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郷土史点描(1)   宮武 紳一

「オニ」と温泉ー登別

 今年度、登別最大の行事として注目される全国の「鬼サミット・登別」が、八月の「登別温泉 地獄まつり」に併せて、全国から鬼の先進国を迎え登別で開催される。
 
 オニ文化の全国首長のシンポジウム、鬼文化講演会、鬼についての芸能発表、鬼展示会、鬼パレード など、もろもろの鬼に関する大行事である。千年以上に及ぶ鬼の伝統文化をもち、「鬼のことなら わが町に」という鬼自慢の人達が全国から集まる鬼の大集会は圧巻であろうし、登別が「オニ文化」を全国に紹介する 波及効果は絶大であろう。それに市制二十周年記念行事としての意味もある。
 
 江戸時代の資料は、登別温泉の火山活動の激しさを灼熱地獄の修羅場に例えている。
 
 北方探検家として有名な松浦武四郎の初航蝦夷日誌に、「温泉川の西に硫黄を煮たる 釜あり、三・四丁(三三〇メートル~四四〇メートル)にして此処、礁石・礁砂、中程に 温泉元有。燃え上って行き難し。凡四・五十間の間焼灰のみにて常に黒煙立上れり、山は 燋(やき)崩れ温泉元の煮る音は百千の雷を轟す如くにして、此処に湯治する人頭痛を して帰る人多し、また噴き上げる熱湯三か所あり、此の山中霊あること其の地に至らば、 心根物凄じくしてあやしく覚ゆるにて知らるべし。もし内地に有らば賽の河原(鬼の出る) ・生途(しょうず)の川(三途の川)の名もつき、嫁そしりの婆々の洗濯場ともなるべし」 と地獄谷の景観を記している。
 蝦夷地調査をした「野作(えぞ)東部日記」は、地獄谷の情景を「実に焦熱地獄とも 言うべし、畏(おそ)るべし」と記し、両者とも鬼のすむ地獄に例え、奈落(地獄) の底を歩むが如く恐ろしい場所であることを表現している。
 
 
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 霊山・霊地としての伝説は、鎌倉時代の日進・日持の来泉を伝えるが虚実であっても意味が大きい。
 
 寛文五年(一六六五年)頃、蝦夷地に渡り、一本造りで彫った円空の「鉈作り観音」 は、三河国出身の菅江真澄が有珠善光寺の小祠(ほこら)で発見した三体の中の一体で 「のぼりべつゆのごんげん」と背面に彫ってあることを実証している。(えぞのてぶり)。登別温泉 が当時も霊地として広く知られていたのであろう。
 
 地獄谷は悪行をなしたものが死後、鬼の呵責を受ける地獄であるが、登別温泉は前記の ように霊地・霊山で、神・仏の存在する浄土の地でもあった。
 
 現在、湯沢神社前には三・五メートルの赤鬼立像と、二・二メートルの青鬼座像が並び、 その間に鬼祠(ほこら)があり、江戸時代から伝わるという「念仏鬼像」もまつられている 勇猛な鬼が仏を守り、また念仏を唱え仏を信じたならば鬼は人間を諸悪から守ってくれると 言う事と身を熱湯に投じて命を絶った多くの霊もまつられている。
 
 熱湯があふれ出る地獄谷に、年一度地獄のカマのふたが開き、エンマ大王の命令で、 親善使節として人間の住む街にやってくる赤鬼・青鬼を、地獄ばやしや鬼踊りの大群舞で迎える 「登別地獄まつり」も今年で二十七回を数える。登別東インターチェンジで客を迎える赤鬼は、 身長十八メートル、体重十八トンもある。力強い登別の「オニ」のイメージも、市民に 定着しつつあるように思うがいかがであろうか。
 
 

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「色の濃い川」ヌプルペツ

 ユーカラの伝承者として著名な登別出身の金成マツ媼の伝えるユーカラに、「神の掟に叛いた 若者が、道を誤って赤い谷間に湧く熱湯に落ち、神の国に昇天した」という一節がある。
 
 アイヌの自然生活で、神が罰を与える場合「灼熱の地獄谷」が出現する例は珍しく、アイヌモシリ 時代から、神罰を与える霊妙の地として登別温泉が存在したのであろうか。アイヌ語地名も 沢山ある。その中で登別・ヌプルペツを「濁っている川」と訳される人が数多い。登別出身の 偉大な言語学者知里真志保、登別をこよなく愛して下さるアイヌ語の大家山田秀三先生は 「ヌプル」は、神や巫女の「霊力のある」という言葉で、強いという感じ、色や食物の味では 「濃い」という意味を現しているので、ヌプルペツは「色の濃い川」であると訳されている。 江戸末期の野作(えぞ)東部日記(市川十郎)にも、「ノホリヘツはヌフリにて水色の 濃いというアイヌ語である」と説明している。
 
