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郷土史点描(2)   宮武 紳一

硫黄の山登別温泉

 江戸末期に登別地方を描いた、「東蝦夷地ホロベツ御場所の図」をみると、 ヌフルベツ川の上流に「硫黄山」と書いた山がある。温泉への道は「満山硫黄 有り、温泉湧出する所には美しく硫黄堆(たい)をなす、鉄の釜二十計(はかり) も山頂に有り」などと硫黄に関する記録が多い。
 
 江戸幕府直轄以前の松前藩時代、既に蝦夷地で東部恵山と幌別場所ヌフルベツ が硫黄算出場所の二本の指に入り道内で古い歴史をもっていた。
 
 資料では、寛政九年(一七九七)から五年間松前商人の森瀬屋治兵衛が南部藩 の許可を受け(和田郡司日記)、寛政十一年には登別の生島文右衛門が採掘して いる。それから約六十年後の安政五年(一八五八)、登別から温泉まで新道をつくり、 温泉湯治の止宿小屋を初めて建設した近江商人の岡田半兵衛が温泉湯元(地獄谷) の硫黄を製錬し、運搬は叺(かます)一つに十二貫入り(四十五キロ)を馬に二つ付け、 馬五疋(ひき)を一人で引かせる馬船頭の方式で運び、幌別から沖繋(おきかが)り で船積みし箱館で交易している。
 硫黄の利用を考えてみると、中国では世界で最も早く硫黄から黒色火薬を製造し、 約七百年前、日本に来襲した蒙古軍が使用した「てつはう」という爆発物は、鎌倉武士団 を大いに悩ませたが、これが硫黄の多い火薬であった(竹崎季長(すえなか)の蒙古襲来 絵図)。平清盛が行った日宗貿易(中国貿易)の日本の輸出品は、金・水銀・刀剣の他に 硫黄が特産品として中国や朝鮮(高麗国)に輸出されていたのである。
 
 
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 一五四三年の鉄砲伝来から戦国大名は鉄砲と火薬製造に力を注ぎ、天下統一 を早め、大阪の役では大筒(おおづつ)も威力を発揮している。
 
 黒色火薬の製造は簡単にいうと、えんしょう(硝石)・いおう・おからはい (木炭灰)の三原料を調合したもので、狼煙(のろし)や花火・土木工事の爆発物 としても使われた。
 
 硫黄を医薬用に使った歴史は古く、呪術用に硫黄燃焼の臭気や青白い炎も利用 されている。江戸時代は特に「付木(つけぎ)」として江戸・大坂・京都などの大都市 で盛んに生産され、贈答品としても全国で使用されていた。「付木」とは、火を熾(おき) や火口(ほくち)から移す幅二センチ、長さ十五センチほどの柾目(まさめ)の木片に 熱で溶かしたイオウを塗ったもので、便利な火付けのマッチも明治八年(一八七五)東京で 製造されるが地方では昭和初期まで使用されている。
 
 さて、登別では、江戸幕府の第一次直轄時代(一七九九以降)は鷲別岬に狼煙場が 設けられ、第二次直轄時代(一八五四以降)は南部藩の警備地、後に南部藩領となっているが、 何れも諸外国、特にロシアの進出に対し軍事的に警備し対抗しようとした時である。
 
 仙台藩白老元陣屋では、当時「修羅場」と称する実戦さながらの演習が行われ、鉄砲打方 として大筒や火縄銃の撃ち方も稽古していたので火薬も大量に使っている。南部藩出張陣屋 (室蘭市)でも、大筒を十八人各々一発ずつ試射した記録がある。但し射程距離十町 (約一〇九〇メートル)の目標が最も遠くて一町(一〇九メートル)最悪のは僅か二間(三・六 メートル)前に砲弾が落ちたという。南部藩陣屋の戦力の如何はどうであれ 仙台陣屋も含めて火薬庫跡を双方とも陣屋裏山側に残している。温泉の硫黄もこの辺に 曰(いわ)くがありそうに思える
 
 
 
 
 
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鯨と登別のかかわりⅠ

 登別市と室蘭市の境界に突き出ている鷲別岬は、通称「鯨岬」ともいわれる。登別・幌別 方面や室蘭イタンキ・トッカリショの方から見ても岬の形が「鯨」に良く似ているからであろう。 また、鯨岬のふもとにある鷲別神社は、別名「鯨明神」と言われ神社境内の片隅にある 小さな板に墨書し鯨と関係の深い神社であることを示している。
 
