・鉄道 工事でおびただしい犠牲者を出していたのは周知の事実です。
 
 友子制度は、特に鉱業などの危険な作業、傷害や不安な生活の中で坑夫や家族が助け合うという 相互救済的組織で前記の時代からあるが、反面に親分・子分関係で繋がる性格のものであった。
 
 友子として一人前の鉱夫になるには、堀子(ほりこ)とか新大工(しんだいく)と言われる 修練期3年3月(みつき)10日の期間は親分・兄分から採鉱技術を学び、親分の身の回りの世話、 仲間の病人看護や葬式の墓穴掘り・棺桶担ぎ他の鉱山との連絡などあらゆる雑事も絶対服従で追い回された。
 
 この修練期を務め上げると初めて友子加入、鉱夫としての資格が認められ、親分・子分・兄弟分の 関係を結ぶ儀式「取立式」の盃を交わし一人前となる。
 
 友子になると本人・家族の災厄・疾病・死亡の場合は米や金を集め、不足の時は他の鉱山に奉願帳を 回し、多くの援助を得て救済を行い、その機能は全国的に広がりを持つ共済活動であった。
 
 さて、幌別硫黄鉱山の友子制度の実態はどうであったろうか。
 
 
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鉱山町を訪ねて「友子(ともこ)制度と友愛会幌別支部の結成」

 明治40年(1907)の北海道の人口は139万人。現在の札幌市は172万人で、 札幌市よりずっと少ない老幼男女を含む人数が、九州と四国を合わせた以上に広い北海道の 地域に、当時点在していたのである。
 
 富国強兵・殖産興業のためにも北海道の開拓は急を要し、また豊富な資源の開発は資本家に とり涎(よだれ)のでるような投資の場であった。ところが、前記のような人口数が少なく、 一応は農・漁業で定着しているので、鉱山・道路・鉄道などの開設工夫の供給は、地元道内に少なく 本州からの応募や渡り労働者に頼らざるを得なかった。明治41年の北海タイムスに「幌別 鉱山も愈々(いよいよ)本業にうつり、工場の設備を取り急ぎ、建築材料としての木材・煉瓦(れんが)・ セメントや諸機械の運搬、製錬場の設置、原料たるコークス・酸化鉄など毎日の如く馬車鉄道をもって 幌別停車場より鉱山へ運搬せり。それにしても鉱夫・雑夫(ざつふ)・土工夫(どこうふ)・大工・ 木挽(こび)きに至るまで労働者の人数が足りず、現在諸所に人を派遣して募集中なり」と記載している。
 
 「本州地方に父がよく募集に行った」と言われる鉱山関係者から伺うとやはり、全国的貧困地域の 東北地方の応募が多かったようだ。
 
 また、前号紹介の「幌別硫黄山友子同盟文」とは別に「幌別山鉱坑夫交際会」で事務所は「指定番場に置く」。 内容は、規約・役員・月当番・会員及び入会・浪客人寄飯取り扱い・奉願帳・共済・友子取り立て・ 会費・表章・制裁の項目が第1条から第29条まで規定され細則もある。
 
 
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 友子における「親分・子分の関係」、友子の「取立式」、他山を訪れる場合の「一宿一飯の 仁義口上」などを考えると、小学校あり郵便局・役場支所・診療所・クラブそれに従業員社宅 も整備された中での暗部の存在であろうか。北海道開拓に伴う闇の部分「奈落の人々」の歴史は全道 各地に多い。北海道炭鉱鉄道の土工制(たこ部屋)点描38・39号「伏古別隧道(ふしこべつずいどう)」 ととも他に記したいと思う。
 
 それにしても、幌別鉱山には、我が国労働組合運動史上で画期的な「友愛会の結成」労働組合もつくられていたのである。
 
 友愛会は大正元年(1912)鈴木文治により組織され大正8年大日本労働総同盟友愛会と改称するが、これより我が国 最初のメーデーも開催され、日本農民組合の結成、吉野作造の民本主義運動、婦人運動、江戸期から 法的に拘束された賎民(せんみん)階級穢多(えた)・非人の部落解放運動や社会運動の高まりの中で、 普通選挙運動にも繋がるものであった。
 
 北海道では大正2年、友愛会室蘭支部設立協議会が日本製鋼所を中心に設けられ、翌3年6月道南地方唯一で最大の観劇場 「母恋の共楽座」で発会式を行った。
 
 このとき、鈴木文治会長と挨拶した室蘭支部の顧問三木治郎と同庶務会計担当の松岡駒吉は直ちに入会し本部員となり、 松岡は戦後片山内閣時の衆議院議長、三木は参議院の副議長になっている。
 
 
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 幌別鉱山の「友愛会幌別支部」はこれらの影響を受け、輪西製鉄所を中心とした輪西支部 より早い大正5年2月、30人で結成、中心メンバーは小林立蔵と日鋼から入山した石井敬助 の子石井豊一である。鉱山の労働運動が、どのように活動されていたかは明確ではないが、 鉱山町の千葉辰男氏の御母堂ミカさんから筆者の聞き取り調査では「ヤマで時々ストライキを していた」と言う話だけであった。
 
 幌別鉱山の友愛会幌別支部の運命は、大正6年3月14日から日鋼の大争議によって左右される。 第一次世界大戦の日鋼は大好況の中でも賃金が増えず、最大数3810人のストライキに入った。
 
 会社側では集会制限や禁止。警察は札幌からの応援を加え指導者の逮捕。また旭川第7師団長 藤井中将も出てくる始末。多くの解雇、逮捕者、治安警察法違反で起訴された。大正時代のことである。
 
 この争議の敗退により、登別市最初の労働組合、幌別鉱山の友愛会幌別支部も解体するのである。
 
 

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