 お二人の先生が登別温泉の大湯沼へ行った時、湯沼の西方に流れる鼠色の流れを、知里博士がみて 「これがヌプルだ!」と嬉しそうに語ってくれたことを山田先生は「登別・室蘭の アイヌ語地名」の中で述べております。
 
 登別出身の知里博士は、ヌプルペツを「温泉出で川に注ぐを以て、水常に濁る故に・濁川」 とした永田方正の北海道蝦夷語地名解、ジョン・バチェラーの英話辞典などの、表面的で簡単な 意味の解釈に反発し、濁っているのであるが、言葉のもっている語源を正確に理解し、 色の濃い川と名付けたわけで、山田先生も道内の濁り川をそれぞれの意味をもった言葉で 丁寧によんでおられます。
 
 
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 実際に登別温泉の大湯沼を巡検すると、昭和新山溶岩丘と同様、地下で固化した 新溶岩が地盤を押し上げて生成した日和山(標高三七七メートル)の眼下に、続いて 爆裂した火口跡に作られた周囲約一キロメートル、灰黒色の大きな湯沼「ポロトユ」 は普段見馴れた我々は驚かないが、学術上世界的にも珍しい大湯沼である。湯沼の底部 は最深約二十二メートル、数個の擂鉢状窪地になり、深部は百三十度の高温、表面温度 四十~五十度、塞ぎとめて満々と湛えた湯は、西方の大湯沼川・ユーエサンペツで 流出している。ミズナラ・イタヤカエデなどの浅緑の樹林に被われた大湯沼探勝歩道を、 大正地獄から下手の湯川の流れに添って歩くと、赤褐色の湯床を、白粉と紺青を掻き たてたような湯色が、湯煙に包まれながら惜しげもなく滔々と流れている情景は 実に幻想的で知里博士が神秘的なこの流れを感激して「ヌプルペツ・色の濃い川である」 と語ったことも、実感として我々に充分頷ける場所であった。
 
 知里・山田先生の、ヌプルペツの意味は「色の濃い川」である事を登別の語源として 確認したいですね。
 
 このユーエサンペツと勝どきの滝の流れが地獄谷川などと合流し、クスリエサンペツ 「薬湯・そこを・出てくる・川」の本流として、新登別大橋の下流で千歳川と 合流し登別川として流れている。
 
 
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登別温泉の文化財Ⅰ

 安政四年(一八五七)江戸幕府直属の箱館奉行堀織部正、翌年同奉行村垣淡路守らが、 蝦夷地巡検の際「鎮台(奉行)ハジメ何レモ疲労、一身満汗、八・九丁毎ニハ屹ト小憩ス」 と全身汗だらけで苦労しながら、登別温泉を視察しているのは特別な事で、温泉規模、 景観、霊地、経済的に満山硫黄を評価し名湯であると述べている。
 
 北海道の名付け親、松浦武四郎は「金瘡(刀傷)・打ち身・疥癬(かいせん)・諸瘡ヲ 第一トス」とその効能を書き、「奇トスルハ獣鳥類トモニ此処ニ身ヲ過テ来リ、沐スルコト 度々見侍ルト、虚談ニモアラザル様ニ聞ケリ」。獣や鳥まで入湯にくることを聞いたが 嘘のようにみえないと述懐している。
 
 アイヌ語のクスリエサンペツ(薬湯・そこを・出てくる・川)、アクユ(われら・飲む・ 温泉)、シッカルユ(目を・治療する・温泉)などと呼称される地名もうなずける。明治 三十八年(一九〇五)日露戦争の負傷兵医療所として陸軍省の指定を受け医療との関係も深い。
 
 とにかくひところは北海道温泉場で郵便物が届き、東洋一の温泉場として知られるのも素晴らしいことであった。
 
 
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 明治期に来泉した政・財界人も数多い。五稜郭で倒幕軍と戦った榎本武揚をはじめ、 北海道初代長官岩村通俊、渡辺千秋、調所広丈(ずしょひろたけ)、後藤新平、 尾崎行雄、渋沢栄一らの面々。文化人として佐々木信綱、大町桂月、徳富蘇峰、 与謝野寛・晶子、有島武郎、高浜虚子、徳田一穂、武林無想庵、森田たま、斉藤茂吉、 山崎剛平、臼田亜浪ら、第二次大戦後、伊藤整、中野好男、高見順、武者小路実篤、 志賀直哉など名前をあげるときりがなく、登別温泉に残した彼らの文筆による 文化的遺産も数多く残されていることであろう。
 