 一九〇五年(明治三十八年)の春、鷲別の前浜(鷲別町一・六丁目付近の旧字地名)に大きな 一頭の鯨がうちあがった(寄鯨=よせくじら)ので村の人達はこれを売って基金とし、神社を建て 鯨の骨の一部を境内に安置したという「鯨明神の由来」も説明されている。
 
 登別と鯨の関係は、登別駅の海岸側の小山、フンペサパ(鯨・頭)、通称フンベ山の伝説でご 承知のことであろう。
 
 昔、太平洋の海中に「ショキナ」という巨大な鯨に似た怪魚が住み人間に害を与えていたので、 神々は相談してショキナの退治に出かけるが失敗し、最後にカワウソが登別の神々の助けを受けて 見事にショキナを退治し、そのお礼として登別の神にその頭の方を置いていったのが登別のフンペサパ であるという話である。
 
 また新しくフンベ山にできたトンネルの西側を、スサシコツ(幣場に行く沢)沿いに南西の方向に 上ると、オンネヌサウシ(古いご幣場)という広場があって昔ここで大漁を祈ったり遭難者を救う 祈りや鯨祭りをした場所であることが伝えられている。登別川が蘭法華(富浦)岬の方に河口が向くと サケが豊漁であるが、フンベ山に近づくとフンペ(鯨)が食べてしまうので不漁になる、という 伝説も知里・山田先生の「幌別町のアイヌ語地名」に説明されている。
 
 
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 鯨明神や鯨岬に関係のある鷲別の鯨については江戸末期の古文書にも記載されている。
 
 テレビに放映されて人気のあった江戸北町奉行の遠山金四郎は、入墨判官でおなじみの 奉行であるが、彼の父遠山金四郎景晋(かげくに)は幕府の蝦夷地改革の功労者で、 一七九九年(寛政十一年)江戸幕府が東蝦夷地(太平洋側)を直轄するに当り、江戸西丸 小姓組から蝦夷地御用係りに任命されて蝦夷に渡って功績をあげ、一八〇四年(文化元年) 幕府の目付として、長崎に来航したロシア使節レザノフと会見し、日本国が鎖国中であることを 理由に退去させている。
 
 その後、西蝦夷地(日本海・オホーツク海側)を巡視し、一八〇七年(文化四年)西蝦夷地も 幕府直轄とし松前藩を東北の梁川に移封している。ロシアの東蝦夷地襲撃には南部、津軽、秋田、 庄内各藩の防備監察の役につくなど北海道に関係深い江戸幕府の役人であるが、遠山景晋が初めて 来道した時の「未曽有之記」という本人の記録がある。その中に、ムロラン(崎守町)を五つ時 (午前八時)前に出発して、本輪西の裏山からチリベツ(室蘭の知利別町)を通り、鷲別に到着、 仮小屋で休み昼食をとっているが、この鷲別の小屋から「遥かに、鯨の潮を仰ぎ見ゆる画窓のごとし」 と絵のように美しいと感嘆し、その後も時々鯨が潮をふきあげている様子を記録している。
 
 当時は、登別・鷲別の沖にも春から夏にかけて鯨が、そしてイルカも多く遊泳していたのであろう。
 
 
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鯨と登別のかかわりⅡ 刈田神社とくじらの鳥居

 今から八十年前の明治四十三年、夏に近い頃である。トンケシ海岸に一頭の巨大なクジラが 寄りついた。波は穏やかであったが満潮の時に岸へ近づいたので潮が引くと眼の前が小山の ように見える。
 
 当時の町の中心地幌別村字ハマ(幌別町一・二・三・四丁目)の海岸からは遠いがわずかに 見えるのでにわかに大騒ぎとなり、海岸伝いに幌別川の浅瀬を腰までつかりながら川を渡り、 鉄道線路上を通って見物に行く人も多かった。
 
 トンケシの海岸地域は小字(あざ)名がトンケシで「寄りクジラ」の場所は現在の大和町一丁目 の西側、二丁目に近い所である。
 
 この時のクジラの大きさは、井上家の記録によると百二十尺。発見者は大勢居たようであるあるが 買いとった人は、当時幌別村前ハマやトンケシ、室蘭のポンモイ(栄町・本町の電信浜で小さな 入江の意味)トッカリショ(母恋南町・海豹(あざらし)岩)マスイチ(増市町・海猫の家)などで手広く 漁業を営んだ井上伊勢八(阿波国三好郡出身)である。
 
 百二十尺は約三十七メートルもある。地球最大の動物シロナガスクジラは、国際捕鯨統計の 記録によると最大級で約三十一メートル、体重百トン以上。これでも象一頭三・七トンとして 二十七頭、牛五百五十キログラムで百八十頭。人間約千六百七人に相当するがこれよりも 大きいと言うから驚きである。
 
 あまりにも大きいので岸からはしごをかけてよじのぼり、まさかりや鋸(のこぎり) で叩き割ったり引き切ってやや小形にして、近くの仮小屋に運んだと言います。肉の 一部は馬車で運搬し、室蘭方面に出荷したらしいが暖かい時期なので腐りやすく、釜 炊きして締め木で搾(しぼ)り残ったものを「くじら粕」として骨の部分とともに 肥料用に売りさばいたが全部を処分するのに二年もかかったと記録されています。
 
 
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 またクジラの顎の骨は、当時札幌本道(国道)に面し幌別村字ハマ(幌別町一丁目) に設置されていた刈田神社の鳥居として井上伊勢八、小堀某の名で奉納された。
 
 刈田神社は、江戸時代から胆振鎮護の社、妙見稲荷社などとして会所や運上屋敷に 奉斎され、明治四年(一八七一年)に片倉家縁(ゆかり)の白石刈田嶺神社の祭神 日本武尊を分霊したが道南地方でも数少ない古い歴史をもつ社である。
 
 クジラは、登別地方の漁民にとっても昔からの海の神の使者として畏敬され、海上 を航行したり漁をしている時にクジラが現れると「おえべすさん」と言って祈り、 沖言葉でクジラはえひす・えみすと言い七福神の福徳の神、漁師にとっては 大漁の神、恵比寿様であった。
 
 本道に面した刈田神社のクジラの鳥居は道内でも珍しく、クジラ神社の異名もあり遠方 から縁起の良いクジラの鳥居をくぐり詣(もう)でる人も多く、大正十一年 (一九二二年)境内が狭いことから社は現在地に移転し、クジラの鳥居も復元 したが、その後朽ちはてて現在は残った一部分が刈田神社に保存されている。
 
 また登別には、クジラまつりの祭り歌・ウポポの歌と踊りもあってアイヌモシリ の時代から、クジラと人の深い関わりのあったことを知ることもできるのである。
 
 
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ヌプルペツの鯨祭り

 登別駅の南、通称フンベ山は海岸に添って約一キロ程の長さがあり、 山上の高台西側に「オンネヌサウシ」というお祭りをする場所があった。
 
 山田秀三先生は、オンネは「齢老いた」という意味だが地名では「大きい」 という意味の大きな幣場をさして、特に鯨祭りをした場所であったのでしょう、 と古老から聞いた話を交えて説明してくれたことを思い出す。また、冨浦の高台、 リフルカから知里真志保博士の顕彰碑があるハシナウシ(海の幸を祈る幣場) やカムミンタル(神の庭)と呼ばれる神聖な所は、富浦町五丁目山下さんの牧場南西の 岸壁にポールンナイ(洞穴・そこにある・小川)と呼ばれた綺麗な湧水のある付近にも あった。また、屈強な若者達が沖漁に出かける時には、豊漁であるように、事故なく 無事に帰れるように祈願する特別の祭壇もコタンごとに設けられていたのである。
 
 祭りは、豊漁と平安無事を祈願するだけでなく、沖の神の国から人間の村に遊び に来るお客(獲物)を迎える場所で、また人間の村から神の国へ土産を持たせて 送り返す所でもあるので、特別に神聖な場所が選ばれたようである。それにしても、 当時は手漕ぎの小舟で沖合に出漁することは危険なので潮で流されても 鯨に数十キロ引っ張られても心配のない噴火湾内でモリ、オトシベ、レブンゲ沖合 を走り廻った一頭の鯨に二日間、十数隻の苦闘の様子が記録に残されている。然し 登別地方でも海用の底の深い丸木舟や船縁(ふなべり)を高くした板綴船を持って いたから、六月から十一月にかけてイルカ、マグロ、マンボウ(暖流魚で大きいのは 全長二メートルもある)などの大魚を取ったであろうし沿海の鯨に挑戦したことも 充分に考えられる。
 
 当然。舟には銛(もり)を数本積んでいく。銛先は鋭い金具で作られ溝には猛毒の とりかぶとの根から採取した毒液に鴉(からす)や狐などの肝を少し入れて練り合わせ、 銛先の溝に塗りつける。陸の動物の肝は銛を打ち込まれた鯨やイルカなどが暴れても 浜の方へ寄ってくるようにと呪(まじない)いのために混ぜるらしい。
 
 
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 登別に実在したアイヌの歌謡や詞曲、呪文、散文物語りなどは、知里博士や 金成マツ媼(おうな)など偉大な文学者のお蔭で残されているが、祭りの歌であるウポポ には、酒造りの歌、栗搗(つ)き歌、熊送り歌、綱を廻る歌(熊送り)、クルミまき歌 などが残され、本題の「鯨祭りの歌」がある。
 