 その中で歴史的遺産物がよみがえり、文化的遺産が生まれているのも事実で温泉ならではと 思われるものがある。そのひとつが例の円空上人の鉈(なた)作り観音である。
 
 昭和四十五年、当時八十五歳の石川修次氏の記録によると、「登別温泉の名所、 地獄谷に近い権現沢(湯沢付近か)には、円空上人と申す僧の彫刻になる鉈作り 木像が権現様と称し、三百年前から祭ってありました・然るに明治四十四年(一九一一) 山火のため黒焼けとなりオッポリ出されてあったのを滝本家らは、己(おのれ)が家に 持ち帰り一時お祭りし、後に元の権現沢にお堂をつくりお戻ししたのであります。」と記載。 事実、黒焦げの観世音菩薩像が地獄谷入口に祭られている。
 
 しかし円空上人作「鉈作り観音」の別像が登別温泉の観音山聖(しょう)光院に石川氏 の尽力で安置されているのである。同氏によると、名古屋荒子(あらこ)観音寺の 日置即全(ひおきそくぜん)上人と子弟関係にあり、昭和三十二年同寺より譲り受け、 昭和四十年聖光院に安置されたもので、観音像は台座をいれて三十八センチほど、 薄黒くくすんだ立像は円空後期のはげしく鋭い鉈彫りと異なり、丁寧な仕上げは 初期から中期と言われる頃(延宝・一六七三から天和・一六八三年)の作品であろうか。
 
 また同院本堂には、彫刻家として著名な高村光雲の愛弟子、高村東雲作の三十四体の観音像 が安置されているが説教所時代から七世にあたる渋谷隆芳氏は、このように多くの 東雲の作品が保存されているのも北海道で初めてという。まだまだ登別温泉は、文化財が多いところである。
 
 
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登別温泉の文化財Ⅱ

 登別温泉湯沢神社下の三叉路から地獄谷方向をみると、すぐ傍に高さ三メートル、幅二メートル の黒御影石の立派な頌徳碑(しょうとくひ)がある。滝本金蔵翁、栗林五朔翁の 温泉開発の功績を讃えて建立されたものである。
 
 滝本金蔵翁は武蔵国出身(埼玉県本庄市)、幌別場所請負人岡田半兵衛のあと温泉に湯宿をつくり 登別から温泉まで自費で新道を開削し四人乗りの円太郎馬車を走らせた登別と温泉の先駆者である。
 
 栗林五朔翁は新潟県出身、明治三十八年北海道炭鉱汽船の石炭荷役を引き受け、その後王子製紙、 日本製鋼所の建設資材、機械類の荷役請負などで事業を拡大し、北海道でも伝統のある大企業に成長 させた現在の栗林商会である。
 
 大正二年(一九一三)滝本館・温泉施設・土地・水道営業権などを買収し、大正四年馬車鉄道、 同七年軽便鉄道、同十四年(一九二五)五十人乗りの電車を走らせたなど温泉の 近代化と観光開発に尽くした力は大きい。
 
 この頌徳碑は、二百七十一文字で綴られ比田井天来鴻書となっている。天来は現代書道界の書聖と言われた 桑原翠邦、金子鷗亭の師で書道界の重鎮である。遠くから訪ねる人も多いのに地元で知っている人は 意外と少ない。文化協会の岩原秀夫会長から資料を頂く前までは私も同様であった。隣りの五人の翁の 「功労碑」の三文字も天来によるもの。
 
 
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 また、頌徳碑の表題字は頭山満の書いたものであることに驚く。彼は 福山藩士の筒井亀策の三男で母方の遠山家を継いだ。
 
 明治政府の藩閥政治に強く抵抗して入獄され、出獄後は自由民権運動に参加。 玄洋社などを結成したあとは急進的な国権論を主張、朝鮮独立運動に失敗し日本 に逃亡中の金玉均(親日派)を保護、三民主義を唱えていた孫文の中国革命支援 など強行外交を唱え、大陸進出を推進させ、政・財界の黒幕的存在の巨頭であった から関わりについて一層興味を引く。また、滝本金蔵を世に出し、登別温泉の歴史を 語り続けた名古屋出身の石川修次氏は、登別温泉に来た歌人、文人、書・画家、 政・財界の有名人と会っては作品を頂いて約五百点程蒐(しゅう)集していたと言う。 その作品は現在中登別町のレストラン、サン・グルメ内の喫茶文豪館と二階 和室に展示公開されている。館長は石川雅宥氏で修次氏のご息子である。お許しを 得たので展示物の一部を紹介すると、土井晩翠・徳富蘇峰・与謝野晶子・ 高浜虚子や書家の金子鷗亭・桑原翠邦・伊藤東海・小原道城・中村春堂、画伯の 川端玉章・伊藤晴雨・歌川国峯、短冊に中村不折・馬場孤蝶・河東碧梧桐、等々の作品で肉筆である。
 