 寄り鯨が上がったので喜びを歌ったもので、女の人が腰を曲げ眼をつぶって盲人の 身振りで次の歌をうたう。
 
 “浜の方で音がする   鳥だろうか音がする   水鳥だろうか音がする   何か陸へ上っているよ   眼の見える人達よ   行ってごらんよ   音がする”
 
 次に多くの人々が一緒に立って手を打ちながら

 “おお天降(あまくだ)った あそこに
  本当に天降った あそこに
  神が天降っているよ
  あそこに天降っているよ”
 
 鯨を真似て寝ている人の周囲で大勢が歌をうたい合う中で、盲人を真似した 老婆が杖をつきながら「鯨の人をさがしあてると、周囲の人達が鯨人を胴上げ して“胸肉貰うよ”」などとうたうが鯨が岸に寄り上ったのを盲人の巫女が予言し、 また次に寄り鯨があって欲しいことを念願した呪術劇であろうか。
 
 それにしても、鯨が寄り上るということは、食料が入りきれない程の入った大きな 倉が流れ寄った程素晴らしい大事件であるから、登別の大勢のコタンの人々が集った 盛大で大賑わいのお祭りであったことであろう。
 
 
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登別の開拓と動物たち その1「ウマとのかかわり」

 登別市内で静かなたたずまいを見せる森や路傍、寺の社には今日でも約三十五基の 馬頭観音(観世音)がある。
 
 観音は苦悩する人の声を聞き救済することを本題とするので、この観音をもって 馬のめい福を祈り奉ったものであろう。人間に良く慣れ力強く走るのも早く利口な 動物なので、人類の歴史上では約五千年前にメソポタミアを中心とする 古代都市文明の遺跡からウマの飼育のあとが見られ、中国でも約三千五百年前の 殷王朝時代にウマを引かせた二輪の戦車や多数のウマの殉葬が発見されている。
 
 日本のウマは、古代に朝鮮半島を経て渡来した人たちにより移入されたものである。
 
 北海道へのウマの最初の移入も飼育の盛んな東北地方南部氏から逃れ、渡道した 津軽安東氏の時代なのであるかは不明であるが、しかし百五十年後、蠣崎氏から 松前氏に改名した(一五九九)松前慶広の時には同地方で少数のウマが使用されている。
 
 登別地方で初めてウマが見られたのは寛政元年(一七八九)国後(くなしり)・目梨 (めなし)でアイヌらが決起した「寛政の乱」のときと言われている。乱が起こってから 二十五日後に知った松前軍は、砂原(森町東南)からイワシ網船七隻に分乗し海上から エトモ(室蘭)に来たがこの時ウマ二十頭が同時に運搬され、そのうち十頭が登別を通っている。
 
 
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 この様な事件の発生や外国船が渡来し、特にロシアが北方から南下するようになると 幕府は蝦夷を直轄とし南部・津軽藩に警備を命じ、幕府役人や北方警備の武士の交通を 便利にするために箱館から根室方面への沿岸道路を初めて開削して宿泊所を設け 宿場から宿場へ荷物などを送る駅逓(えきてい)の役をする者も命じた。どうやら箱館から釧路 までウマで行けるようになったのであるが松前藩が再び治めるようになるとまた途絶えてしまう。
 
 安政二年(一八五五)東蝦夷地海岸図台帳によると「ホロベツの会所は良い家で建坪 百四十七坪、鍛冶小屋、大工小屋、秋味小屋、雑物蔵四か所あってアイヌの家五十二軒、 男女二百五十七人が居る。馬七十二頭、そのうち子馬は三十四頭」と記録され、 相当数ウマも増加しているが、この時代は江戸幕府の第一次蝦夷地直轄(一七九九)から 約五十五年を経過した後のことであった。
 
 北海道の名付け親、松浦武四郎が安政五年(一八五八)登別温泉に行く途中カモイワッカ (中登別)で綺麗にわき出ている水を飲み一休みして山路を登るとはるか南の下方に ウマの群が見えたのである。
 
 文筆にすぐれた武四郎は、早速次のうたを詠んだ。
 
 山かげに今や清水をかひつらん
 群ぐる駒の いさましくみゆ
 
 北方警備のため南部藩は恵山から登別までの警備に当たるようになったので、南部特産の ウマを交通用馬として移入したのであろうか。登別には官馬として飼育され、かなりの数の ウマが居たものと当時のうたからも推測される。
 
 

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