 国文学者大町桂月が大正十年来泉の折の
 
 東湯(ひがしゆ)の滝 西(にし)水の滝
 よろつ揃うた 登別
 萬痔 薬湯 薬もきくが
 滝の清水も 肩をもむ。
 
 明治・大正・昭和の三時代に常に民権派の大政治家として活躍した尾崎行雄も大正十五年に来泉し 滝本館で疲れを癒(いや)している。
 
 我行先ハ 何(いず)れな留(る)ら無(ん)
   幾色乃(いくいろの) 地獄那(な)かめて
                    思うかな
 
 書順は右の通りだが、読み方、“幾色乃、地獄那かめて思うかな”が先で、政治に 命をかけた咢堂の生き方が心に伝わるようである。
 
 高かっただろうな、と思いながらもよくこれだけの文化財を登別に残してくれた、と感謝の 気持ちで一杯である。
 
 
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動いている温泉

 登別温泉の地獄祭りも、全国の鬼を集めて「鬼・サミット」を開催したことにより、 全国に紹介され北海道唯一の「地獄の鬼の祭り」として一層定着してきたようである。
 
 鬼の出るような地獄谷の活動の中心は、第一回に紹介したが、「此処は礁石・礁砂で 中程に温泉湯元もあるが、煮る音百千の雷を轟かすが如く・・・」と言うように江戸時代の 地獄谷周辺の温泉活動は現在より激しく場所も広い地域に広がっていたようである。現在、 活動がやや沈静化の傾向にあるようだが、明治以降の活動の様子を考えてみよう。
 
 地獄谷の第一展望から地獄谷の奥、東北の位置に「千畳敷」という場所がある。地獄谷 入口美化センターを左側クッタラ湖周遊道路を進むと、右手に赫岩の絶壁に緑の山、山狭 から谷川の流れがあり、足元の崖下に広大な砂原が見られる。これが奥地獄にある「千畳敷」 で笹山地点から見る景観は雄大で素晴らしい。
 
 現在、地獄谷より一段高く広い此の所も明治十二年(一八七九)頃は、長径約四十メートル 程の大きさの熱湯の温泉地であった跡で、明治十八年頃には、一時間に七・八回の湯が 噴出し、高さも六メートルから十メートルという眼を見張るような噴出ぶりは実に壮大で 見事。宮城県鬼頭(おにがしら)・静岡県熱海温泉とともに日本三大間歇泉の一つに数え られていた温泉地の間歇泉跡である。千畳敷湯沼は沼に溢れ、滝のように地獄谷に落ちて いたと言うが、明治二十一年に突然活動を休止し、翌年再び活動を始めたものの此の時は、 一日に二・三回で高さも一メートル程。明治三十五年(一九〇二)には全く活動を停止して 湯沼も消滅して しまった。
 
 地獄谷遊歩道を奥まで進むと鉄泉池の囲いで終るが此処から東側約十五メートルにお初 地獄と、その岩蔭の裏側に大砲地獄がある。
 
 
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 大正十一年(一九二二)八月、この大砲地獄の所で突然に長さ約五十メートルの熱泥の熱湯、 水蒸気を北北東に大噴出するという珍しい現象があった。一日に数回、大砲のような爆発音を 発して噴出する様子はさすがの温泉人も驚かせたらしい。この大砲地獄も数か月後に衰退し、 更に大正十五年八月に再度噴出活動をみたが数日で終り、現在は上壁も崩落し沈静化している。
 
 第一展望台から地獄谷をみると右手に地獄川が流れ、その左手の北側に地獄山が程近く見える。この 地獄山の東南に、釜・虎・たつまき・大地獄などの地獄が地獄川に添って現出している。
 
 例えば、虎地獄は昭和五年五月、突然大音響を発して高さ二・五メートルの噴湯を始め、回りの 岩片を飛散させて剣が峰の麓部に約三メートルの穴を生じたのが虎地獄で、此の活動が暫く続いた 後に、何故かお湯沼の湯が灰黒色から白色に濁ってきた頃から虎地獄は沈静化している。 釜地獄は昭和十五年十月初旬に大音響とともに壁を崩落させ、地下に微かな煮沸する音響をさせて いた。昭和二十五年頃になると、地獄谷入口に近い大地獄は弱まり、鉛地獄の噴泥現象はみられない。
 
 地獄谷の活動傾向が弱まった前記明治二十一年の温泉活動は大湯沼の活動が激しくなって、 大正五年頃は大湯沼北岸に間歇泉を発生させていた。地獄谷と大湯沼方面の相関関係 も資料をみると興味深い。
 
 それにしても、昭和四十年代に地獄谷・大湯沼附近以外、クスリサンベツ川上流の温泉市街地 には、約四十の湧出口があり間歇泉もあった事が報告されていたが、まるで生きものの様な 状態の温泉の地獄はどう動いているのであろうか。
 
 

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